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大江戸巌窟殿 恨みは捨てない── ただ、置き場所を決める  作者: 真野真名
第二章 怒りは巌窟の中

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第三話|講義・第一講

 ── 一行は、帳簿より先に心で歪む





 その日の講義は、予告なく始まった。


 ぽと、という水音が三つ続いたあと、玄斎が言った。


「帳簿というものは、怖い」


 傳次郎は、目を開けた。

 怖い、という言葉が、ここでは珍しかったからだ。


「数字は正確だ。正確すぎて、人の事情を待たない」


     *


「君は、帳場にいたな」


「……はい」


「算盤が使える者は、だいたい同じ場所に行き着く」


 玄斎の声は、責めない。

 責めないから、聞ける。


「帳簿は、世界を平らにする。誰が書いたか、なぜ書いたかを、消してしまう」


 傳次郎は、遠州屋の帳場を思い出した。

 紙と墨。

 朱。

 合っている数字。


「帳簿に書かれているのは、結果だけだ」


 玄斎は続けた。


「過程は、書かれない。だから、過程は疑われる」


     *


 玄斎は、少し間を置いた。


「君は、誰かが帳簿を歪めたと思うか」


 傳次郎は、すぐには答えられなかった。


 歪めた。

 その言葉には、意図が含まれる。


「……故意では、ありません」


「だろうな」


 即答だった。


「帳簿が歪むとき、たいていは善意だ」


 善意。

 その言葉が、胸に刺さる。


「見やすくしたい」

「分かりやすくしたい」

「評価されたい」


 どれも、悪くない。

 悪くないから、止まらない。


     *


「一行が消えるとき」


 玄斎は、淡々と言った。


「消えたのは、文字ではない」


 傳次郎は、息を整えた。


「消えたのは、『確認される機会』だ」


 その言葉で、すべてが繋がった。


 帳簿の欠落。

 別帳。

 説明の余地。


 説明の余地が消えた瞬間、話は完成する。


     *


「人は、帳簿より先に歪む」


 玄斎は、そう締めた。


「歪んだ心は、帳簿を整えようとする。整えるほど、歪みは見えなくなる」


 見えなくなる、というのが肝だ。


 見えないものは、想像される。

 想像されたものは、事実より強い。


     *


 傳次郎は、静かに尋ねた。


「では……どうすれば、よかったのでしょう」


 その問いには、後悔が混じっている。

 玄斎は、それを聞き逃さなかった。


「よかった、という言葉は、後からしか使えない」


 優しくも、厳しい答えだった。


「帳簿の前に、人を見ることだ」


「……人」


「帳簿は、人を守らない。人が、人を守る」


 その言葉は、理想論にも聞こえる。

 だが、理想論だと切り捨てるには、ここは現実すぎた。


     *


 ぽと。


 水音がした。


 傳次郎は、今日は数えなかった。


「講義は、これで終わりですか」


「今日はな」


 玄斎は言った。


「講義は、一日に一つでいい。詰め込みすぎると、怒りが目を覚ます」


 怒り。

 その言葉が、久しぶりに出た。


「君は、まだ怒っていない」


「……はい」


「それでいい」


 玄斎は、満足そうだった。


「怒りは、理解と一緒に来る。理解が早すぎると、人は壊れる」


     *


 その夜、傳次郎は、帳簿を頭の中で開いた。


 数字は合っている。

 だが、そこに人の顔を並べてみる。


 権蔵。

 評価。

 善意。


 一行の欠落は、誰かの悪ではない。

 それでも、人生を欠落させる。


 その理不尽を、怒りに変えない。

 まだ、変えない。


 玄斎の言う通り、寝かせる。


 怒りは、寝かせなければ腐る。


 講義は、始まったばかりだった。





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