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大江戸巌窟殿 恨みは捨てない── ただ、置き場所を決める  作者: 真野真名
第二章 怒りは巌窟の中

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第六話|怒りを寝かせる

 ──感情は、動かさなければ腐らない





 その日は、水音が少なかった。


 ぽと。

 間が長い。

 数えようとしても、数にならない。


 傳次郎は、数えるのをやめていた。


     *


「怒りはな」


 玄斎は、低い声で言った。


「溜めるものだと思われがちだが、違う」


 溜める。

 その言葉は、確かに怒りに似合う。


「溜めると、圧がかかる。圧がかかると、必ず漏れる」


 漏れる怒りは、制御できない。


「怒りは、置くものだ」


 置く。


 その言い方は、奇妙だった。



「君は、怒りを感じているか」


 玄斎の問いは、静かだった。


「……はい」


 傳次郎は、初めてそう答えた。

 答えたことで、怒りが少しだけ輪郭を持つ。


「それでいい」


 玄斎は、すぐに言った。


「感じたことを、否定するな。

 否定すると、怒りは暴れる」



「だが」


 玄斎は、言葉を切った。


「怒りに、すぐ意味を与えるな」


 意味。

 正義。

 復讐。

 そういう言葉は、怒りを立たせる。


「意味を与えると、怒りは働き始める。働き始めた怒りは、君を使う」


 使われる怒りは、短命だ。



「寝かせる、とは」


 玄斎は、講義の核心に入った。


「怒りを、時間の中に沈めることだ」


 沈める。

 消すのではない。


「冷やす。動かさない。触らない」


 酒と同じだ。

 寝かせるほど、性質が分かる。


「腐る怒りは、雑音が多い」


 誰が悪い。

 なぜ自分が。

 今すぐ返せ。


「熟す怒りは、静かだ」


 誰に。

 何を。

 どこまで。



 傳次郎は、壁に背を預けた。


「……では、いつ動かすのですか」


 それは、未来を問う言葉だった。


「条件が揃ったときだ」


 玄斎は、迷いなく言った。


「知識が揃い、資が揃い、心が揃ったとき」


 三つ。

 感情ではない。


「その三つが揃わないうちは、怒りは動かしてはいけない」



「動かすと、どうなりますか」


「自分が壊れる」


 即答だった。


「壊れた人間は、相手を壊す前に、己を失う」


 傳次郎は、その言葉を深く吸い込んだ。



「君は、まだ若い」


 玄斎は、少し声を和らげた。


「若い怒りは、勢いがある。だが、勢いは、武器にはならない」


 武器。

 その言葉は、初めて出た。


「武器になる怒りは、持ち主を選ぶ」



 水音がした。


 ぽと。


 今日は、その一滴が、妙に澄んで聞こえた。


「君は、今すぐ何かをする必要はない」


 玄斎は、結論を言った。


「生き延びろ。考えろ。学べ」


 それだけでいい。


     *


 その夜、傳次郎は怒りを探した。

 胸の奥に、確かにある。

 だが、触らない。

 怒りは、眠っている。

 眠っている間は、暴れない。


 巌窟牢の闇の中で、

 初めて、時間が味方に見えた。



 講義は、折り返しに入った。





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