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大江戸巌窟殿 恨みは捨てない── ただ、置き場所を決める  作者: 真野真名
第二章 怒りは巌窟の中

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第一話|滴る音の数え方

──怒りは、音にならないうちは暴れない





 音は、滴っていた。


 ぽと。

 間を置いて、ぽと。


 水の音だと分かるまでに、長い時間がかかった。

 最初は、自分の鼓動だと思った。次に、誰かの呼吸だと思った。だが、どちらでもない。一定で、正確で、感情がない。


 音は、数えられる。


 傳次郎は、そう気づいたとき、まだ正気だった。


     *


 巌窟牢での時間は、伸びない。

 伸びない代わりに、重なる。


 朝も夜も、ほとんど同じ暗さだ。人の気配が増えると昼で、減ると夜になる。それくらいの違いしかない。


 傳次郎は、最初の数日は、何もしなかった。

 何もしないというのは、考えないという意味ではない。むしろ逆だ。考えることしかできない。


 ──なぜ。


 なぜ、帳簿に欠落があったのか。

 なぜ、噂が広がったのか。

 なぜ、誰も助けてくれなかったのか。

 その問いは、何度も頭を巡った。

 だが、答えは出ない。


 理由は、もう用意されている。

 自分が納得するかどうかとは、関係なく。


     *


 怒りは、なかった。


 少なくとも、自分ではそう思っていた。

 いや、正確には、怒りを感じないようにしていた。

 怒ると、どうなるか。ここでは、誰にも向けられない。向けられない怒りは、自分を食う。

 怒りを感じなければ、胸の奥が熱くなることもない。歯を食いしばることもない。ただ、冷たい。

 冷たいものは、形を保つ。

 形を保つから、壊れない。

 傳次郎は、壊れないことを選んでいた。


 選んだ自覚はない。だが、そうなっていた。


     *


 ぽと。


 音がした。

 傳次郎は、音の回数を数え始めた。


 一。

 二。

 三。


 十まで数えると、間隔が少しずれる。

 だが、二十まで行くと、また揃う。

 水は、正直だ。

 水は、嘘をつかない。


 嘘をつかないものは、信じやすい。


     *


 牢の中には、人がいる。

 だが、話さない。

 話さないのは、優しさでもある。

 ここで話す言葉は、だいたい過去の話だ。過去の話は、聞くと腹が立つか、悲しくなる。

 どちらも、今はいらない。


 傳次郎は、視線を上げなかった。

 上げると、何かを期待してしまう。


     *


 食事は、置かれる。

 扉の隙間から椀が差し込まれる。雑穀や野菜屑の混ざった、かて飯と水。それだけ。

 呼ばれもしないし、説明もない。

 傳次郎は、食べた。

 味は、分からない。

 味が分からないというのは、舌が鈍っているのではない。心が、味を拾わない。


 拾わないものは、残らない。


     *


 ぽと。


 傳次郎は、数える。


 三十七。

 三十八。


 あるとき、数を間違えた。

 三十九の次が、四十一になった。

 その瞬間、胸の奥が少しだけざわついた。


 ──間違えた。


 間違えたことが、分かる。

 分かるうちは、大丈夫だ。


 自分で自分を確認する。

 それが、ここでの仕事になる。


     *


 夜。

 たぶん夜。


 牢の奥で、誰かが寝返りを打つ。

 藁が擦れる音。

 傳次郎は、目を閉じた。

 お美津の顔は、浮かばなかった。

 無理に浮かべなかった。

 浮かべると、音が乱れる。


 音が乱れると、数えられない。


     *


 怒りは、音にならない。

 音にならないうちは、制御できる。

 傳次郎は、まだ怒っていなかった。

 少なくとも、怒りを許していなかった。

 怒りは、許すと暴れる。

 暴れると、ここでは壊れる。


 壊れたものは、戻らない。


     *


 ぽと。


 傳次郎は、また数え始める。


 一。

 二。


 数えるという行為が、世界をつなぎ止める。

 つなぎ止めている限り、落ちきらない。


 巌窟牢は、底ではない。

 底だと思った瞬間、人は沈む。

 傳次郎は、まだ沈んでいなかった。

 音が、教えてくれる。


 ぽと。


 生きている、ということを。


 そのとき、牢の奥から、声がした。


「数えているのか」


 傳次郎は、息を止めた。

 誰も話さないはずだった。だが、その声は、問いかけていた。

 傳次郎は、答えなかった。答え方が、分からなかった。



 声は、もう何も言わなかった。






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