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大江戸巌窟殿 恨みは捨てない── ただ、置き場所を決める  作者: 真野真名
第二章 怒りは巌窟の中

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第七話|巌窟牢の学問

 ──ここは、退学のない大学だ





 巌窟牢に、季節は来ない。

 来ないが、変化はある。


 水音の高さが変わり、空気の匂いが変わり、人の咳の質が変わる。


 それで、時が進んでいると分かる。


     *


「学問というのはな」


 玄斎は、ある朝、そう切り出した。


「本来、暇な人間のためのものだ」


 暇。

 この場所ほど、暇な場所はない。


「だからここは、学ぶには最適だ」


 皮肉でも、冗談でもなかった。


     *


 最初に始まったのは、算盤だった。


「算盤は、数字を弾く道具ではない」


 玄斎の声は、もう完全に講義だった。


「選択肢を減らす道具だ」


 傳次郎は、思わず息を吸った。


「世の中は、選択肢が多すぎる。

 多すぎると、人は感情で選ぶ」


 感情。

 怒り。

 恐れ。


「算盤は、感情を切り落とす」


 切り落とす、という言葉は強かったが、ここでは必要な表現だった。


「合うか、合わないか。損か、得か」


 それだけになる。



「だが」


 玄斎は、続けた。


「算盤は、人の価値を測るものではない」


 その一言は、傳次郎の胸に深く刺さった。


「人の価値を数字にし始めたとき、学問は、兵器になる」


 兵器。

 帳簿。

 制度。


 すべてが繋がる。


     *


 次に始まったのは、兵法だった。

 兵法といっても、剣の振り方ではない。


「兵法とは、勝ち方の学問ではない」


 玄斎は言った。


「負けないための学問だ」


 負けない。

 その言葉は、ここでは切実だった。


「勝とうとすると、前に出る。前に出ると、狙われる」


 傳次郎は、奉行所を思い出した。


「負けない者は、目立たない」


 目立たない。

 巌窟殿の未来が、まだ形もなく、そこにあった。



「兵法の基本は、距離だ」


 玄斎は、ゆっくり言った。


「近づきすぎるな。離れすぎるな」


 感情との距離。

 人との距離。


「距離を誤ると、剣を振る前に負ける」


     *


 三つ目は、人の心だった。


「これが、一番難しい」


 玄斎は、少しだけ笑った。


「人は、自分を理解していると思い込む」


 思い込み。

 善意。

 噂。


「だが、人は自分の理由を後から作る」


 後から。


「だから、言葉より行動を見ろ」


 傳次郎は、頷いた。


 帳簿。

 噂。

 制度。


 すべて、行動だった。



「人は、自分が正しいと思える話に弱い」


 玄斎は、淡々と続けた。


「正しさは、刃物より切れる」


 切れ味の良い正しさほど、血を見せない。


「だから、正しさを振りかざす人間からは、距離を取れ」


     *


 学問は、毎日少しずつ進んだ。


 一日に一つ。

 多くても二つ。


 詰め込まない。

 怒りを起こさない。


     *


 傳次郎は、変わっていった。

 怒りは、ある。

 だが、音を立てない。

 憎しみも、ある。

 だが、形を急がない。


 代わりに、視界が広がった。


 世界は、単純ではない。

 だが、無秩序でもない。


     *


 ある夜、傳次郎は言った。


「ここは……大学ですね」


 玄斎は、くぐもった笑いを漏らした。


「そうだ。しかも、退学がない」


 逃げ場もない。


「だが」


 玄斎は、静かに付け足した。


「卒業は、ある」


 卒業。


 その言葉が、初めて外の空気を連れてきた。


     *


 水音がした。


 ぽと。


 その一滴は、もう数える必要がなかった。


 学問は、道具だ。

 道具は、使うためにある。

 巌窟牢の学問は、外へ出るためのものだった。



 傳次郎は、そのことを、はっきり理解した。





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