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大江戸巌窟殿 恨みは捨てない── ただ、置き場所を決める  作者: 真野真名
第三章 名前は穴の中

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第二話|玄斎の決断

――残る者は、出口を完成させる




 傳次郎が外の空気に慣れ始めたころ、巌窟牢の中では、夜が深まっていた。


 深まったところで、変わるものは少ない。

 だが、変わらないからこそ、決断は澄む。


 ***


 佐々木玄斎は、壁に背を預けて座っていた。

 身体は痩せている。

 だが、目は濁っていない。


 抜け道の入り口は、もう見えない。土と石で、丁寧に塞いだ。


 丁寧に、というのが重要だった。乱暴に塞ぐと、痕が残る。


 「通れたか」


 玄斎は、小さく呟いた。

 答えは、聞こえない。


 だが、通れたと分かっている。

 通れなければ、今ごろ、ここは騒がしい。


 騒がしくない、という事実が、成功の証拠だ。


 玄斎は、指を動かした。

 爪の間に、まだ土が残っている。


 この土は、もう取らない。

 取る必要がない。


 これは、終わった仕事の痕だ。


 彼は、ゆっくりと考えた。

 考えることは、もう多くない。


 ――なぜ、自分は残るのか。


 答えは、ずっと前から決まっている。

 問いが、遅かっただけだ。



 玄斎は、外を思い浮かべた。

 外には、返すべきものがある。


 金。

 書付。

 そして、名前。


 金は、土の下に眠っている。

 書付は、寺の床下だ。


 名前は――

 もう、使えない。



 玄斎は、かつて学者だった。

 学者というのは、問いを立てる人間だ。


 だが、問いは、必ず誰かを傷つける。

 自分を含めて。


 玄斎の問いは、間違ってはいなかった。

 だが、早すぎた。


 早すぎた問いは、制度に嫌われる。



 ここに来たとき、玄斎は怒っていた。

 怒りは、鋭く、純粋だった。


 だが、怒りだけでは、出口は掘れない。

 掘れるのは、時間だけだ。


     *


 傳次郎は、若い。

 若いということは、時間があるということだ。


 時間がある者に、出口を渡す。

 それは、合理的な判断だった。


 感情ではない。

 帳尻だ。


 玄斎は、壁に触れた。

 石は、冷たい。


 この冷たさには、慣れている。

 慣れた冷たさは、恐怖にならない。


 「私は、ここで終わる」


 玄斎は、声に出して言った。

 誰に聞かせるでもなく。


 終わる、というのは、負けることではない。

 引き受けることだ。


 外に出た傳次郎は、

 これから、多くの選択をする。


 間違うこともあるだろう。

 怒りを動かしたくなる夜もある。


 だが、学んだ。


 怒りは、寝かせるものだ。

 制度は、使うものだ。

 人は、物語にしない。


 それだけ知っていれば、

 世界とは、戦わずに済む。



 玄斎は、目を閉じた。

 水音が、遠くで戻ってきた。


 ぽと。


 その音は、数えなくていい。


 もう、学ぶことはない。

 教えることも、終わった。


 巌窟牢は、今日も静かだ。

 特別なことは、起きていない。


 それでいい。


 外では、若い男が歩いている。

 名前を持たず、怒りを連れて。


 それが、玄斎の決断だった。




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