第七話|巌窟牢の学問
──ここは、退学のない大学だ
巌窟牢に、季節は来ない。
来ないが、変化はある。
水音の高さが変わり、空気の匂いが変わり、人の咳の質が変わる。
それで、時が進んでいると分かる。
*
「学問というのはな」
玄斎は、ある朝、そう切り出した。
「本来、暇な人間のためのものだ」
暇。
この場所ほど、暇な場所はない。
「だからここは、学ぶには最適だ」
皮肉でも、冗談でもなかった。
*
最初に始まったのは、算盤だった。
「算盤は、数字を弾く道具ではない」
玄斎の声は、もう完全に講義だった。
「選択肢を減らす道具だ」
傳次郎は、思わず息を吸った。
「世の中は、選択肢が多すぎる。
多すぎると、人は感情で選ぶ」
感情。
怒り。
恐れ。
「算盤は、感情を切り落とす」
切り落とす、という言葉は強かったが、ここでは必要な表現だった。
「合うか、合わないか。損か、得か」
それだけになる。
「だが」
玄斎は、続けた。
「算盤は、人の価値を測るものではない」
その一言は、傳次郎の胸に深く刺さった。
「人の価値を数字にし始めたとき、学問は、兵器になる」
兵器。
帳簿。
制度。
すべてが繋がる。
*
次に始まったのは、兵法だった。
兵法といっても、剣の振り方ではない。
「兵法とは、勝ち方の学問ではない」
玄斎は言った。
「負けないための学問だ」
負けない。
その言葉は、ここでは切実だった。
「勝とうとすると、前に出る。前に出ると、狙われる」
傳次郎は、奉行所を思い出した。
「負けない者は、目立たない」
目立たない。
巌窟殿の未来が、まだ形もなく、そこにあった。
「兵法の基本は、距離だ」
玄斎は、ゆっくり言った。
「近づきすぎるな。離れすぎるな」
感情との距離。
人との距離。
「距離を誤ると、剣を振る前に負ける」
*
三つ目は、人の心だった。
「これが、一番難しい」
玄斎は、少しだけ笑った。
「人は、自分を理解していると思い込む」
思い込み。
善意。
噂。
「だが、人は自分の理由を後から作る」
後から。
「だから、言葉より行動を見ろ」
傳次郎は、頷いた。
帳簿。
噂。
制度。
すべて、行動だった。
「人は、自分が正しいと思える話に弱い」
玄斎は、淡々と続けた。
「正しさは、刃物より切れる」
切れ味の良い正しさほど、血を見せない。
「だから、正しさを振りかざす人間からは、距離を取れ」
*
学問は、毎日少しずつ進んだ。
一日に一つ。
多くても二つ。
詰め込まない。
怒りを起こさない。
*
傳次郎は、変わっていった。
怒りは、ある。
だが、音を立てない。
憎しみも、ある。
だが、形を急がない。
代わりに、視界が広がった。
世界は、単純ではない。
だが、無秩序でもない。
*
ある夜、傳次郎は言った。
「ここは……大学ですね」
玄斎は、くぐもった笑いを漏らした。
「そうだ。しかも、退学がない」
逃げ場もない。
「だが」
玄斎は、静かに付け足した。
「卒業は、ある」
卒業。
その言葉が、初めて外の空気を連れてきた。
*
水音がした。
ぽと。
その一滴は、もう数える必要がなかった。
学問は、道具だ。
道具は、使うためにある。
巌窟牢の学問は、外へ出るためのものだった。
傳次郎は、そのことを、はっきり理解した。




