第五話|講義・第三講
──制度は、人の代わりに決断する
その日の講義は、少し遅れて始まった。
水音が、いつもより乱れていた。
ぽと、ぽと、ではなく、ぽ……と、間が伸びる。
「今日は、水が迷っているな」
玄斎が言った。
「人が迷うと、制度が働く」
傳次郎は、その言葉の意味をすぐには理解できなかった。
制度という言葉は、牢の中では少し浮いて聞こえる。
「制度とは、何ですか」
そう聞いたとき、自分がずいぶん遠くへ来た気がした。
以前の自分なら、制度など考えなかった。算盤を弾き、帳面を合わせ、ただ日々を過ごしていた。
だが今は、違う。なぜ、を問う。どうして、を問う。
以前の自分なら、こんな問いはしなかった。
「制度とはな」
玄斎は、少し考える間を置いた。
「人が考えなくても済むように作られた仕組みだ」
考えなくても済む。
それは、便利な言葉だ。
「奉行所の役人は、悪人か」
玄斎は、唐突に問うた。
「……分かりません」
傳次郎は、正直に答えた。
「だろうな」
玄斎は、淡々と続ける。
「大半は、まじめだ。仕事をしているつもりで、仕事をしている」
しているつもり。
その言葉が、妙に引っかかる。
「制度は、まじめな人間に任せると、よく暴走する」
玄斎は、声を低くした。
「制度は、速さを好む」
速さ。
それは、奉行所で何度も聞いた言葉だった。
主膳。あの役人の顔が浮かぶ。
「滞りなく」「速やかに」そんな言葉を、何度も聞いた。
「速く判断する。速く終わらせる。速く片づける」
速さは、美徳に見える。
「だが、速さは、確認を嫌う」
確認。
帳簿。
一行の欠落。
すべてが、一本の線で繋がった。
「制度が動き出すとき」
玄斎は、講義口調になっていた。
「誰かが『念のため』と言う」
念のため。
それは、傳次郎の耳にも残っている。
「『万一に備えて』、『誤解があってはならない』」
その言葉たちは、正しそうに見える。
「だが、その言葉が出た瞬間、人はもう、止める役目を放棄している」
「制度は、責任を取らない」
玄斎は、きっぱりと言った。
「責任は、人に押し付ける。だが、決断は、制度がした顔をする」
その構造は、美しかった。
美しすぎて、疑われない。
「だから制度は、悪意なしに人を潰す」
傳次郎は、声を震わせずに聞いた。
「……私は、なぜ選ばれたのですか」
選ばれた。
その言葉には、諦めが混じっている。
「選ばれたのではない」
玄斎は、即座に否定した。
「一番、話を収めやすかった」
その答えは、残酷だった。
「若い。帳場を預かっている。独り身──いや、婚約者がいる」
そう言って玄斎は指を三本立てた。
「若いから、経験が浅い。経験が浅いから、間違いを犯しやすい、と思われる。帳場を預かっているから、責任がある、と言える。婚約者がいるから、動機がある、と言える」
未来がある、という条件は、皮肉にも動機になる。
「制度は、物語を必要とする」
物語。
噂。
帳簿。
「物語に合う者が、選ばれる」
水音がした。
ぽと。
今日は、その音が重く感じられた。
「では……どうすれば」
傳次郎は、もう答えがないと分かっていても、聞いた。
「どうもしない」
玄斎は、静かに言った。
「制度に正しさを求めるな」
その言葉は、救いではない。
「制度は、使うものだ」
使う。
その動詞が、初めて未来を指した。
「君は、制度に負けたのではない」
玄斎は、最後にそう言った。
「制度を知らなかっただけだ」
知らなかった。
それは、罪ではない。
だが、代償は大きい。
「知った者は、次に同じ場所に立ったとき、違う」
次。
その言葉は、まだ現実味を持たない。
だが、玄斎は言っている。次がある、と。
次があるなら、今は準備だ。
*
その夜、傳次郎は考えた。
権蔵。
佐吉。
主膳。
誰も、怪物ではない。
誰も、悪人ではない。
だが、三人とも、制度の歯車だった。
歯車は、回る。
止めない限り。
怒りが、胸の奥で、ほんのわずかに形を取り始めた。
だが、まだ動かさない。
寝かせる。
腐らせないために。




