峠の走り屋さん
薄暗くなりつつある峠に、爆音を上げ空を飛ぶ様な速度で一台のバイクが到着した。
いかにもな改造を施したマフラーは大空を翔る翼の如く雄々しくそそり立ち、本来の『消音』と言う役目を完全に放棄しつつその存在をアピールしている。 アイドリング中であるにも関わらず、ドゥルドゥルドゥルドゥルという『俺様を見てくれ』的アピールは、喧しい事この上ない。
ハンドルはまるでラジオ体操を強要するかの様に高くそびえ、長距離運転どころか近距離の運転でさえ腕に疲労を与えてくるだろう事請け合いだ。 というか絶対に運転しづらいだろう、その構造はバイクというデザインそのものに真っ向から喧嘩を売っているに違いない。
だがこの改造車の特出すべき点はそこではない。
このバイク、先頭部分が尖っているのだ。
一昔以上前の特撮ヒーローが乗るバイクの様に、巨大な嘴の如き風除けが装着されているのである。 流線型のそれは対抗する風を受け流し、この大きな二輪車へ大いなるスピードを約束するのだろう。 それが守られるのかは誰も知らないが。
ここは一種の観光地的な峠である。
この位の時間であれば、雲海へ沈む夕陽を見る為にそこそこの人数の観光客もいるが、バイクの男は彼等の否定的な視線を完全に無視し、ドゥルドゥルドゥルドゥルと意味のない音を響かせ、自己顕示欲を満たしている。
暴走族的な、結局目立ちたいだけのちっちゃな自己顕示欲だ。 少しの間、冷たい視線を体中に浴びると、満足したかの様にエンジンを切った。
バイクを降りた男は改めて周囲を見渡し、溜息を吐いた。
「何だよ、店のひとつもねーのか」
観光地的になってきた、だけであって、元々観光地ではない辺鄙な場所である。
トイレと自販機こそ設置されているが、それだけだ。
取り敢えず男は、一本缶コーヒーを買って、直ぐにそれを口にした。
ここに寄った事に意味はない。
最近有名になりつつある「噂の場所」に寄っただけ。 敢えて言うなら食事をしたかったのだが、店のひとつもないのでは仕方がない。
折角の、赤く色づいた雲海には目も向けず、バイクの荷台からガサガサと菓子パンを取り出し、パクリ。
先程の騒音のせいか、雑音に過敏になっている観光客が何人か、また侮蔑の視線を向けてくるが、それを完全に無視して男はそれらのゴミをガサガサと買い物袋に入れた。
そしてバイクのエンジンを掛けようとして、手に持つゴミ袋と化した買い物袋を一瞬見て、ポイっと捨てる。
「こりゃ!」
その行動を見咎めたのはひとりの老婆だった。
黙っていられなかったのか、何処からともなく現われ、声を掛ける。
「こんな場所にゴミを捨てるとは何じゃ!? 己で持って帰らんかっ!」
だが、男はその非難の声を完全に無視してキーを回すと、慌てる風もなくシートに腰掛け、アクセル全開フルスロットルでタイヤの摩擦音とエンジンの爆音と共に走り去ってしまった。
残された老婆はゴミ袋を拾うと、男の走り去った方を見てギラリとその瞳を輝かせた。
△ △ △
男は先の件など気づいてもいなかったかの様に、相変わらずの轟音をマフラーから吐き出しつつ坂を下っていった。
その速度は120㎞/h。
この辺りはカーブや勾配がきついせいか、法定速度は50㎞/hになっているが、知った事ではない。 ちんたらと走っていられるモノか。
カーブだろうが何だろうが、真面に速度を落とさず走る彼だが、ふとミラーに何かが映ったのに気づいた。
――何かが追い付いてきた?
地元の走り屋だろうか? と思い、ミラーを注視した彼は、映る『それ』が信じられず、思わず後ろを振り返った。
「――むわああぁぁぁてえええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!」
――ババアが、バイクに負けないスピードで走っているのが、見えた。
「な……、何だああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
地味な色合いの着物を着た老婆が、力強い、まるでジョイナーの様なストライド走法でシターンシターンと走ってくる! 肘は直角、手指は真っ直ぐに伸ばされ、砂かけ婆の様な顔は彼を凝視していた。
ちなみに伸ばされた手から伸びる爪は、これまたジョイナーの様に長かった。
「むわあたあああぁんんんんかあああああぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
普通にコワい。
これで止まる人間は、多分いない。
「ままままま待てるかああああああぁぁぁぁっ!!」
アクセルを回す。
本来の加速に加え、下り坂である。 その速度はあっという間に200㎞/hを超え、それでも更に加速していく。
だが、ババアとの距離は開かない。 それどころか縮まっていくではないか!
「なんでだああああぁぁぁぁぁっ!!?」
坂道でエンジンを全開にしているのも関わらず、だ。
一体どんな足腰をしているのか、その体幹は全くぶれることなく、老婆は着実にバイクとの距離を縮めていく。
「ああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!」
いくら気合いを入れたところでバイクにそれが伝わるはずもない。 はずもないが、極端な前傾姿勢は流線型の如し、多少なりとも風の抵抗が弱まったのかさらにスピードが上がっていく。
メーターを見る余裕はない。
だが着実に自身は今までの中で最高速度に達している!
そんな高揚感が彼の心を染め上げた。
しかし!
老婆は既にその横でストライドしていた!
その力強い走りは、野趣に溢れる様で、そのくせ何処か洗練された美しいものだ。
シターンシターンと、何故そんな走りでとっくの昔に200㎞/hオーバーしているバイクに追いつけるのか訳が解らないが。
それに気づいた彼は、驚愕した。 驚いた。
当たり前だがビックリしてしまった。
(――あ……)
ちょっとした挙動。
(ヤバい……これは死ぬ……)
ほんの一瞬、横滑りしたタイヤ。
スピードは確認していないが250㎞/hくらいを超えていてもおかしくない。 どの道200㎞/hを超えている時点で事故を起こしたらミンチだろう。
――身体が宙に浮く。
このスピードだ。
アスファルトという卸し金に削られるか、ぶつかってピンボールの様に跳ね回るか、ガードレールを跳び越えて遙か下まで真っ逆さまか。 どちらにしても真面な死体は残るまい。
生き残ることはもう不可能。 せめて痛みは一瞬である様にと、男は目を閉じた。
もうそれしか出来る事はないのだ。
バイクが横滑りする甲高い音。
一瞬の後の爆発音。
………………
………………
………………
痛みが、衝撃が来ない?
「こりゃ!」
そう思っていたら、ヘルメット越しに頭を殴られた。
瞼を開けると、しわくちゃの老婆の顔が結構な至近距離にあった。
ビクッ、と身体を震わせ後退る。
「ゴミはゴミ箱に! 基本じゃろうがっ!」
両手の間に、ポンと買い物袋入りのゴミが置かれる。
「――返事はっ!?」
「はいっ!!」
老婆の迫力に負け、男は反射的に返答する。 彼女はその反応を見て踵を返した。
「忘れるでないぞ? ゴミはゴミ箱じゃ」
そのまま歩き、下ってきた坂道を歩いて行く老婆。
「お、鼻緒が切れとるのか。 まあ良いわ」
(草履かよ!?)
内心ツッコミを入れつつ、声を出す気力も既にない彼は、その場へ倒れ込んだ。 倒れながら、違和感を感じる下半身に目を向ける。
「うおっ!?」
びしょびしょだった。
が、それは血……などではない。
止まらない小便が下半身を濡らしていた。 濡らし続けていた。
「うわっ!? 止まんねぇ!?」
▽ ▽ ▽
「さっきの婆さん、何だかすげえスピードだったな……」
バイクの走り去った後、峠でひとりの男が誰とはなしに呟く様に言った。
その言葉に周囲の殆どの人は首を傾げる。 無視されるなら解るが、揃ってそんな様子を見せられた身としては戸惑うしかない。
「あのおばあちゃんが見えたんですか?」
それを見かねたのか、ひとりの女性が声を掛ける。
「え……? 見えた、とか何です? まさか幽霊とか?」
「この辺で噂になってますよ。 走りババアとか高速ババアって」
「…………いやいや、まさかあ……」
ドオォォォォォォ…………ン…………
不意に聞こえてきた爆発音。 当然バイクの走り去っていった方向だ。
「あ、追い付かれましたね」
女性は軽くそう言ってスマホを取り出した。
「もしもし、警察ですか? ……はい、事故です」
慣れた様子で通報する女性を見て、男は考えるのを止め、夕陽に目を向けるのだった。
ゴミはゴミ箱に!