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大江戸巌窟殿 恨みは捨てない── ただ、置き場所を決める  作者: 真野真名
第二章 怒りは巌窟の中

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第四話|講義・第二講

 ──噂は、誰の声でもなくなったとき完成する





 その日の講義は、水音より先に始まった。


「噂はな、声が小さいうちは無害だ」

 玄斎の声は、昨日より少し低かった。

 低い声は、断定に向いている。


「君は、噂を聞いたことがあるか」

「……はい」


 傳次郎は答えた。

 聞いたことがない人間など、いない。


「信じたか」


「……分かりません」


「それでいい」


 玄斎は言った。


「噂というのは、信じられた瞬間に力を持つわけじゃない」


 その言い方は、少し意外だった。


「力を持つのは、誰が言ったか分からなくなった瞬間だ」


 玄斎は、ゆっくりと言葉を続けた。


「最初の噂は、だいたい弱い。『らしい』『かもしれない』『聞いた話だ』この三つが揃っている」


 傳次郎は、思い出していた。

 酒場のざわめき。

 曖昧な笑い。


「だが、二人目が言うとき、言葉は少し削られる」


 玄斎の声は、刃物の話をするみたいに正確だった。


「三人目になると、『らしい』が消える。四人目で、『聞いた話だ』が消える。五人目で、事実になる」


 事実。

 その言葉が、牢の空気を少し重くした。


「ここで大事なのは、誰も嘘をついていないことだ」


 玄斎は、淡々と言った。


「皆、自分が聞いた形のまま、次に渡している」


 善意。

 また、その言葉だ。


「噂は、責任を持たない善意でできている」


 傳次郎は、胸の奥がわずかに疼いた。


「では……止める方法は」


 聞かずにはいられなかった。


「止める?」


 玄斎は、少し考える間を置いた。


「止めることは、できる」


 傳次郎は、息を詰めた。


「だが、それには条件がある」


「……何でしょう」


「最初の声が、最後まで責任を取ることだ」


 その言葉は、牢の壁に吸い込まれていった。


「だが、そんなことをする人間は、ほとんどいない」


 玄斎は続けた。


「噂を流した者は、流した自覚がない。聞いた者は、広めた自覚がない」


 自覚がない。

 それが、噂の完成条件だ。


「だから噂は、誰の罪でもなく、誰かを壊す」


 傳次郎は、声を絞り出した。


「……私は、どうすればよかったのですか」


 また、その問いだ。

 だが昨日とは違う。

 今日は、答えが欲しかった。


「君が、噂を止めることはできなかった」


 玄斎は、即答した。

 慰めではない。

 事実だ。


「噂は、本人が気づいたときには、もう本人のものではない」


 その言葉で、傳次郎の中の何かが、静かに崩れた。


「噂というのはな」


 玄斎は、最後にこう言った。


「正しさではなく、居心地の良さで選ばれる」


 居心地。

 その言葉は、残酷だった。


「人は、分からない話より、分かった気になる話を好む」


 密貿易。

 異国船。

 若い手代。


 分かりやすい。


「分かりやすい話は、疑われない」


     *


 水音がした。

 ぽと。

 今日は、その音が遠く感じられた。


「講義は、これで終わりですか」


 傳次郎は聞いた。


「いや」


 玄斎は、少しだけ声を和らげた。


「今日の講義は、ここからだ」


 ここから。


「君は、噂を恨むな」


「……恨まない?」


「恨むと、相手がいない」


 相手がいない怒りは、行き場を失う。


「噂は、道具だ。誰かが使う。誰かが片づける」


 片づける。

 その言葉が、まだ意味を持たないまま、傳次郎の中に落ちた。


     *


 その夜、傳次郎は、佐吉の顔を思い浮かべた。

 軽い笑い。悪意のない目。

 噂は、彼一人の罪ではない。

 だが、彼から始まった。

 その事実を、怒りに変えない。

 まだ、変えない。


 怒りは、寝かせる。

 腐らせないために。


 講義は、続く。






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