俺は冷たい彼女と暮らす
親友が死んだ。
突然の心臓発作だったらしい。まだ若かった。人って、こんなにあっけなく終わるんだなと思った。
引っ越し業者とともに、彼の部屋の片付けに立ち会った。漫画やゲームを貸していたから、その回収のつもりだった。
そのとき、見覚えのないUSBメモリを見つけた。
何か気になって、俺はそれを持ち帰った。
自分の部屋に戻る。築四十年の北向きワンルーム。もちろんエアコンなんてない。夏の熱気に耐えながら、扇風機の風だけが命綱だ。
USBを差し込むと、ひとつだけ動画ファイルがあった。再生すると、親友と見覚えのある友人たちが映った。やたらテンションが高い。
「いよいよ、噂の心霊スポットに突撃しまーす!」
……やれやれ。よくある肝試し動画か。
彼らは雨の中、傘をさしてボロボロの廃屋に立っていた。画面には薄暗い雲と、傘に打ちつける雨音が混ざっている。画面は終始、暗い。月明かりと街灯の残光だけが頼りのようだった。
二階の一室に入った時、全員が黙った。
天井から、何かが吊るされていた。
白く、細い腕。髪に覆われた顔。ボロボロのワンピース。
それは、首を吊った女の死体だった。
誰かが声を上げようとした、その時だった。
ロープが、音を立てて千切れた。
死体が、床に落ちた。次の瞬間、呻き声が漏れた。
それは、動き出した。
這ってくる。のそり、のそりと。四つん這いのまま、カメラに向かって、じわじわと距離を詰めてくる。
「お、おい逃げろ!」
画面が揺れた。暗闇の中を逃げる誰かの視点。やがて、映像が終わる……かに見えた、その時だった。
――部屋の灯りが、ふっと消えた。
電球が切れたわけじゃない。PCモニターは点いている。扇風機も動いている。
それなのに、部屋全体が、何かに包まれるように暗くなった。空気が冷えた。肌が粟立つ。……まずい。これは、マジでやばいやつだ。
そして、PC画面の中で何かがうごめいた。
白い手が、ぬるりと、画面の外へ這い出してきた。続いて、頭。長い黒髪に覆われた顔。
まさか。いや、まさか――
女が、出てくる。
俺は反射的にその頭を押さえつけた。戻れ! モニターに戻れ!
無理だった。
モニターを倒し、下に向けてみた。女は、ヤドカリみたいな姿勢で這い出してくる。
変な笑いが込み上げた。だが、完全に現実だった。
ついに、女が床に立った。
その瞬間、扇風機の風が前髪を揺らした。
見えた。彼女の顔が――
見開かれた目。血の気のない肌。怨霊そのもの。
だが、なぜか、俺はその顔を美しいと感じた。
俺は、恋に落ちた。
そして抱きしめ、前髪を払い、唇を重ねた。
「一目惚れしました。俺と結婚してください」
彼女は、一切表情を変えなかった。まるで壊れた人形のように、目を見開いたまま俺を見つめていた。
だが、それでよかった。
それが、俺の始まりだった。
それから、彼女は毎晩現れた。決まって部屋の片隅、暗い場所にじっと座っている。照明の下には決して出てこない。姿が見えなくても、洗面台の鏡を覗けばそこにいる。夜、寝ていると、天井を這いずる音が聞こえてくる。俺はそれを、子守唄のように感じていた。
ある夜、大学から帰宅すると、彼女が部屋の隅にいた。
「な……ぜ……」
うめくような声で、そう言った。
「言っただろ。一目惚れしたんだよ」
俺はゆっくりと近づき、抱きしめた。
そして、カバンから小さな箱を取り出した。
中には、黒いチョーカーが入っていた。
「これ、君にあげようと思って」
彼女の首に巻かれていたロープの切れ端を外し、その代わりにチョーカーをつけた。
その瞬間、彼女の身体がピクリと反応した。戸惑い、バタつくように動き出す。
PCのモニターを指差し、外したロープを拾って俺に見せる。
「……ああ、ごめん。ロープを外したから、もう戻れなくなっちゃったのか」
そう言いながら、俺は彼女の肩に手を置いた。
「でも、それでいいんだよ。君はもう、あの廃墟には帰らなくていい」
あれはプレゼントなんかじゃない。
これは、俺のものになれ、という証だ。
それから、彼女は俺のそばにいた。
バイト先のコンビニでも、何人かの客が突然叫び出したことがあった。理由を聞いても「いや、外に……誰か……」とうまく説明できない様子。きっと、彼女がついてきていたんだろう。
大学を卒業し、就職を機に中古の軽自動車を買った。ドライブが趣味になったのは、彼女と一緒に出かけられるからだった。ルームミラーを見ると、いつも後部座席に座って、じっとこちらを見ている。雨の日の帰りが遅くなったときは、決まって横断歩道の脇で待っていてくれた。傘もささず、びしょ濡れになったまま後部座席に乗り込んでくる姿を見て、俺は思った――ああ、待っててくれたんだなって。嬉しかった。声を出さないまま、ずっとそこにいる。
職場でも同じだった。トイレの鏡越し、給湯室の窓の反射。ふとしたときに、彼女がそこにいる。周囲の同僚が「最近、お前なんかおかしくね?」と言うたびに、少しだけ優越感を覚えた。
皆は帰らなければ誰にも会えない。でも、俺はいつだって彼女と一緒だ。
ある日、コンビニで見かけた高級シャンプーとコンディショナーを買ってきて、風呂場に置いた。次の日、彼女の髪が少し艶を帯びていた気がした。
それから毎晩、彼女の髪はだんだん美しくなっていった。浴室の排水が詰まることが増えて、最初は原因が分からなかったけれど、排水溝を開けて黒髪の塊が出てきたとき、すぐに察した。
――ああ、俺のために綺麗になろうとしてくれてるんだな、と。
その髪を片付けながら、妙に胸が温かくなった。
ワンピースも新しく買ってあげた。すると翌日から、その服を着て現れるようになった。彼女が微かに、わずかに変化していくのが嬉しかった。
ある寝苦しい夜、ふと目が覚めると、彼女が枕元に立っていた。
目を見開いたまま、無言でじっとこちらを見つめている。
「……おいで」
そう声をかけると、彼女はすっと布団に入ってきた。
俺はその冷たい身体を抱きしめて眠った。
肌が凍えるように冷たいのに、不思議と心は安らいでいた。
どんなクーラーよりも快適で、気持ちよく眠れた。
月日は流れた。やがて、俺は八十歳になっていた。
その日、突然倒れて救急車で運ばれたらしい。目が覚めると、病室の隅に彼女がいた。
若いままの姿で、首にあのチョーカーをつけて。
薄暗い部屋の隅から、ゆっくりと彼女が近づいてくる。
俺のそばに立ち、そして――
そっと、キスをした。
初めて、彼女の方から。
その瞬間、見開かれていた彼女の目が、ふっと緩んだ。
笑っていた。
――ああ、これが見たかったんだ。
その笑顔のために、俺は彼女と生きてきたのかもしれない。
意識が遠のく中、俺は思った。
ありがとう。
また、会おう。
彼女は、こと切れた彼の顔をじっと見つめていた。 微笑を湛えたまま、その姿は光の粒のように、ゆっくりと、静かに消えていった。
拙い文章を読んでいただき、ありがとうございました。
彼女目線で書いた、後作の「キスは呪縛の呪い」を合わせて読んでいただけると、よりこの物語の異常性がおわかりいただけると思います。