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大江戸巌窟殿 恨みは捨てない── ただ、置き場所を決める  作者: 真野真名
第一章 裏切りは藪の中

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第二話|影の薄い男

 ──評価されない不安は、音もなく増える





 権蔵は、自分のことを「まじめな男」だと思っていた。

 思っていた、というのが大事で、胸を張って断言できるほど自信があるわけではない。だが他人に言われたこともない。つまり誰からも評価されていない。評価されていないものは、存在していないのと同じだ。


 遠州屋の朝は早い。店先の掃き清めが終わり、荷を運び込み、帳場が動き出すころ、権蔵はいつも同じ場所に立っている。帳場の端。土間と板の間の境目に近い、どうにも腰を落ち着けにくい場所だ。


 そこが、権蔵の居場所だった。


 帳場の中心には伊兵衛が座り、その横に傳次郎がいる。傳次郎は算盤を弾きながら帳面をめくり、伊兵衛は朱を入れたり、店の者に指示を飛ばしたりする。二人の間には、無駄がない。会話も短い。仕事というものは、本来そういうものなのかもしれない。


 だが権蔵には、それが妙に腹立たしかった。

 理由は簡単だ。

 二人の間に、自分が入る余地がない。


「権蔵、これを奥へ」

 伊兵衛から声が飛ぶ。


 小僧の三吉が、帳面の束を抱えて来た。権蔵は受け取り、奥の棚へ運ぶ。そういう役回りは、いつだって権蔵だ。


 小僧でもできる仕事。


 権蔵は、棚に帳面を押し込んだあと、手のひらを軽く払った。埃が舞う。舞ったところで誰も気にしない。誰も見ていないからだ。

 それが、権蔵の毎日だった。


 ***


 権蔵が遠州屋に入ったのは十一のときだ。

 農家の次男で、口減らしのために江戸へ出された。そういう話は珍しくない。珍しくないから、誰も哀れまない。その代わり、誰も助けない。

 権蔵は、必死に働いた。

 帳面も覚えた。算盤も練習した。夜中、薄暗い行灯の下で珠を弾きながら、指先の皮がむけたこともある。


 ──俺は、ちゃんとやってきた。


 それなのに。

 傳次郎が入ってきたのは、権蔵が十六のときだ。

 整った顔立ちのひょろっとした少年で、最初は「どこぞの親戚筋か」と噂された。だが違った。単なる雇われだ。そう聞いたとき、権蔵は少し安心した。身分の違いなら仕方ないが、同じ雇われなら勝負になる。

 ところが、勝負にならなかった。

 傳次郎は、算盤が異様に速かった。

 速いだけならまだいい。正確だった。しかも、嫌味がない。努力の匂いも、必死さも見せない。息をするみたいに帳面を合わせる。


 伊兵衛が言った。

「こいつは、帳場向きだ」


 そのとき権蔵の胸の中で、何かが静かに欠けた。


 ──じゃあ俺は何向きなんだ。


 誰も答えない問いは、夜になると大きくなる。


 ***


 その日も帳場は忙しかった。

 権蔵は荷札を整理しながら、耳だけは帳場の中心に向けていた。


「傳次郎、ここの端数」


「はい、合ってます。向こうの計上が一つ遅れてます」


 カチ、カチ、カチ。


 算盤の音が澄んでいる。腹立たしいほど澄んでいる。

 傳次郎は、算盤を弾きながら、ときどき何かを考え込んでいる。だがその「考え込み」すら、仕事の一部に見える。権蔵が考え込むと、ただの停滞にしかならない。


 権蔵は、わざと大きめに咳払いをした。

 誰も振り向かない。

 その無視が、権蔵の背中に冷たい刃を当てる。


 ──俺は、いるのか。


 いるはずだ。ここで働いている。汗もかいている。帳面も運んでいる。小僧に指示も出している。なのに、中心にいない。

 中心にいない人間は、いつでも替えが利く。

 替えが利くなら、評価されない。

 評価されないなら、存在しない。


 権蔵の中で、世界の仕組みはそうなっていた。


 ***


 昼休み、裏手の路地で、権蔵は握り飯をかじっていた。

 路地の先では、洗い物の水が流れ、猫が寝ている。平和だ。平和というのは、人の気持ちを無視して成立するものだと権蔵は思う。


「権蔵さん、どうしたの。黙りこんで」


 声をかけたのは、おかみの妹分の女中だった。名はお春。口が軽いので有名だが、悪意はない。悪意がない軽口ほど厄介なものはない。


「別に」


「傳次郎くん、またお美津ちゃんに握り飯もらってたわよ。いいわねえ。ああいうの、男は嬉しいんでしょ」


 権蔵は、握り飯を噛むのをやめた。


 傳次郎。

 お美津。


 その二つの名前が並ぶだけで、腹の底がじっとり湿る。


「……嬉しいんじゃねえの」


 権蔵はそう言って、残りを無理やり口に押し込んだ。

 米が喉につかえる。握り飯というのは、誰が握るかで味が変わるものだ。権蔵の握り飯は、いつも自分で握っている。

 “嬉しい”そういう、当たり前の未来を、あいつは持っている。

 俺にはない。

 権蔵は、そう思った。


 それは理屈ではなく、手触りだった。


 ***


 夕方、帳面の締めが始まると、権蔵は自分の持ち場の帳簿を開いた。

 仕入れの控え。運賃の記録。細かい数字が並んでいる。

 権蔵は数字が嫌いではない。

 数字は嘘をつかない。つかないはずだ。

 だが、数字は書き方次第で形を変える。

 それを知ったのは最近だ。


 たとえば、ここに「油樽一つ」。

 仕入れ値と、売値と、運賃がある。

 運賃は別帳にまとめてもいい。そうすれば、この帳面の見た目はすっきりする。

 すっきりしている帳面は、伊兵衛の目に留まりやすい。

 留まりやすい帳面は、評価されやすい。


 権蔵はそう思った。


 もちろん、嘘を書くわけではない。

 ただ、整理するだけだ。

 まとめるだけだ。

 省くだけだ。

 その「だけ」が、どこへ繋がるかを、権蔵は考えなかった。

 考えたくなかったのかもしれない。


 権蔵は筆を取った。

 しばらく、筆先が宙に浮いている。


 ──これは、悪いことか?


 悪くない。整理だ。帳面を見やすくするための。


 ──でも、別帳に回すと、誰かが数字を追いにくくなる。


 追いにくくなるのは、伊兵衛か。いや、傳次郎か。


 権蔵は、息をひとつ飲み込み、筆を下ろした。

 一行、運賃の記録を別帳へ回す。

 帳面のここには書かない。

 それだけのことだ。

 それだけのはずだった。

 墨が紙に染み込み、乾き始める。

 乾くと、その線は消えない。

 消えないものは、世界に残る。


 権蔵は、そのことを、まだ知らない。


 ***


 夜、店が静まり返るころ、権蔵は帳場の端でひとり帳面を閉じた。

 中心では、伊兵衛が今日も傳次郎の帳面に朱を入れている。


「よし。これでいい」


 その声が、権蔵の耳に刺さった。


 よし。

 それは誰に向けた言葉だろう。

 帳面か。

 傳次郎か。

 それとも今日という日か。

 権蔵にはわからない。

 わからないまま、わからない場所に立っている。


 影の薄い男は、影の薄いまま、静かに筆を置いた。

 そして、その一行の欠落は、誰にも見られないまま、次の日へ持ち越された。

 持ち越されたものは、いつか、返済される。



 利子をつけて。





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