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大江戸巌窟殿 恨みは捨てない── ただ、置き場所を決める  作者: 真野真名
第三章 名前は穴の中

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第一話|狭すぎる抜け道

――人は、通れる幅だけ未来を持つ




 抜け道は、思っていたより狭かった。


 狭い、というより、遠慮がなかった。

 人が通ることを、最初から想定していない幅だ。


 傳次郎は、腹を床に擦りつけ、息を整えた。

 息を整えないと、身体が先に拒否する。


 ***


 夜だった。

 夜だと分かるのは、水音が止まっているからだ。


 巌窟牢は、深夜になると、妙に静かになる。

 看守も、人も、疲れる時間がある。


 疲れは、隙になる。


 「急ぐな」


 玄斎の声は、壁越しに届いた。

 声は低く、短い。


 「急ぐと、身体が膨らむ」


 膨らむ、という表現は正確だった。

 焦ると、人は息を吸いすぎる。


 吸いすぎた息は、出ていかない。


 傳次郎は、吐いた。

 できるだけ、静かに。


 吐くことが、前に進む条件になる。


 それは、人生とよく似ている。


 ***


 抜け道は、岩を穿ったものだった。

 玄斎が、長い時間をかけて削った痕がある。


 爪で、石を削った跡。

 布で、土を拭った跡。


 どれも、派手ではない。

 派手ではないから、残る。


 肩が、引っかかった。


 傳次郎は、動きを止めた。

 止める、という判断ができるようになった自分に、わずかに驚く。


 以前なら、力を入れていた。

 力を入れると、詰まる。


 玄斎の講義が、ここで役に立つ。


 ――選択肢を、減らせ。


 肩をすぼめる。

 顎を引く。

 右足を、先に。


 考えを、動きに変える。


 通れた。


 それだけで、胸が熱くなる。

 だが、喜ばない。


 喜ぶと、身体が緩む。

 緩むと、次で詰まる。


 抜け道は、途中で下りになる。

 下りは、怖い。


 落ちる可能性が、増えるからだ。


 だが、下りは、進んでいる証拠でもある。


 土の匂いが、変わった。

 湿りが薄くなる。


 外に近づいている。


 そのとき、背後で、小さな音がした。


 石が、わずかに崩れる音。


 傳次郎は、動きを止めた。

 心臓が、音を立てそうになる。


 ――音になるな。


 そう言い聞かせる。



 玄斎は、何も言わなかった。

 言わない、という選択をしたのだ。


 声は、命取りになる。


 傳次郎は、ゆっくりと、前に進んだ。

 恐怖を、数にしない。


 恐怖は、数えられない。

 数えられないものは、制御できない。


 だから、動作だけを数える。


 一。

 腕を出す。

 二。

 膝を送る。


 身体が、岩に沿って、少しずつ進む。


 この幅は、偶然ではない。

 玄斎は、意図的に狭くした。


 楽に通れる道は、油断を生む。

 油断は、最後に裏切る。


 傳次郎は、ようやく理解した。


 これは、試練ではない。

 教育だ。


 外に出ても、

 世界は、狭い。


 狭さを受け入れられる者だけが、前に進める。


 指先に、空気の流れを感じた。


 冷たい。

 乾いている。


 外だ。


 傳次郎は、最後に一度だけ、後ろを振り返ろうとして、やめた。


 振り返ると、戻りたくなる。

 戻りたくなると、進めない。


 身体を、前に押し出す。


 肩が、最後に引っかかる。

 だが、今度は、引き戻されなかった。


 抜けた。


 傳次郎は、夜の空気の中に、転がり出た。


 冷たい土。

 星のない空。


 胸いっぱいに、空気を吸う。


 吸いすぎないように。


 自由だ、とは思わなかった。


 思ったのは、これだ。


 ――生き延びた。


 それだけで、十分だった。


 巌窟牢は、背後で、何事もなかったように沈黙している。


 中には、玄斎がいる。


 その事実を、今は、考えない。


 考えると、戻ってしまう。


 


 傳次郎は、闇の中を歩き出した。


 名前は、まだある。

 だが、使わない。


 怒りは、眠っている。

 だが、連れてきた。




 狭すぎる抜け道を通った者だけが、

 世界に、もう一度関わる資格を持つ。




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