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大江戸巌窟殿 恨みは捨てない── ただ、置き場所を決める  作者: 真野真名
第一章 裏切りは藪の中

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第一話|十六歳、算盤の音

 ──少年は、理由を知らずに落ちる





 算盤の音というものは、不思議なものである。

 速く弾いても、遅く弾いても、心の中が乱れていると必ず音が濁る。

 カチ、カチ、というはずの音が、カシャ、とか、コン、とか、妙に情けない響きを帯びるのだ。

 傳次郎がそれに気づいたのは、たしか十四のときだった。


 江戸・日本橋から少し外れた裏通り。廻船問屋・遠州屋の土間奥で、傳次郎は今日も算盤を弾いている。年のわりに背は高く、肩幅はまだ狭いが、座り姿勢がやけに落ち着いているせいで、初見の者は年上に見誤ることが多かった。


「傳次郎、そこの勘定、もう一度見てくれ」


 声をかけたのは番頭の伊兵衛である。遠州屋で三十年、帳場に立ち続けてきた男だ。傳次郎は顔を上げず、はい、とだけ答えて算盤を引き寄せた。


 カチ、カチ、カチ。


 音は澄んでいる。自分でもわかるくらい、今日は良い音だった。


 遠州屋は大店というほどではないが、堅実な商いで知られていた。扱うのは米、干物、紙、油。派手さはないが、江戸の暮らしを下支えする品ばかりだ。その帳簿を預かるのは、誰にでも任せられる仕事ではない。

 十六にして帳場を任されている傳次郎は、間違いなく「期待されている側」だった。


「やっぱり合ってます。先方の端数の書き違いですね」


 傳次郎がそう言うと、伊兵衛は一瞬だけ眉を上げ、それから満足そうに頷いた。


「だろうな。向こうは算盤が苦手だ」


 それだけ言って、伊兵衛は帳面を抱え直し、奥へ引っ込んでいった。

 傳次郎は算盤を元の位置に戻し、ふう、と小さく息を吐いた。緊張していたわけではない。ただ、失敗できない場所にいるという感覚が、いつも胸の奥にあった。


 ──自分は、落ちてはいけない。


 そう思った瞬間、背筋がわずかに硬くなった。誰に言われたわけでもない。ただ、ここで間違えることだけは許されないと、身体のほうが先に知っていた。


 ***


 昼下がり、帳場が一段落すると、傳次郎は裏口から外へ出た。用事があるわけではない。ただ、外の空気を吸いたかった。

 遠州屋の裏手には、細い路地が延びている。洗い物の水が流れ、猫が寝そべり、子どもが走り抜ける、どこにでもある下町の風景だ。


「傳ちゃん」


 呼び止められて振り向くと、お美津が立っていた。

 小さな手桶を下げ、髪をきっちり結い上げている。遠州屋の向かいで小間物屋を営む家の娘で、傳次郎の許嫁でもあった。


「今日は早いの?」


「帳面が一段落しただけ。すぐ戻るよ」


「そう。じゃあ、これ」


 お美津は手桶の中から包みを差し出した。握り飯が二つ。少し不格好だが、香りはいい。


「また?」


「昨日、食べてないって言ってたでしょ」


「お前、いつもよく見てるな」


「見てないと、傳ちゃん、自分のこと忘れるから」


 言い返す言葉が見つからず、傳次郎は受け取った。


「……ありがとう」


 そう言うと、お美津は少しだけ笑った。その笑顔を見ていると、胸の奥にあった重たいものが、ほんのわずか軽くなる気がした。

 二人の間に、派手な約束はない。いつ頃祝言を挙げるかも、具体的には決まっていない。ただ、いずれ一緒になるのだろう、という前提だけが、静かに置かれている。

 傳次郎にとって、それは救いであると同時に、責任でもあった。


 ──守るべきものがある。


 それは人を強くもするが、同時に、足をすくわれやすくもする。


 ***


 帳場へ戻ると、権蔵がいた。

 傳次郎より五つ年上の手代で、遠州屋では中堅と呼ばれる立場だ。だがその割に、帳場での居場所は薄い。算盤も悪くはないが、傳次郎ほど正確ではない。


「お、傳次郎。相変わらず忙しそうだな」


「いえ、今は少し手が空いてます」


「そりゃいい」


 権蔵は笑ったが、その目は笑っていなかった。

 五つも年上なのに、帳場の中心は常に傳次郎だ。それが権蔵の腹の中で、どんなふうに発酵しているか、傳次郎にも薄々わかっていた。

 傳次郎は、その視線に気づかないふりをして席に戻った。人の感情に鈍いわけではない。ただ、気づいても、どう扱えばいいかわからないことが多かった。


 算盤を弾く音が、再び帳場に響く。


 カチ、カチ、カチ。


 その音は、江戸の昼下がりの雑音に溶け込み、誰の耳にも残らない。だがこのとき、確かに鳴っていた算盤の音が、のちに傳次郎の人生を大きく狂わせる引き金になるとは、誰も思っていなかった。


 ***


 夕刻。


 店を閉める準備が始まり、帳場には帳面が積み上がっている。伊兵衛が一冊一冊確認し、朱を入れていく。


「傳次郎」


「はい」


「お前は、算盤が好きか」


 不意の問いに、傳次郎は少し考えた。


「……嫌いではありません」


「そうか」


 伊兵衛はそれ以上何も言わなかった。ただ、帳面に朱を入れ、次へ進む。

 その沈黙の中に、評価も期待も──あるいは、警告も──すべてが含まれていることを、傳次郎は知っていた。


 期待される側。


 それは、転ばないことを前提に立たされる場所だ。


 その日、傳次郎はいつもより少し遅く店を出た。夕焼けの江戸の空は、特別でも何でもない。ただ、今日も無事に終わった、という色をしていた。


 彼はまだ知らない。


 この「無事」は、理由もなく、ある日突然、終わるのだということを。



 算盤の音が止まったとき、何が始まるのかを。






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