幕間|信じるという仕事
──それは、誰にも頼まれていない労働だった
最初に異変を感じたのは、店の前が静かすぎたときだった。
お美津は、朝いつものように小間物屋の暖簾を出し、箒で表を掃いていた。風もある。人もいる。なのに、音が足りない。
算盤の音が、聞こえなかった。
遠州屋は向かいだ。帳場は奥にあるから、はっきり聞こえるわけではない。それでも、毎日、決まった時刻になると、かすかに、カチ、カチ、とした音が混じる。
それが、世界から抜け落ちていた。
──今日は、遅いのかしら。
そう思ったときには、もう胸の奥がざわついていた。
*
昼前、噂は届いた。
噂は、必ず他人の口を借りてくる。
「遠州屋の若い手代さん、奉行所に呼ばれたって」
お美津は、手にしていた布を落とした。
「……誰が?」
「誰って、ほら、算盤の上手な」
その言い方で、名前を言われる前に分かった。
お美津は、布を拾い、丁寧に畳んだ。
丁寧に畳まないと、心が追いついてこない。
「理由は?」
「さあ……異国船とか」
異国船。
その言葉は、遠い。
遠すぎて、現実味がない。
「それは、違います」
お美津は、思わず言っていた。
言ったあとで、自分が何を否定したのか分からなくなった。
異国船か。
罪か。
それとも、噂という形そのものか。
*
お美津は、奉行所へ行った。
行けば、何か分かると思った。
分かる、という言葉には、希望が含まれている。
だが奉行所は、希望を扱わない。
「関係者以外はお引き取りを」
それが、最初の言葉だった。
「許嫁です」
「家族ではない」
それだけで、話は終わる。
お美津は、引き下がらなかった。
引き下がらなければ、何かが起きると思っていた。
だが、起きたのは、同じ言葉の繰り返しだけだった。
「調査中です」
「お答えできません」
「しかるべき手続きが」
しかるべき、という言葉ほど、行き先のない言葉はない。
*
帰り道、お美津は橋の上で立ち止まった。
川は、いつも通り流れている。
──何も、変わっていない。
世界は、傳次郎が捕まったことを、特別な出来事として扱っていない。
それが、怖かった。
*
次の日も、その次の日も、お美津は動いた。
遠州屋へ行き、伊兵衛に頭を下げ、話を聞いた。
「傳次郎は、そんなことをする人じゃありません」
それは、断定だった。
証拠はない。
だが、生活が証拠だった。
毎朝同じ時刻に出て、
算盤を弾き、
帰りに声をかけて、
約束を守る。
そういう積み重ねは、書類にならない。
「……そうだな」
伊兵衛は、そう言った。
そう言ったが、それ以上は言わなかった。
言えないのだ。
*
噂は、お美津の耳にも容赦なく入ってくる。
「でも、帳簿がどうとか」
「奉行所が動いたなら、何かあるんでしょ」
そのたびに、お美津は言った。
「ありません」
それが、仕事になった。
信じるという仕事。
誰にも頼まれていない。
報われる保証もない。
*
数日後、面会が許された。
声は出せない。
時間は短い。
格子の向こうに、傳次郎がいた。
痩せてはいない。
だが、軽くなっていた。
お美津は、言いたいことが山ほどあった。
言葉にすれば、溢れて止まらなくなる。
だから、言わなかった。
ただ、見た。
見て、頷いた。
──私は、信じている。
それだけを、目で伝えた。
傳次郎も、頷いた。
それは、「大丈夫」という嘘だった。
嘘だと分かっていても、受け取った。
*
面会が終わり、背を向けたとき、お美津は初めて泣いた。
声は出さなかった。
声を出すと、何かを壊してしまう気がした。
*
その夜、お美津は考えた。
もし、無実だと証明されたら。
もし、戻ってきたら。
だが、その「もし」は、日に日に軽くなる。
軽くなって、浮いて、やがて消える。
残るのは、今だ。
今、信じる。
今、動く。
今、待つ。
それ以上のことは、できない。
*
数日後、判決が出たと聞いた。
終身。
巌窟牢。
言葉は、意味を伴わなかった。
意味を伴わない言葉は、ただの音だ。
お美津は、店に戻り、暖簾を下ろした。
手は、震えていなかった。
──信じる仕事は、終わらない。
結果がどうであれ、それは別だ。
信じるという行為は、世界を変えない。
だが、人を変えない。
お美津は、それでよかった。
江戸の空は、今日も特別ではない。
特別でない空の下で、一人分の人生が、静かに、遠ざかっていった。




