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大江戸巌窟殿 恨みは捨てない── ただ、置き場所を決める  作者: 真野真名
第二章 怒りは巌窟の中

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第二話|隣の牢の声

 ──知識は、音より遅れて届く





 その声は、ある日、突然そこにあった。

 突然といっても、雷のように落ちてきたわけではない。

 ぽと、という水音と、水音のあいだに、挟まるようにして聞こえた。


「……数えているのかね」


 低い声だった。

 老いているが、弱ってはいない。喉を使い慣れた声だ。


 傳次郎は、数を止めなかった。

 三十六。

 三十七。


 止める理由が、まだなかった。


     *


「水の音だろう」


 隣の牢から、また声がした。


「一日に、だいたい八千前後だ。ここは湿りが強いから、少し多い」


 三十八。

 三十九。


 かずを言われると、無視しにくい。

 しかも、その数は、適当ではなかった。


 傳次郎は、四十で数を止めた。


「……どうして、分かるんですか」


 自分の声が、少し掠れていることに気づいた。

 何日ぶりに、人に向けて声を出したのか、分からない。


「数えたからだ」


 声は、当たり前のことのように言った。


「正確に言えば、数え続けて、途中でやめた」


 その言い方に、妙な親しみがあった。

 成功談ではない。失敗談だ。


     *


 しばらく、沈黙があった。

 沈黙は、ここでは普通だ。

 傳次郎は、聞くかどうか迷った。

 聞けば、世界が増える。

 増えた世界は、管理しなければならない。


「……お名前は」


 結局、聞いた。


 管理する価値がある、と判断したのだ。


「佐々木玄斎」


 間を置いて、声は続けた。


「昔は、学者と呼ばれていた。今は、囚人だ」


 学者。

 その言葉は、久しぶりに聞いた気がした。


     *


「君は」


「傳次郎です」


「ほう。若いな」


 それは質問ではない。

 確認だ。


「ここは、若い者には厳しい」


「……皆さん、そう言います」


 玄斎は、小さく笑った。

 笑い声は、乾いていない。


「そう言う者は、大抵、すぐに壊れる」


 淡々とした声だった。

 忠告でも、脅しでもない。


「壊れないためには、どうすれば」


 傳次郎は、自分がそんなことを聞いたことに驚いた。

 答えを求めている、というより、問いを外に出したかった。


「世界を、少しだけ狭くすることだ」


 玄斎は、すぐに答えた。


「ここでは、広い世界は毒になる」


     *


 玄斎は、話し続けた。


「君は、何を数えている」


「水の音です」


「良い」


 即答だった。


「数えられるものは、制御できる。制御できるものは、恐怖にならない」


 傳次郎は、壁に背を預けた。

 隣に誰かがいる、という事実が、思ったより大きかった。


「だが」


 玄斎は、言葉を切った。


「数だけに頼ると、いずれ間違える。人は、必ず疲れるからだ」


 その言葉に、傳次郎は昨日のことを思い出した。

 三十九の次が、四十一になった瞬間。


「間違えました」


「だろう」


 玄斎は、責めなかった。


「間違えたと気づいたなら、まだ良い」


     *


 玄斎は、しばらく黙ったあと、こう言った。


「君は、怒っているか」


 唐突だった。

 だが、避けられない問いでもあった。


「……分かりません」


 それが、正直な答えだった。


「分からないうちは、安全だ」


 玄斎は言った。


「怒りは、自覚した瞬間に、形を持つ」


 形を持つ。

 その言い方が、妙に具体的だった。


「形を持った怒りは、ここでは使い道がない」


「では、どうすれば」


 傳次郎は、また聞いていた。


「寝かせる」


 玄斎は、静かに言った。


「怒りは、寝かせなければ腐る」


     *


 その言葉は、すぐには理解できなかった。

 だが、理解できない言葉ほど、長く残る。


「寝かせる、とは」


「動かさないことだ」


 玄斎の声は、講義口調に近づいていた。


「怒りに意味を与えない。理由も、正義も、先に作らない。ただ、そこに置いておく」


 置いておく。

 それは、逃げることとは違う。


「いつまで」


「必要になるまで」


 必要。

 その言葉が、重く落ちた。


     *


 ぽと。


 水の音がした。


 傳次郎は、反射的に数えそうになり、やめた。


「数えなくていいのですか」


「今日は、いい」


 玄斎は言った。


「今日は、声を聞いた。十分だ」


 聲。

 人の声。


 それは、音ではあるが、数えるものではない。


     *


 その夜、傳次郎は久しぶりに、数を数えずに目を閉じた。

 水音は、聞こえている。

 だが、恐怖にはならなかった。

 隣に、知性がある。

 それだけで、世界は少しだけ、形を取り戻す。

 巌窟牢で、最初の会話が終わった。



 まだ、何も教わっていない。

 だが、教わる準備は、整った。






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