第六話|怒りを寝かせる
──感情は、動かさなければ腐らない
その日は、水音が少なかった。
ぽと。
間が長い。
数えようとしても、数にならない。
傳次郎は、数えるのをやめていた。
*
「怒りはな」
玄斎は、低い声で言った。
「溜めるものだと思われがちだが、違う」
溜める。
その言葉は、確かに怒りに似合う。
「溜めると、圧がかかる。圧がかかると、必ず漏れる」
漏れる怒りは、制御できない。
「怒りは、置くものだ」
置く。
その言い方は、奇妙だった。
「君は、怒りを感じているか」
玄斎の問いは、静かだった。
「……はい」
傳次郎は、初めてそう答えた。
答えたことで、怒りが少しだけ輪郭を持つ。
「それでいい」
玄斎は、すぐに言った。
「感じたことを、否定するな。
否定すると、怒りは暴れる」
「だが」
玄斎は、言葉を切った。
「怒りに、すぐ意味を与えるな」
意味。
正義。
復讐。
そういう言葉は、怒りを立たせる。
「意味を与えると、怒りは働き始める。働き始めた怒りは、君を使う」
使われる怒りは、短命だ。
「寝かせる、とは」
玄斎は、講義の核心に入った。
「怒りを、時間の中に沈めることだ」
沈める。
消すのではない。
「冷やす。動かさない。触らない」
酒と同じだ。
寝かせるほど、性質が分かる。
「腐る怒りは、雑音が多い」
誰が悪い。
なぜ自分が。
今すぐ返せ。
「熟す怒りは、静かだ」
誰に。
何を。
どこまで。
傳次郎は、壁に背を預けた。
「……では、いつ動かすのですか」
それは、未来を問う言葉だった。
「条件が揃ったときだ」
玄斎は、迷いなく言った。
「知識が揃い、資が揃い、心が揃ったとき」
三つ。
感情ではない。
「その三つが揃わないうちは、怒りは動かしてはいけない」
「動かすと、どうなりますか」
「自分が壊れる」
即答だった。
「壊れた人間は、相手を壊す前に、己を失う」
傳次郎は、その言葉を深く吸い込んだ。
「君は、まだ若い」
玄斎は、少し声を和らげた。
「若い怒りは、勢いがある。だが、勢いは、武器にはならない」
武器。
その言葉は、初めて出た。
「武器になる怒りは、持ち主を選ぶ」
水音がした。
ぽと。
今日は、その一滴が、妙に澄んで聞こえた。
「君は、今すぐ何かをする必要はない」
玄斎は、結論を言った。
「生き延びろ。考えろ。学べ」
それだけでいい。
*
その夜、傳次郎は怒りを探した。
胸の奥に、確かにある。
だが、触らない。
怒りは、眠っている。
眠っている間は、暴れない。
巌窟牢の闇の中で、
初めて、時間が味方に見えた。
講義は、折り返しに入った。




