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いつかの春も君と

作者: 田仲絵筆

 その夜、アシュトン・ブラックモアは非常に不機嫌だった。

 公爵家で開かれた夜会で、天敵のエドモンド・グレイヴズと鉢合わせしてしまったのだ。


 ブラックモア男爵家とグレイヴズ伯爵家が犬猿の仲であることは、この国の貴族なら皆知っている。両家に招待状を同時に出してはいけない、というのは、社交界においてまず最初に習う義務教育みたいなものだ。


 確執は軽く5代前に遡り、グレイヴズがブラックモアに不義をしたのだとも、ブラックモアがグレイヴズを裏切ったのだとも言われているが、どちらの家の文献を読んでもお互いが相手のことをそれはもう悪し様に私怨たっぷりに書いているので、結局今となっては何が真実かはわからない。

 ただいがみ合うふたつの家が存在するだけである。


 この両家、現在は飛ぶ鳥を落とす勢いのブラックモア、伝統のグレイヴズと呼ばれ、共に社交界で一目置かれる存在であった。

 ブラックモア男爵家は、機を見るのが上手い前当主の采配もあり、投資事業がことごとく当たって急速に資産を増やし、とにかく羽振りが良い。それに対するやっかみもまた多数存在する。


 グレイヴズ伯爵家は、もともと国内でも屈指の伝統を誇る名門中の名門で、こと格式に関しては、公爵家や王家ですら判断を仰ぎに来ることがあるという。

 しかし、その保守的な家風がたたって、近年の目覚ましい国の隆盛について行けず、出遅れている面があるのも事実だった。


 そんなただでさえ水と油のようなこの二家に、過去の因縁も絡んでくるものだから、歳も近い若き令息同士が鉢合わせしようものなら、それはもう特大の火花が散るのだ。

 ただ、ある意味社交界の名物のようなものなので、見栄えの良い貴公子ふたりの対決が見たいばかりに、わざとかち合うように仕向けるこのパーティーの主催者のような悪趣味な高位貴族もたまに存在する。


「あれー? どこかの古い彫像かと思ったら、グレイヴズ家のお坊ちゃまじゃないですか。相変わらず前世紀の遺物みたいな格好してらっしゃる。ホワイトタイなんて久しぶりに見ましたよ。俺の祖父が国王陛下から勲章をもらった時以来かな」


 挑発的なアシュトンの言葉に、エドモンド・グレイヴズもまた不愉快そうに舌打ちをした。

「……軽薄な成金が。格式の重みを知らない貴族ほど憐れなものは無いな。大方ここの招待状も金で買ったのだろうが貴様にはこの場所は不似合いだ。公爵に挨拶をしたらさっさと出て行け」


 会うなりお互いに喧嘩を売っているような言葉の応酬がはじまったので、会場のギャラリーは息を呑んだが、本人たちにとってはこれは軽い挨拶のようなものである。


「そういえば、ストームリッジの鉱山では相当負債が出たと耳にしましたが。あんな見え見えのクズ事業に引っかかる家が格式とは笑わせるな。もしかして、そのせいで流行の服を仕立てる余裕もないんじゃないですか。虚勢をはるのも楽じゃなさそうですね。お気の毒に」


「流行ばかり追いかけている軽薄な男には伝統の重みはわからないだろう。貴様が立っているだけでフロアが安っぽい場末のナイトパブに見えて来るんだから大したものだよ。これは親切で言ってやるんだが、道化師と間違えられてつまみ出される前に自分から消えたらどうだ」


「言われなくても出ていきますよ。これ以上この場にいたら、埃くささが移ってしまいそうだ。では失礼します」


 とにかく息をするように互いの家の悪口を吹き込まれて育ったふたりなので、寄ると触ると皮肉の応酬になる。

 しかし、高位貴族が多く招待されている公爵家のパーティーとあっては、男爵家のアシュトンの方が分が悪い。

 エドモンドの言う通りにするのは癪だが、会場の雰囲気を悪くする趣味もすすんで不愉快な思いをする義理もないので、さっさと退散することにした。


 主催者の公爵夫妻の方を見ると、彼らの前には挨拶したい人間で長蛇の列ができていた。招待客の序列としてはアシュトンの家は後ろの方だ。位の高い貴族を押し退けるわけにもいかないので、少し待つ必要がありそうだった。


 とは言ってもエドモンドと同じ空間にいるのはごめんだ。肩をすくめる知人達に言い置いて、アシュトンは中庭に降りた。付いて来る者はいない。皆この場でパートナーや歓談の相手を探すつもりなのだ。


「くそ、当てが外れたな。今日はリューズ伯爵と顔を繋いでもらうつもりだったのに……」

 ぶつぶつと独りごちながら、その辺にあったテーブルに座る。庭は喧騒に満ちたホールとはうって変わって静かだった。ひんやりした夜気が頭を冷やしてくれる。

 その心地良さに、アシュトンは少し冷静さを取り戻した。


「あのう、よかったら、ここに座ってもいいですか。付き添いの者とはぐれてしまって」

 その時、声をかけられた。若い女性の声だ。


 ちょっと無防備だったな、とアシュトンは自省する。

 莫大な収入を得ている男爵家の次期当主、おまけに顔も良いとあって、アシュトンは社交界では超優良物件だった。

 パーティーでひとりになると、見計らったように女性から声をかけられる。人とはぐれて、という口実もお馴染みだ。きっとまたその類いの人間なのだろうと思いながら声の主に目をやった。


 立っていたのは若い女性だった。アシュトンと同じくらいか、ひとつふたつ歳下に見える。うんざりした顔を向けられているのに、薄暗い中庭では気づかないのだろうか。こちらが毒気を抜かれてしまうくらい、無邪気な顔でにこにこと笑っていた。

「いきなりごめんなさい。慣れないパーティーですこし疲れてしまったものですから。どこか座れる場所を探していたら、ちょうどおひとりでいるのが見えたので」


 彼女の台詞はほとんど予想通りだったが、疲れているというのは本当かもしれないと思う。ランタンの灯りだけでも、あまり顔色が良くないのがわかる。


「失礼しました。ーーどうぞ」

 立ち上がって椅子をひいてやる。女性は一瞬きょとんとして、そして、それは嬉しそうにぱあっと笑った。

「どうも、ありがとうございます」


 邪気のない笑顔に毒気を抜かれ、狙って近づいて来たのだとしてもまあいいか、とアシュトンは考える。

 ひとりでいても、どうせろくなことは考えなかっただろう。それなら少しの間、話し相手ぐらいにはなったっていい。

 迫って来る女性をあしらうのは慣れている。もし彼女が豹変して積極的になったら、適当に立ち去ればいい。ワンナイトしても構わない女性かどうかぐらいは見極められるつもりだ。


 座ってふう、とひと心地ついたように息を吐く女性を見て、あまり慣れていないというのも本当だろうなと想像する。

 こういった社交の場によく参加する者なら、顔は大体なんとなくわかるし家名も頭に入っているはずだが、彼女には見覚えがない。


 可愛らしい顔立ちだが、ドレスも最新の流行のものではない。高級な仕立てには変わりないが、ひとつかふたつ前のシーズンに流行ったようなものだ。

 仮にも公爵家のパーティーなのだから変な人間には招待状は行かないだろうが、田舎から出てきたばかりの令嬢か何かだろうか。


「助かりました。今日は家族と来たんですけど、実はこういった場は、初めてで。思ったよりうんと人が多いものだから、目がまわってしまって。私、イーディスっていいます」

「ああ」

 やはりだ。王都の者ではないのだろう。通常こういう場では家名を名乗るのが常識だが、彼女の出身地にはその習慣も無いのかもしれない。


 もしかすると本当に他意はなく、アシュトンに声をかけただけなのかもしれない。

 アシュトンは先程つらつらと彼女を疑うようなことを考えたことを少し反省した。


「俺はアシュトンです。パーティーが初めてなら、特にここは盛大なので驚いたでしょうね。ーーアルコールは飲めますか? 甘いもので良いかな」

 言いながら、飲み物を運んでいる給仕を捕まえて、グラスをふたつ受け取る。イーディスが慌てたように、「私、お酒は飲めないんです」というので、オレンジジュースにした。

 飲み物一杯を飲む間ぐらいは付き合っても良い気持ちになっていた。



「それで、そのグレイヴズというのがいけすかない奴で。傲慢と言うんですかね。人を見下した性格が喋り方によく現れている。人の顔を見るなりこうですよ、『軽薄な成金が』。まあ、俺も奴の顔を見るとつい挑発してしまうんですが。本当に嫌な奴なので、貴女も気をつけてくださいね」

 会話は思いのほか弾んだ。イーディスは、よく笑う女性で、あんまり楽しそうに笑うものだから、こちらもつい饒舌になる。


 アシュトンの愚痴めいた話ですら、面白そうな顔をして聞いてくれる。自分はずっと田舎で育ったから、そういう家同士の確執みたいなものも新鮮だと笑った。

 アシュトンがエドモンドの喋り方を真似してみせると、笑いすぎて咳き込んでしまったぐらいだ。


 アシュトンは彼女の許可をもらって、背中をさすらなくてはいけなかった。

「ご、ごめんなさい。こんなに笑ったの、久しぶりで……」

 イーディスは涙を拭いながら尚も笑い転げていたが、それを不快には感じなかった。

 声と笑顔が心地よかった。

 どうやら、彼女の笑顔はささくれた気分を癒す効果があるようだ。


「ーーイーディスお嬢様! そこにいらっしゃいますか?」

 その時、テラスから呼びかけるような声して、イーディスがぱっと振り向いた。

「あ」

 わたわたと立ち上がる。


「いけない、侍女のルーシーだわ。探してくれていたのね。少し長居をしてしまったみたい。とっても楽しかったです。どうもありがとうございました」

「もう行ってしまうの?」

 無粋な侍女だ。話が盛り上がっていることは見たらわかるだろうから、もう少し声をかけるのを待ってくれればいいのに。


「ふふ。本当はもう少し話していたいのですけど、名残り惜しくなってしまいますから」

 ぺこりとあまり淑女らしくないお辞儀をして、イーディスが去っていこうとする。「あの」思わずアシュトンは引き留める言葉を発していた。


「また会えるかな?」

 イーディスは少し驚いたように目を見開いて、それから満面の笑みになった。

「もし会えたら、またこうやってお話ししてくれると嬉しいです」

 アシュトンはこっそり自分の胸を押さえた。もしかすると、この短い時間で、自分はすっかりこの笑顔にやられている。


 イーディスの家名を聞きそびれたことにアシュトンが気付いたのは、彼女が去ってからだ。最初の情け無い警戒心が裏目に出てしまった。

 ほんのひととき話しただけだ。それだけで、こんなにまた会いたいと思うなんて。

「イーディス……」

 アシュトンはこっそりと彼女の名前を反芻した。

 


 それから何日か経つと、夜会の記憶も少し薄れて、あれはあの夜の雰囲気がそうさせたのだろうと冷静に振り返られるようになった。

 グレイヴズの高慢なくそ息子とやり合って神経がぴりぴりしていたので、素朴な娘が常になく魅力的に見えたのだろう。それだけのことだ。


 本来、アシュトンは博愛な性質たちなのである。自分には、ドライな人間の方が合っていると思う。それに今は特定のパートナーを作るつもりはない。どうせもうすぐ、爵位相続を見据えて結婚をしなくてはいけないのだ。


 投機や出資がことごとく成功し、時流を読む目に長けていると言われる男爵家の当主の妻になる女性は、アシュトンと同じように都会的で事業に明るい女性が望ましい。できればブラックモア男爵家に欠けているものーー伝統と海外への伝手つてがある家柄がいい。


 そうすれば、更に手広く事業を広げることができる。選び放題のアシュトンにとって、そのようなパートナーを見つけることは、そう難しくはない。

 田舎出身の世間知らずそうな令嬢など、論外だろう。


 そう思っていたのに、案外あっさりと再会は訪れてしまった。



 その日、アシュトンは大口の融資をひとつ決めたところだった。

 時間をかけて業績や伸び代を見ていた新興の会社だ。間違いなくこの会社は伸びると自分の感覚が太鼓判を押したので、破格と言って良い額を援助することにしたのだ。


 先代譲りのアシュトンの先見性を現当主である父親も高く買っていて、男爵家の資産の相当な分をアシュトンの裁量で好きにして良いことになっている。実際、これまでにアシュトンに大きな判断ミスはほとんどなかった。


 それにしても大きな取り引きは成立すると気分が良い。

 何となくそのまま帰るのがもったいない気がして、ふらりとこの公園ーーセンチュリー・クラウン・パークに立ち寄ったところだった。


 国内最大の広さを誇るこの公園は、楽しそうな男女や子供を連れた婦人の集団、駆け回る犬がいたりして、何となく居るだけで幸せな気分になる。

 考え事をしたい時や、良いことがあった時は、ついふらふらと来てしまう。


 ベンチに腰かけて犬と戯れる子供たちをぼんやりと見ながら、少し早いけど、昼からやっているパブでビールを一杯飲んで帰ろうかーーなどと考えていた時、聞き覚えのある声で呼びかけられたのだ。

「アシュトンさま……?」


 そちらを見る前に、もう声の主が誰なのかわかっていた。この一週間、何度反芻しただろう。その柔らかな声音。

 振り向くと、やはり侍女を伴ったイーディスだった。公園を散歩中のようだ。


 アシュトンはやっぱりここはラッキースポットだ、と独りごちて立ち上がり、帽子を取った。

「やあ。偶然ですね。ずっとまた会いたいと思っていたんです。俺は本当に運が良い」


 挨拶するアシュトンを見て、笑顔で近寄って来ようとしていたイーディスは、ふと心許なげな顔になって足を止めた。

 しまった、何か失礼なことをしただろうか、とアシュトンも笑顔を強張らせる。


 馴れ馴れし過ぎただろうか。アシュトンにしてみたら本心なのだが、社交界に慣れていないイーディスからしてみたら、軽薄な社交辞令に聞こえたかもしれない。

 アシュトンが軽い気持ちで女性を口説く事があるのは事実なので、そこを見抜かれたのだろうか。


「嫌だわ、私ったら……」

 ものすごい速さで脳内反省会を繰り広げるアシュトンとは裏腹に、おっとりとした仕草で困ったように頬に手をやるイーディスは、陽の光の中だと可愛らしさが際立っている。

 先日の夜会の際はきっちりと編み込んでいた髪を、今日はゆるく編んで背中に流している。ドレスもリラックスしたもので、こちらの方が彼女の元々の雰囲気にずっと似合っていた。


 アシュトンが見惚れていると、イーディスも同じように頬を赤くした。

「ごめんなさい。私、あの日は暗くて、はっきりとアシュトン様の顔を見たわけではなかったんです。こんな立派な方だとは思わずに、すっかり図々しいお願いをしてしまって」


 アシュトンは心から正装をしていて良かった、と思った。

 相手によってはフランクな印象を持ってもらうために、わざと着崩した格好をすることもあるのだが、今日は大事な商談だったのでかっちりとビスポークスーツを着込んでいる。


「だったら、あの庭が暗くて良かった。おかげで貴女のような素敵な女性と知り合うことができたんだから」

 そう言って片目をつぶって見せた。イーディスの後ろから日傘を差し掛けている侍女が顔をしかめるのが見えた。大事なお嬢様が軽い男に捕まったとでも思っているのだろうか。

 我ながら軽い台詞だと思いながらも、全く偽りなしに自分の本当の気持ちなので仕方がない。本心を重々しく伝える術を、アシュトンは知らない。

 

「最初から今のような姿を見ていたら、きっと気後れして声をかけることもできなかったかもしれないわ。あの夜私に親切にしていただいたこと、忘れません。本当に本当に、嬉しかったんです」

 どうもありがとうございました、とやはり淑女らしくないお辞儀をして、イーディスがそのまま「では」と去って行こうとする。

「待って」アシュトンは慌てて手首をつかんで引き留めた。

 手袋ごしでもわかる手首の細さに驚いて手を離す。


「あの、このあと暇だったりしませんか」

 ぽかんとした顔のイーディスに、我ながら何という誘い文句だ、と頭を抱えたくなったが、どうしてもこのまま離れたくなかった。

 たまたま運が良かったから再会できたものの、ここで別れたら次に会える保証はない。アシュトンはいまだにイーディスの家名も知らないままなのだ。

 ここ数日ぐるぐる考えていたことは、イーディスの顔を見た瞬間にすっかり霧散していた。


「ウエスト通りに、最近劇場(シアター)ができたのをご存知ないですか。あそこにはうちも出資しているので、専用のボックス席が用意されているんですよ。ちょうど喜劇オペレッタを演っているはずです。良かったら今から行きませんか?」

「えっ、オペレッタ!?」


 アシュトンの言葉にイーディスは一瞬ぱあっと顔を輝かせたが、すぐに我に返ったように首を振った。

「そんな、図々しいこと。それに少し、急すぎます。ちょっと散歩するつもりで出て来たからそんなにちゃんとしたドレスじゃないし、遅くなったら家の者だって心配するわ。ねえ、ルーシー」


 イーディスは困ったように侍女のルーシーを見た。ルーシーと呼ばれた侍女は、涼しい顔で答える。

「良いじゃないですか、オペレッタ。べつに、ご家族へは御者にでもことづければ大丈夫だと思いますよ。あたしが一緒ならね。ちょうどあたしも行ってみたかったんですよ、できたばかりのロイヤルシアターに」


 なんて気が利く侍女だ、とアシュトンはこの前とは正反対のことを考える。単にシアターに興味があるだけなのかもしれないが、アシュトンにとっては救世主だ。

「決まりだ。行きましょう。今ならまだマチネに間に合う。それならお二人ともそのドレスで充分ですよ」


「あの、本当に、ご迷惑じゃないでしょうか」

 イーディスは明らかに戸惑っていた。先日会ったばかりの人間にこんなに熱心に誘われるとは思っていなかったのだろう。

 それでもアシュトンも必死だった。彼だって、今まで女性にこんなにしつこくしたことはない。

「俺が誘ったんです。最近田舎(カントリー)から出て来たとおっしゃってましたね。歌劇を観たことは?」


 案の定、イーディスはふるふると首を振る。

「いいえ、ちゃんとした役者さんが演じるものは一度もーー。でもずっと見てみたかったんです。歌もお芝居も大好きだから」

「それは良かった。俺もね、そうじゃないかと思ったんですよ。貴女がオペレッタと聞いて目を輝かせるのを見て」



 舞台は素晴らしかった。イーディスは始終笑いっぱなしで、それでも周りに気を遣ってあまり大きな声をたてたくないのか少し苦しそうにしている。慣れたように侍女のルーシーが背中をさすっていた。

 エンディングは感動的で、イーディスはうっすら涙を浮かべて舞台を見つめ、幕が降りると同時に立ち上がって惜しみない拍手をした。


 同じようにあちこちから拍手と称賛の歓声が聞こえる。

 実はアシュトンはイーディスのころころ変わる横顔に釘づけで、舞台にはそれほど集中できなかったのだが、来期は劇場への出資額を上げてもいいなと思った。


「今日は、本当にありがとうございました。夢みたいです。本当に、こうやって王都でパーティーに出たり、劇場に行ったりするのがずっと夢だったの。この前良くしていただいただけでもありがたいのに、こんなところへ連れて来てもらって、なんてお礼を言ったら良いんでしょう」


 大袈裟ではないかと思うくらいずっと謝意を述べ続けるので、アシュトンは赤面した。

 自分にも下心はあったのだから、そんなに感謝されると、逆にいたたまれなくなってしまう。


「すみません。ちゃんと名乗っていませんでしたね。ご存知かもしれませんが、俺はアシュトン・ブラックモアと言います。ブラックモア男爵家の長男で、上手くいけば次期当主になる予定で。割と財政状況も優良です。ーーって何の話をしてるんだ」

 

 商談に持ち込む時のプレゼン紛いの口上が思わず口から出て、アシュトンは首を振った。こんな話がしたい訳ではない。

「良かったら、また会ってもらえませんか。それでできれば、貴女の家名も教えてほしい」


 相手の家を知ることは、長く付き合っていきたいという意思を伝えることでもある。

 特に最初にお互い名乗りそびれてしまったせいで、わざわざ聞き直すのは特別な意味があると白状しているようなものだ。

 アシュトンなりに勇気を振り絞って訊いたつもりだったが、次の瞬間猛烈に後悔した。アシュトンが家名を訊いた途端にイーディスが泣き出す一歩手前のような、何とも言えず悲しそうな顔をしたからだ。


「あの、こんなに良くしていただいてるのに、なんて恩知らずだと思われると思うのですが。ーー家名は言いたくありません。今はまだ。本当にごめんなさい」

 そう言って頭を下げられて、アシュトンは慌てた。


「いや、言いたくないことぐらいありますよね。俺も無理に訊こうとして、なんかすいませんでした。名乗りたくない女性なんてたくさんいますよ。現に俺も、過去に名前を訊いて、半分ぐらいに断られてます。慎重な証拠だ。素晴らしいと思いますよ!」


 実際は女性に名乗りを拒否されたことなど皆無だったし、訊く前に向こうから名乗ってくることがほとんどだったが、イーディスがあまりに申し訳無さそうなつらそうな顔をするので、何としてもフォローしたかったのだ。

 だがそれもどんどん空回っていく。


「軽率に訊いた俺の方が悪いんだから気にしないでください。本当にすいません。……そんな顔をしないで。ほら、先ほどのオペレッタの内容を覚えていますか? 従者が主人と猿を間違えるところ。本当に傑作でしたよね」

 イーディスに笑って欲しい一心で、アシュトンは先ほどの歌劇の特に反応の良かった部分を必死で思い出して話した。

 イーディスがふふっと小さく笑ったので、少し安心する。


「アシュトン・ブラックモア様。実はお名前は、前から聞いたことがありました。こんなに親切な方だとは思ってもいませんでしたけれど。私がどれだけ貴方の優しさに救われているのか、本当に少しでも伝われば良いのにと思います」


 自分の出自を頑なに伏せておきながら、とても真摯な口調でそう語る。イーディスの本心がちっとも読めなくて混乱したまま、気がつくとアシュトンの口から誘いの言葉が出ていた。

「あのう、またお誘いしても?」


「また、誘っていただけるんですか?」

 驚いたように、イーディスが顔を上げる。この顔は、嬉しそうな顔で間違っていないはずだ、とアシュトンは当たりをつける。しかし自分の女心の解釈というものが、とことん当てにならないと気付き始めてもいる。


「是非。ああ、でも、屋敷を訪ねる訳にはいかないのか。じゃあ、どこかで待ち合わせという形にしませんか?」

「ではあの、今日お会いした公園。あの辺りに毎週日曜日の午前中におります。でも、アシュトン様はご多忙な方ですから、あまり気にして無理に来ようとはなさらないでくださいね。週末の散歩は私の日課のようなものですから、いらっしゃらなくても全然大丈夫です。……あ、でもお顔を見られたら嬉しいですけど」


「はは。気を遣っていただいてありがとうございます。お言葉に甘えて、時間がある時だけ行くようにしますね」

 絶対に行く。毎週何があっても行く、仕事よりも何よりも最優先で行く、という決心はおくびにも出さない。



 別れてからもアシュトンの頭の中は、イーディスの笑顔でいっぱいだった。来週はどこに行こう。都会に慣れていないから、あまり人がいないところの方がいいかもしれない。博物館? 動物園? それともあんなに喜んでくれたんだから、また劇場に誘おうか。


 そんな事をあれこれと考えながらも、イーディスが家名を言いたがらない理由はもちろん気になっていた。

 彼女が言いたくないというのだからあれこれ想像するのも失礼だろうと思いつつ、やはり評判が芳しくない家なのだろうか、と最近没落や爵位返上がささやかれている家をいくつか思い浮かべてしまう。


 もしかすると、貴族ではなくて平民なのかもしれない。

 それにしてはルーシーという侍女は、口は悪いが公式の場ではいろいろと心得ているように見えた。あれほど弁えている侍女を伴っているくらいだから、そこまで格式の低い家だというのも考えにくい。

 そもそも彼女は公爵家の招待状を受け取る人間なのだ。


 そして結局、ひとつの結論を出す。

(ーー何も問題ないな。彼女が没落寸前の貧乏貴族だったとしても、平民だったとしても、これっぽっちも問題はない)


 ひとつだけ、考えるのも嫌な可能性があって、それはもしかしたらイーディスがアシュトンの誘いを迷惑だと思っているかもしれないということだった。

 本来、女性が自分の家を男性に教えたくない理由としては真っ先に考えつくものだったが、そうは考えたくなかった。


(だって、あんなに嬉しそうに笑っていたのに)

 あの笑顔が演技だとするなら、アシュトンは世の中の一切合切を信じられなくなってしまうだろう。

 そのことはもう考えないことにして、アシュトンは週末のプランを考えることに没頭した。


 次の日曜日に、公園でイーディスを見つけた時には心底ほっとした。もし嫌がられていたら、彼女は来てくれなかっただろうから。

 来てくれたということは、アシュトンの一方通行じゃないということだろう。たぶん。きっと。




 ーー決めるしかない、今日。


 イーディスと会うようになって数か月が経ち、アシュトンはすっかり思い詰めていた。

 週末のデート(少なくともアシュトンはそのつもりでいる)は毎回楽しかったが、相変わらずイーディスは家名を教えてくれなかったし、何故か会うたびに少しずつ元気がなくなっていくように見える。

 もしかして、「もう会うのはやめましょう」と言われるのではないかと、ここのところは毎回びくびくするようになっていた。


(このままでは駄目だ)

 曖昧な関係のまま側にいられるのならそれでもいい気がしていたけれど、そのことがイーディスを傷つけているのだとしたら、決着をつけないといけないと思った。

 これ以上、辛そうな彼女を見ていられない。


 ーー求婚しよう。せめて結婚を前提とした付き合いを提案しよう。たとえ彼女の家が貴族じゃなくても没落寸前でも、援助するから何も心配することはないと伝えよう。

 アシュトンはこの時ほど自分が資産家で良かったと思ったことはなかった。



「彼女には白い花が似合うと思うんだけど。白だけじゃさびしいかな。そこの青い花もーーブルースターというのか。イメージぴったりだ。あとそれも。黄色もあるとお互いが引き立っていい感じだ。……とすると、赤だけが足りないな。そこのピンクのバラを」


 花屋であれこれと注文をつけているうちに、ひと抱えもある花束ができあがってしまった。

 しまった、もう少し可憐で控えめな花束にしようと思っていたのに、と思ってももう遅い。

 上客に嬉しそうな顔で挨拶する花屋に見送られて、アシュトンはいつもの公園に向かった。

 後ろ手に隠す訳にもいかない大きさなので、潔く前に抱えて歩く。通りを歩く人々がちらちらと見てくるが、今のアシュトンにはそれを気にするだけの余裕も無い。

 今から一世一代の告白をするのだから。


 この大きな花束を見たら、イーディスはどんな顔をするだろう。

 すごい、と言って笑ってくれないだろうか。



「どうか、俺と結婚を前提にお付き合いしていただけませんか」

 生まれて初めてのプロポーズは、我ながら陳腐な台詞だった。


 ベンチに座っていたイーディスは、大きな花束を持ったアシュトンが正面から近づいて来るのを、ただ目を丸くして見ていた。

 やはりその表情は元気が無いように見えた。

 人が行き交う公園で、視線が集まるのも気にせず、アシュトンはイーディスの前に着くなり跪いて花束を捧げ、交際を申し込んだ。

 おそろしくて顔を上げることができなかったが、周りのざわめきの中から、イーディスの返答だけをひたすら待つ。


「ごめんなさい……。わたし……」

 耳に入ってきたのは、断りの言葉だった。

 アシュトンはショックを受けながらも、どこかで断られることを予想していたことを知る。

 頑なに、自分の家名を言おうとしないイーディス。

 その本心は明らかなのに、気づかないふりをして、いつまでも会うことをやめられなかった。


 残念、とひとつ自嘲して、思い切って顔を上げると、イーディスが泣いていた。

 綺麗な眼からぽろぽろと涙を流して、これ以上ないほど哀しそうに泣いていた。


 ーー嬉しそうに笑う子は、泣く時もこんなに哀しそうに泣くのか。

 束の間アシュトンはイーディスの涙に見惚れ、直後に身を切られるような辛さを感じる。

 泣かせたかった訳ではない。こんな顔をさせるぐらいなら、言わない方が良かった。

「ごめん。ごめん、イーディス……」


 気の利いた言葉ひとつ出てこないアシュトンに、イーディスはただ首を振り、そしてまた涙をこぼす。

 アシュトンは途方に暮れてしまい、だからといって涙を拭うことも抱きしめることもできないまま、ただ突っ立っていることしかできなかった。

 その時だ。


「妹に何をした貴様ァ!!」

 もの凄い怒声とともに、いきなり引っ張られ、頬に衝撃が走る。一拍遅れて、殴られたのだと理解する。

「アシュトン様!」

 イーディスが悲鳴のようにアシュトンの名を呼んだ。名前を呼ばれるだけで嬉しいと思ってしまう自分を愚かだと思った。

 それから自分を殴った男をようやく認知する。


「グレイ……ヴズ……? 何でこんなところに」

 尻餅をついてしまったので、相手を見上げる格好になる。あまりに予想外の人物で、訝しげな声が出た。怒気も露わにアシュトンを見下ろすのは、宿敵、エドモンド・グレイヴズだったのだ。

「よくも妹を泣かせたな、この屑が!!」


 アシュトンは訳がわからなくて呆気に取られていたが、一世一代のプロポーズに割り込まれたことに気付いて、一瞬で怒りの頂点に達する。

 もともとこの男の顔を見ると、条件反射でどす黒い感情になるのだ。これはもう、両家に流れる血が反目しているとしか考えられない。


「何をする! 今取り込み中なのが見てわからないのか。妹? 何のことだかさっぱりわからない。俺はあんたの妹なんて話したことも会ったこともない」

「この期に及んで知らばっくれるのか、貴様!!」

「言いがかりもいい加減にしてくれ。どうせその妹とやらに適当な虚言でも吹き込まれたんだろう。さすがあんたに似て性悪な女だ。所詮グレイヴズのーー」

「お兄様、やめてください!」


 もの凄い形相でアシュトンの胸ぐらを掴み、もう一度拳を振りかぶったエドモンドからアシュトンを庇うように、イーディスが割り込んだ。

「イーディス、危ない! ーーえ?」

 とっさに庇いかえそうとして、一拍遅れてイーディスの言葉が耳に入る。ーーお兄様?


 今度こそ完全に思考がフリーズしてしまったアシュトンを置き去りにして、会話は進む。

「イーディス、どいていなさい。残念ながらお前は騙されている。こいつは屑だ。金を儲けることしか能がないブラックモアの蛆虫だ。大方、我が家の名声を目当てにお前に近づいたんだろう。うっかり毒虫にでも触ってしまったと諦めて、彼のことは忘れるんだ」

「アシュトン様を侮辱しないで!」


「待って。君はグレイヴズ家の娘なのか? イーディス」

 ひとり会話にいまいち着いていけていないアシュトンを、エドモンドが血走った眼で睨んだ。

「何を白々しい。楽しかったか? 何も知らない妹を騙すのは。世間擦れしていないイーディスを誑かすのはさぞかし簡単だっただろう」

「彼は何も知らないわ。お兄様こそどうしてーー、ルーシーね? もう少しだけ待ってって、言ったのに」


 最後の台詞は、いつものようにイーディスのそばで控えている侍女のルーシーに向けられたものだった。

 主人に責められているというのに、大して堪えている風でもなく、肩をすくめる。

「もう少しもう少しって、もう季節が変わるじゃないですか。罪悪感で毎晩ベッドの中でめそめそ泣くぐらいなら、さっさと言っちゃえば良いんですよ」


「泣いていた? 毎晩……?」

 いつもにこにこしているイーディスの涙はアシュトンの胸を抉った。今も泣かせてしまっている。

 イーディスがあの忌々しいグレイヴズの妹だとか、そういうのは一旦置いておいて、まず彼女の涙を止めなければいけないと思い直した。


 エドモンドもアシュトンが本当に知らない様子なのに戸惑っていた。

「知らなかったのか、本当に? すると貴様は家名も知らない女性と会い続けていたというのか。やはり弄ぶつもりだったんだろう!」

「私のわがままで言わなかったのよ、お兄様。知られたくなかったの。私がグレイヴズの者だって」

 それではやはりこのふたりは兄妹なのかと衝撃を受ける。何て似ていない兄妹なのかと思いはするものの、改めて見てみると、髪と瞳の色はそっくりだ。


 ーーえ、じゃあ俺、めちゃくちゃ嫌われてない?


 そこに思い当たってアシュトンは凍りついた。何せアシュトンはグレイヴズの宿敵ブラックモア家の長男だ。

 しかも散々グレイヴズ家やエドモンドの悪口を言った上に、イーディスがあれだけ生家について言いにくそうにしていたのに、深刻に考えることもせず、次々と約束を取り付けてしまった。

 どうしよう、本当は嫌で嫌で仕方がなかったのに、断れなかっただけだったのだろうか。


 真っ青になったアシュトンをちらりと見て、侍女のルーシーが場を納めるように咳払いをひとつした。

「とにかくおふたり共、まずはイーディスお嬢様の話を聞いてはいかがですか? それから殴り合いなり決闘なり、好きにされれば良いと思います。それに、ここは少し人目があり過ぎます」


 そう言われて、やっと三人は周りにギャラリーができていることに気付いた。

 慌てて場所を変えようと、公園内の少し離れたところにあるガゼボに移動した。



「わたし、生まれつき喉と胸が弱くて。二十歳までは生きられないと、ずっと言われていたんです」

 突然始まったイーディスの衝撃的な告白に、ひゅう、とアシュトンの心臓が冷えた。


「二十歳……? そんなに身体が弱かったなんて……」

 思ってもみなかった。年の割に小柄で痩せているし、顔色も陽に焼けていなくて真っ白だとは思っていたが、個性の範疇だと思っていた。

 何よりいつも幸せそうなイーディスの笑顔が、彼女を死の影などというものの片鱗さえ隠してしまっていた。


「いえ、それは子供の頃の話で。今はだいぶ丈夫になったんですよ? 成長すると体力がついてきて、発作もあまりおこらないようになりましたし。家族の看病も手厚かったので、お医者様も驚くぐらい回復したんです」

 そう言ってようやく笑うイーディスを見て、少しだけアシュトンは安心したが、同時に焦燥を覚えて拳を握りしめる。


 彼女が家族について語る口調は、紛れもなく愛情に溢れている。今日だけではなく、いつもそうだった。だから没落寸前でも、家族仲は良いのだろうと思っていたのだ。

 こんなイーディスに、自分は無頓着にグレイヴズの悪口をどれだけ言った? 彼女はそれを、どんな気持ちで聞いていたのだろう。

 すっかり意気消沈するアシュトンを見てイーディスが困った顔をしたが、気を取り直したように話を続ける。


「それで、あの……。私は十代の頃はほとんど領地の田舎屋敷カントリーハウスから出たことがなかったんです。王都での舞踏会や社交パーティーは憧れだったので、二十歳を過ぎてお医者様の許可が出た時は本当に嬉しかったんですけど。でもいざ王都に来て夜会に出てみると、みんな凄く綺麗で洗練されている人ばかりで、どんどん恥ずかしくなって。私なんてきちんと社交界デビューもしていない上に、田舎もの丸出しの格好で出席してしまったって」


「そんなことはない。君は誰よりも輝いていた。出逢ったのは暗い中庭だったけど、明るいホールで君に微笑まれていたら、俺はきっとその場で求婚していたよ」

「貴様は少し黙っていろ!」

 歯の浮くようなアシュトンの台詞にエドモンドが怒鳴る。

「思ったことを率直に伝えているだけだ」

「軽薄なんだ、貴様の言葉はいちいち」


 アシュトンとエドモンドのやり取りに、イーディスが微笑む。

「夜会の時も、そうやって言い合いをしていらっしゃいました。初めはあの優しいお兄様がって驚いたんです」

「優しい? こいつが!?」

「口を開くなと言ってるだろうが!」


「ブラックモア男爵家のことは、聞いたことがありました。その……あまり良い話ではないんですけれど。とにかくうちとは因縁のある家柄だと。一番近づいてはいけない方だと」

 アシュトンは内心頭を抱えてしまった。それはアシュトンたちもそっくり同じだったからだ。弟妹が社交の場に出る時、グレイヴズ家の者と会っても決して近づくなと言い聞かせている。

 そして自分が親や祖父や一族の者から言われていたことでもあった。


「その時私は、パーティーでみんなにわらわれているような気がして、逃げ出したくて仕方ありませんでした。その時に思ったんです。もしもこの会場で一番仲良くなるのが難しいはずのブラックモア家の方に話しかけて、少しでも受け入れてもらうことができれば、他のことは全部上手くいくんじゃないかって。だから、ルーシーにわけを話して、少しだけひとりにしてもらうように頼んだんです」


 そして言いにくそうに付け加える。

「はぐれてしまったと言ったけど、あれは嘘でした。私はどうしてもアシュトン様と話がしてみたくて、わざと近づいたんです。まさかあんなに親切にしていただけるなんて」

 騙してしまってごめんなさい、とイーディスは頭を下げた。


 そうか、とアシュトンは思う。あの時は自分の正体を、すでにイーディスは知っていたのだ。

 意外と大胆な一面があることを知ったが、好ましさしかなかった。

 最初自分はどんな風に彼女に接したのだったか。随分とそっけない態度をとってしまったのではなかったか。でもそれを、イーディスは親切と受け取ったのだ。


「もしかして、それで罪悪感があったから、俺の誘いを断れなかったんですか?」

 そうだったら哀しすぎるな、と思いながら口に出した疑問を、「いいえ!」とイーディスが強く否定する。


「そうじゃない……。アシュトン様といる時間が、あまりに楽しすぎたから。何度も言おうと思ったんです。私がグレイヴズの人間だって。でも言ったら、もう会えなくなってしまうでしょう? だから、もう少しだけって、何度も引き伸ばしてしまったの」

 アシュトンは安心した。では、多分自分は嫌われていない。


「なんで会えなくなるんですか?」

「だって」

 イーディスが顔を上げる。もう涙はだいぶ止まっていたが、まだ少し頬が濡れている。さすがに顔を触るのは失礼だろうか、と思う前に手が胸元からハンカチを取り出し、頬に当てていた。

「貴女は俺がブラックモアの人間だとわかっていて、それでも笑いかけてくれたんでしょう。どうして俺が、同じように貴女の家のことを知ったぐらいで好意がなくなると思うんですか?」


「こ、好意……!」 

 イーディスが顔を真っ赤にするので、アシュトンは少し笑った。

「先程の求婚をお忘れですか。とんだ邪魔が入ってしまいましたが」

 そう言ってアシュトンはエドモンドをちらりと見た。エドモンドは舌打ちをしたが、もう口を挟んでこようとはしなかった。

「いくら俺でも、好きでもない人にあんな真似はしません。たとえ君の家名を聞いても、撤回する気はない」


 実際アシュトンは、ここに移動するまでの間に、何度も自問したのだ。イーディスはあのグレイヴズの娘だった。仮にイーディスが承諾してくれても、両家の反発は熾烈を極めるだろう。

 長い時間をかけて説得しなければならない。下手したら実家からは廃嫡されるおそれもある。それでもイーディスを諦めないつもりなのか。

 何度考えても、答えはイエスだった。アシュトンの本能はイーディスを望んでいる。


「あの、やっぱりごめんなさい」

 イーディスは頭を下げた。アシュトンは絶望的な気持ちになる。

「……ブラックモアの者とは、結婚できませんか」

 もしそうだと言われたら、家を捨てることも検討しようかと忙しく考えるアシュトンに、イーディスは慌てたように手を振った。

「いえ、違うんです。アシュトン様には不満なんてありません。問題は私の方にあるんです。あの、私は子供が産めないんです」

 イーディスはできるだけさらりと伝えようとしているようだったが、予想外の告白に、アシュトンは息を呑んだ。

 

「幼い頃から薬を飲んでいた影響で、身体の一部の発達が充分ではないようなのです。おそらく妊娠することは難しいだろう、もし妊娠しても、充分に育つことなく流れてしまうだろう、もしある程度育ったとしても、出産に私の身体は耐えられることができないだろうとお医者様が」


 淡々と説明するイーディスにやめろ、と心の内で叫んでも、イーディスがどれだけの覚悟で話してくれているのかを思うと、遮る気にはなれない。

「アシュトン様の家はーーブラックモア男爵家は、家督を継ぐ条件が子をもうけることなのでしょう」


 ーーうちの襲爵は少し変わっているんですよ。爵位を継ぐのは男子でも女子でもどちらでも良くて、とにかく一番最初に後継ぎになる子供を作った者が次の当主になるんです。

 ーー今のところ兄弟で結婚している者はいないし、長子だから、順当にいけば俺になるんじゃないかな。ふたつ下の妹のサラは婚約者がいるから、もしかするとそっちの方が早いかもしれないけど。


 冗談まじりのいつかの自分の発言に、アシュトンは自分を殴りつけたくなる。

 本当に、軽い気持ちで世間話をしただけのつもりだった。いや、願わくば君がその当主の妻になる気はない? という希望があったのは否定できない。

 ずいぶん先進的ですねと笑っていたが、あの時、イーディスはどんな気持ちでそれを聞いていたのだろう。


「……あのね、イーディス」

 いつもならすらすら出て来るはずの言葉が淀みがちになったのは、どうすればこの子を傷つけないように言えばいいのか考えていたからだ。


「俺にも妹がいるんですよ、3人。あと弟もひとり。すぐ下のサラは、俺と2歳違いだから今20歳かな。彼女は俺とは腹違いのせいか俺に似ず堅実でしっかりしていて。っていうか、実は俺だけ母親が違うんだけど、今の継母かあさんが産んだ弟妹はみんな真面目な子で」

 この話は周知の事実だったが、自分から話すのは初めてだった。


「本当は、俺じゃなくて妹たちの誰かが家を継いでも構わなくて。みんな口には出さないけど。うちは投資で急激に大きくなった家で、俺は相場師としての才能はあるけど、本当は堅実なサラみたいなタイプの方が、今のブラックモアの当主には向いているんです。気の良い男爵家の三男坊の婚約者もいるし。だから、どちらかというと、俺がイーディスと結婚して妹が当主になった方が、みんな幸せになれるかもしれない。あ、いや、結婚とか言っちゃったけど重すぎるなら、まずはお試しの交際とかでも良いんだけど」

 傍らでエドモンドがぼそりと呟いた。

「……すべての交際は結婚が前提であるべきだろう。これだから軽薄な成金は」


 それを聞いたイーディスは顔を覆うと、肩を震わせ始めた。

「えっ、そんなに嫌だった?」

 アシュトンが慌ててイーディスを覗き込んだ。

「ふっ、ふふふ……」

 イーディスは泣いているのではなくて笑っているようだった。

「ごめんなさい、いつかのアシュトン様のお兄様の口真似を思い出してしまって」

 

 エドモンドは思い切り嫌な顔をしたが、アシュトンはイーディスが笑ってくれてほっとした。


「不思議ですね。どんなに落ち込んでいても、アシュトン様の話を聞いていると、何だか嬉しくなってしまうみたい」

 アシュトンも微笑む。


「奇遇だな。俺も、君の笑顔を見ていると、幸せになるんですよ。あ、もちろん泣き顔も美しいし、泣く事が悪い事だとも思わないから、泣いてもいいんだけど」

 フォローしようとすると余計なことまで付け加えてしまう。イーディスとはどうもスマートに話せない。

 呆れたような空気がエドモンドとルーシーの方から漂ってきたが、気にならなかった。他でもないイーディスが笑ってくれたので。

「そういえば、怒った顔はまだ見たことはないな。いつか見せてほしい」


 その時、ふっと花の匂いが薫って、目の前にあの大きな花束が差し出された。エドモンドの乱入によりすっかり存在を忘れていたのだが、いつの間にか拾って持っていてくれたのか。差し出しているのはルーシーだった。

 取り落としてしまったはずのそれは、綺麗に整え直されていて、初めより見栄えが良くなっているくらいだ。

 何て気の利く侍女だろう。


 アシュトンは花束を受け取って、それをイーディスに差し出した。

「どうか俺を、幸せにしてください」


 突っ込みどころいっぱいのセリフにイーディスは泣き笑いの表情になってしまい、ルーシーはやれやれという表情をした。

 エドモンドはぴくりと眉を動かしたが、もう何も言おうとはしなかった。

 野暮は洗練を美徳とする貴族がもっとも軽蔑するものだからだ。



 それでも躊躇するイーディスにアシュトンが死ぬほど粘って、ようやく求婚の承諾をもらったのはそれからひと月後のことだった。


 まさか殺されはしないだろうが、殴られるぐらいはするだろうと覚悟を決めたグレイヴズ家への挨拶だったが、殺気をみなぎらせてエントランスホールで待ち構えていたグレイヴズ伯爵夫妻も使用人たちも、イーディスがはにかんでこの上なく嬉しそうにアシュトンを紹介すると、何も言えなくなってしまっていた。


 本当は死ぬほど反対したいけど、イーディスが幸せなら断腸の思いで祝福しようという雰囲気がありありと伝わって来る。


 ーーやばい。俺これ以上この家を憎めないな。


 イーディスを育てて、愛情を注ぎ、医者に驚かれるほど回復させてくれた家なのだ。

 今もこんなに、彼女は愛されている。

 数百年の確執はあっさりと吹き飛んで、むしろすでにちょっと好きになっていた。



 結婚後、ふたりは比較的王都から近い郊外の村にこじんまりとした屋敷を購入した。

 何せ王都は都会ではあったのだが、多くの馬車が行き交う大通りで発生する粉塵も、工場や大きな屋敷からもくもくと上がる煙も、イーディスの喉や胸には毒でしかない。


 イーディスの結婚を期に、侍女のルーシーも結婚が決まって王都を離れることになり、彼女の嫁ぎ先の村を紹介された。

 その村は、気候も良く自然も豊かで、それでいて王都まで一直線に道が敷かれている。馬だと半日もあれば着くので、引き続きブラックモア家の業務をこなすにもそれほど不都合はないだろうと思われた。

 何より幼い頃からイーディスに仕えていたルーシーが近所にいるという環境は魅力的だったのだ。


「でも、せっかく侍女を辞めるのに私が近くにいたら、気を遣ってしまうのではないかしら」

「あたしが来て欲しいって言ってるんですが。それに、気を遣う? 見誤り過ぎですよ、『イーディス』」

 イーディスの遠慮を鼻で笑ったルーシーに、アシュトンは多いに賛同し、ルーシーの性格をありがたいと思う。彼女たちは良き隣人、良き友人になるだろう。



「アシュトン様にしたって、随分不便になるんじゃないですか? 情報だって都会にいる時みたいに逐一入ってこなくなるし、王都の証券取引所へも遠くなってしまうと、業務に支障が出るのでは」

「大丈夫大丈夫。贅沢しなければ債券の配当だけで暮らしていける程度の収入はあるから、前みたいに取引所に張り付かなくても良いんですよ。情報なら、隣町のコーヒーハウスで手に入る分で充分。街の喧騒から解放されて、お礼を言いたいぐらいです」


 それでも恐縮しているイーディスに、それより新居の話をしましょう、と提案する。

「どうせなら、せっかく広いんだし、庭に何か植えませんか? ここは土も水も良いから、植物がよく育つらしいですよ」

「じゃあ、果樹が良いです。花も良いけど、そのあとに美味しい果物が実ったら、楽しみも二倍になると思いませんか?」

 イーディスがぱあっと明るい顔になる。収穫時期のイーディスの嬉しそうな顔を想像すると、楽しみも三倍だな、とアシュトンは思う。


 イーディスを幼い頃から見ているという主治医にその話をすると、「それならあんずがおすすめです。シロップ漬けにすれば一年中食べられるし、喉にも良い。種は上手く加工すれば薬になります」と言うので、あんずの苗を手に入れて、20本ばかり植えた。

 ルーシーが「あたしはりんごとさくらんぼが好きです」と言うので、その樹の苗も植えた。


 苗はすくすくと成長して、数年経つと花を咲かせ、少ないながらも実をつけるようになった。

 花の季節になると、ふたりでガーデンチェアに腰かけて、飽きることなく花を見た。正確にはアシュトンは、花の雨に見惚れるイーディスを。



 やがて毎年屋敷の中だけでは消費できないほどの果実が実るほどに樹は成長した。ほとんど庭というより果樹園と言っていい風景だ。花と果実の季節になると週末に庭を近所に解放し、果実は村のバザーに出した。


 イーディスが学校で子供たちに教えたいと言い出したのはその頃だ。

 ささやかなガーデンパーティーを開いた時に、村で唯一の初等学校の校長から話を持ちかけられたのだという。


「先生が足りていないんですって。教えるのはせいぜい簡単な読み書きと、買い物に必要な計算ぐらいで良いらしいんだけど。……駄目かしら」

 渋い顔をするアシュトンに、イーディスの語尾が小さくなる。


「学校に行ったことなんてない私が人に教えるなんて、できっこないと思う?」

 幼い頃身体が弱く、ほとんど屋敷の敷地内から出ることがなかったイーディスは、家庭教師に勉強のすべてを習っていたらしい。

 そのことを言っているのだと気づいて、アシュトンが慌てて否定する。


「何を言ってるんだ。たくさん本を読んでいて、字だって俺よりはるかに綺麗じゃないか。正直、村の学校の教師にはもったいないぐらいだよ。性格だって、子供を教えるのに向いていると思う。そうじゃなくてーー俺が心配しているのは、君の身体のことだ。去年の冬にも発作を起こしているだろう」


 だいぶ丈夫になったとはいえ、人より弱いイーディスの気管支は、冷たい空気を吸うと炎症を起こしやすくなる。この前の冬にも気管支炎を拗らせて、一週間近くも高熱を出してしまった。

 結婚してからあれだけ酷い熱を出したのは初めてだ。

 真剣にもっと暖かい地方への移住を検討し出したアシュトンに、ここが気に入っているから絶対に引っ越さない、と初めての喧嘩をしてしまったのは記憶に新しい。


 それは大丈夫、とイーディスが微笑む。

「みんな私の身体のことも知っているから。暖かい季節、午前中の間だけで良いそうなの。正規じゃないから、正直お給料はそんなに高くないのだけど」

「それは、構わないけど」

 イーディスの目はやってみたいと言っているのに、それをにべなく却下するほど、アシュトンは冷徹にはなれなかった。


「君が決めたのなら、俺は応援するしかないな。でも約束してほしい。やっぱり身体に負担がかかるようならすぐに辞めること、具合が悪い日は無理せず休むこと。月に何日かなら、俺も代わりに教えられるから」

「まあ。多忙なあなたに教えてもらえるかもしれないなんて、生徒たちは幸運ね」

 イーディスがいたずらっぽく笑う。


 その頃にはアシュトンの妹のサラが結婚して子供が産まれ、彼女が正式な次期ブラックモア男爵に決定した。

 アシュトンは爵位を継がなかったが、高等教育を受け、王都の事情にも経済にも明るいアシュトンは、相変わらずブラックモアの家業を手伝う傍ら、すっかり村の名士としていろいろな相談ごとも引き受けるようになっていたのだ。


 アシュトンが見込んだ通り、イーディスの笑顔は子供達にすぐ馴染んだ。

 教え方も優しく、わかりやすいと評判で、推薦状を出すので正式に教師として務めてほしいと要請があったくらいだ。だが教師として登録されると転勤もあり得ること、負担が大きくなることから残念ながら断った。



「アシュトン。今日メアリーとその家族が挨拶に見えたのよ。進学のこと、お礼を言われたわ。私からも、本当にありがとう」

 その日王都から帰ったアシュトンを、イーディスは嬉しそうな笑顔で迎えた。


 教え子であるメアリーという少女に、アシュトンが進学費用を援助することに決めたのだ。

 彼女は飛び抜けて優秀な生徒だったが、家庭の経済状況から進学は断念せざるを得なかった。

 いくら本人に勉学への熱意はあっても、学校を卒業したら、家の手伝いをして、年頃になったら村の誰かにでも嫁ぐのが、この村の大部分の少女たちの進路だった。


 実際、この村は農場か製材場か何かしらの店を家業にしている家が大多数だ。一部を除いて、それほど裕福でない家の子供は男女共にほとんどが家を継ぐか結婚するために進学はしない。

 だが彼女はあまりに優秀だったし、医師になるという志もある子だった。

 イーディスもなんとかできないかと心を痛めていたら、アシュトンが彼女の学業成績を見て面談を重ね、援助を決めたのだ。


「有望な人間を見極めて投資するのは、俺の得意とすることだからね。相談してくれたのは君だ。そして彼女は良い医者になると判断したから、援助しただけだよ」

 照れもあって皮肉げな口調になってしまうアシュトンを、イーディスはふふふと笑って嬉しそうに見つめる。


「私だけではどうにもできなかったわ。本当はすべての子供が、望んだだけ学べると良いんだけど、そんなわけにはいかないものね。それでも、才能のある子の情熱や努力が認められて報われるのは良いことだわ。なんて素晴らしいんでしょう」


 本当に素晴らしいな(君の笑顔が)、とアシュトンは思ったので、経済的に困窮しているために将来の道を断念しなくてはいけない若者への援助を本格的にやってみようと決意する。

 イーディスと相談して、財産から奨学基金を設立し、事業の一環にすることにした。

 アシュトンの投資への嗅覚は、残念ながらこれはそんなに実利の出る事業にはならないと言っている。

 だがイーディスの笑顔の前には、そんなことは瑣末なことだった。



「いいじゃんもっと出してよ。羽振りは良いだろ? 俺のお陰で。慈善事業で持たざる者に振り分けるのは、富める者の義務だって」

 アシュトンは妹のサラと交渉していた。

 次期ブラックモア男爵になることが決定したサラは、兄のアシュトンほど相場師としての才能はないが、代わりにきっちりとデータを精査するだけの慎重さと勤勉さを持っている。


「その慈善事業に出せる金額がこのぐらいだと言っているんです」

 サラが出して来た数字を見て、良い線だ、とアシュトンは内心で感心する。事業の伸び代、将来性を鑑みた上で、社会的意義のある慈善事業への融資の上限として、自分でも同じくらいの額を提示しただろう。

「でもこれだと、毎年奨学生に継続的な支援をするには足りないんだよなあ……」


 もう少し、と金策に奔走するアシュトンだったが、リターンが見込めない事業に関して、貴族達の財布の紐は固い。

 かつてさんざん融資してやった恩も忘れて、と毒づきたくなるが、皆そうやって自分の家を守っているのだ。責める気にはなれない。


 それにしても、援助する立場だった時には資金を集めるのがこれほど大変だとは思っていなかった。

 あちこち走り回っても徒労に終わることが多く、疲労感はあったが、家に帰るとイーディスが笑顔で迎えてくれる。疲れは大体それで全部吹き飛ぶのでそれは構わない。ただ彼女に負担をかけているのではないかと心配だった。


 無理はしないでね、とイーディスは言うが、彼女も近所のルーシーと組んで婦人会への根回しやチャリティーの発案など、アシュトンが身体を心配する程度には忙しくしているのだ。


 細々とした寄付はあったが基金は年々じりじりと目減りしてゆき、やがて数年後、どうにも資金繰りが限界を迎えた。

 奨学金は継続的な支援が必要なので、年々必要な額は膨れ上がっていくばかりだったのだ。

 今援助中の奨学生達への支援を途絶させるわけにはいかないので、これ以上新規に奨学生を募ることは難しい。これまで就学困難な成績優秀者に毎年ひとりかふたり奨学金を出していたのだが、今年は諦めなければならないかもしれない。

 

 アシュトンは少ない枠を勝ち取るべく懸命に勉強している児童達の顔と、イーディスのがっかりした顔を思い浮かべた。

 あと少しだけとごまかしながらここまで来てしまったが、これ以上は本当にイーディスを窮乏させることになってしまう。それはまったくアシュトンの本意ではない。

 イーディスはそれでも構わないと言うだろうが、結婚して以来、全然贅沢をさせてあげられていない気がする。


 それでも彼女は、いつも楽しそうに笑っていた。

 庭の花が綺麗に咲いているの。今日の料理も美味しかった。生徒のジェシーが一週間ぶりに学校に来たのよ。アシュトンは今日も素敵ね。


 それだけのことで、本当に嬉しそうに笑うのだ。嫌だなあ、とアシュトンは思う。あの笑顔を曇らせることは告げたくない。

 だが、奨学金基金は夫婦の共同事業でもあることだし、誤魔化しはできない。頭の良いイーディスには厳しい財政状態など大体ばれているはずだ。残念だが潮時だろう。


 そう腹を括った頃合いを見計らったように、多額の寄付が一口舞い込んだ。その額は今年も奨学生を出し、基金を軌道に乗せるための数年間を持たせるのに充分な額だった。しかしアシュトンは救世主のはずの署名を見て、眉根を寄せる。


 小切手の送り主は、かつての宿敵にして愛する妻の実兄、エドモンド・グレイヴズだったのだ。



「こんなに多額の援助を俺にするなんて、いったいどういうつもりですか。どう考えても、これだけの額をぽんと頂く義理はないですよね。同情ですか。それともまさか、これと引き換えにイディを返せとでも? 彼女を働かせていることも、どうせお聞きになっているんでしょう」


 義弟の突然の来訪を受けたエドモンドは、心底呆れたというようにため息を吐いた。

「馬鹿か。何故同情などしないといけないんだ。私を誰だと思っている。仮にも名門グレイヴズ家の次期当主だぞ。一門の責任を負う者として、一時の私的な感情に流された散財をする訳がないだろう」


 それでも、いつもなら余裕げな顔で皮肉を吹っかけてくるアシュトンが珍しく参っていることに気づいたのか、エドモンドは口調を少し和らげた。


「寄付をしたのは、グレイヴズが支援するだけの価値のある事業だと判断したからだ。人選にもその後のフォローにも手を抜いていないことは調べればわかる。その理念にも賛同する。ーー良くやっている」

 エドモンドは淡々と事実だけを述べているはずなのに、アシュトンにはそれが激励に聞こえた。


「イーディスの近況についてもたびたびルーシーから報告を受けているが、今ほどいきいきと嬉しそうなイーディスは見たことがないと言っている。あいにく、そんな妹を無理矢理連れ戻して恨まれる趣味はない」


 納得したらさっさと小切手を持って行け、と言われてアシュトンは深く頭を下げた。せめて表情を見られないようにすることが精一杯の矜持だったのだ。きっと情け無い、泣きそうな顔をしていただろうから。



 やがて、奨学生第一号のメアリーが無事に医者になり、村に戻って来て、返済と寄付を申し出た。

 そしてやはり同じように、援助を受けた者たちが、続々と頭角を表しはじめた。すっかり国の高度人材となった彼らは耳目を集めた。その点アシュトンの人を見る目は確かだったと言える。


 すると現金なもので、これは慈善活動の宣伝になるとみなした貴族や資産家たちが、次々と寄付を提案してくるようになる。そうやってようやく基金も軌道に乗り始めた。



 アシュトンとイーディスは屋敷でささやかな祝杯をあげた。

 本当はもっと豪華にしても良かったのだが、これ以上のことは、イーディスが望まなかったのだ。旅行も王都滞在も身体に負担がかかるだけだし、ここにいる限りは、身を飾るドレスも装飾品も必要ない。その分はすべて基金に回したいと。


「でも、あなたはどうかしら。本当なら、爵位を継いで、王都で悠々自適な人生をおくっていたかもしれない人なのに」

 言外に、後悔していないかと問うているようなイーディスの言葉に、聞き捨てならないとアシュトンは眉をひそめる。


 たまにイーディスから、自分と結婚したことで爵位を放棄して、子供のいない人生を選ばせたことを負い目に思っている素振りを感じることがあった。

 そんな時、アシュトンはもどかしい気持ちでいっぱいになる。


「なんだ、本当ならって。他の人生があったかもしれないなんて、そんなこと考えたくもない。やめてくれ」

 失言を誤魔化すように曖昧に笑うイーディスに近づいて引き寄せる。


「最初に言っただろう、君が笑っていてくれれば、俺は幸せだって」

 アシュトンはイーディスの耳元でゆっくりと伝えた。聞きようによっては軽く聞こえる内容だったが、口調は重々しい。

 本当に大切な本心には、言葉ひとつひとつに真心をこめて伝えること。これは、イーディスと暮らすようになって、アシュトンが覚えたことだ。


「本当に幸せだよ。……すごく」

 仰向いてアシュトンをじっと見つめてくるイーディスを見つめ返しながら、伝えた言葉はあまりに本心だったので、最後は情けなく少しかすれてしまう。

 言葉にすると、半分も伝わらない気がした。


 ゆっくりとイーディスの頬を撫でる。昔より少しだけ陽にやけた肌も、最近気にしはじめた目元の笑い皺も、愛しいと思う。彼女が愛しているこの屋敷も庭の樹も、学校の子供たちも、日々の忙しなさも、全てが愛しかった。幸せのすべてが、この腕の中にあった。


 私も、とイーディスが嬉しそうに笑う。言葉を連ねるよりうんと雄弁な笑顔を、出会った頃よりもはるかに、アシュトンは愛していた。



 イーディスは医者の見立てよりはずいぶん長く生きたが、それでも人よりは長生きすることはできなかった。

 歳を重ね、体力が落ちたせいもあるのだろう。例年より寒い年、冬のはじめに大きな発作を起こすとあっという間に悪化して、病床から起き上がれなくなった。

 その冬、アシュトンはすべての予定をキャンセルして、ずっと屋敷にいた。


 春まで持ったのも、医者に言わせると奇跡的らしい。庭の樹木が花を終えるのを見届けて、満足そうに眠りについた。

 アシュトンはベッドの脇の椅子に座ってイーディスの手を握りしめたまま、しばらくの間そこを動くことができなかったので、階下の皆に時が来たことを告げたのは、部屋の外で黙って待機していたルーシーだった。


 イーディスの臨終の際にはふたりの親族をはじめ、近所の者や学校の生徒、かつての教え子たちや同僚や村人たちと多くの人が駆け付け、到底全員は屋敷の中に収まりきれないほどだった。

 ルーシーの報告を聞いて最後の挨拶にと階上の夫婦の寝室に入った彼らが見たのは、開け放たれた窓から降り注ぐ白い花びらと、黙ってイーディスを見つめるアシュトン、そしてこの上なく幸せそうに目を閉じたイーディスの笑顔だった。


 20年ほどの結婚生活の中で、イーディスが笑いかけるたびにひとつの例外もなくアシュトンはその笑顔にみとれてしまったのだったが、最後までそれは変わることがなかったのだ。



 妻亡き後のアシュトンは後を追おうとするんじゃないか、または半狂乱になってとんでもない行動に出るのではないか、いやうじうじと残りの人生を失意のどん底で泣き暮らすのではないかと周りは戦々恐々としていたのだが、意外にもそうはならなかったのは、何をおいても多忙だったためだ。


 それまで手を貸していた生家の投資事業からは手を引き、取り憑かれたように妻とふたりで興した奨学金事業を拡大し始めたアシュトンは、近隣の学校だけではなく、国内の学校や孤児施設を飛び回るようになっていた。

 学びたい意欲はあるが不遇な子供や優秀な学生が居ると聞けば馬車を駆って何処へでも行き、そのうち国中から届くようになった進学を望む子供たちからの手紙にくまなく目を通し、面談を重ねる。あちこちで講演をし、パーティーにも出席し、寄付金を募った。


 そうやって急速に大きくなっていった奨学金の事業規模はやがて到底いち個人の手には負えなくなり、財団を設立した。共同出資者には、アシュトンの生家であるブラックモア家とは犬猿の仲だと有名だったグレイヴズ家が名前を連ねた。

 当初財団名はイーディスにしたいとアシュトンは主張したのだが、さすがにそれは恥ずかしいだろうと関係者で話し合った結果、オーチャード財団と名付けられた。


 アシュトンとイーディスが結婚した時も社交界を驚かせたものだったが、どうやら財団の設立によって完全に確執がなくなったようだとゴシップ誌が連日書き立てたのだった。



 壮年になっても若い頃の端正な面影が残る、財産も名誉もあるアシュトンを、社交界は放っておこうとはしなかったので、爵位を持たない男の再婚にしては破格の縁談がたびたび舞い込んできたが、アシュトンはそれに一瞥もすることはなかった。

 ひとりになっても夫婦で暮らした屋敷を離れようとはせず、使用人は最低限。それで充分だった。相変わらずそこで仕事をして、用がある時だけ王都に通うという生活を続けている。


 屋敷には時おり、立派になった奨学卒業生たちが訪ねて来る。彼らの話を聞くのがアシュトンの楽しみのひとつになっていた。

 彼らの進路は多岐にわたっていて、鉄道王、銀行頭取、司法関係者、医療関係者、学者、芸術家とさまざまだった。もちろん運が左右する世界でもあるので、残念ながら芽が出ない者もいる。そういう者を自分の財団にスカウトし、あるいは才能を欲している企業に斡旋する。

 そうやってオーチャード財団の名声は国中にとどろいていた。



 更に時が流れ、庭の樹が花を咲かせる春になると、毎年のように財団の共同出資者であるグレイヴズ卿ーーエドモンドが屋敷にやって来るようになった。ふたり共すっかり年をとっていた。

 随分と暇なんだな、と毒づくアシュトンに、貴族とはそういうものだ、いつもあくせくしている労働者とは違う、と皮肉で応じる。そして手土産に領地の蒸留所で作ったというウイスキーを渡し、そのまま数週間からひと月ほども滞在してゆく。それが恒例になっていった。


 エドモンドが滞在している間中は、庭にテーブルチェアを出し、思うさま語り合う。

 この季節には庭を開放しているので、近所の者や村の子供たちもよくやって来た。彼らは礼儀正しくふたりに挨拶をし、話の邪魔をすることはない。ただ楽しそうな笑い声が響き、それは老人となったふたりの耳には心地良いだけのものだ。

 

 ふたりは白い花が香る中で、とりとめなく話をした。若い頃の話、事業の話、イーディスの思い出話、そして財団の未来の話と、話題は尽きることがない。いつの間にか彼らは無二の親友になっていたのだ。

 そして時折り黙り込むと、花に目をやり、アシュトンお手製のアプリコットジャムが添えられた焼き菓子に手を伸ばす。

 このジャムはイディも絶賛で……というアシュトンの口上はもはや聞き飽きているので耳を傾けることはないが、確かに甘すぎないジャムの味はエドモンドの口によく合った。

 

 庭の花は、相変わらず馬鹿みたいに咲いて降った。一度笑い出すとなかなか止まらないイーディスの笑顔のように、いつまでも降り続けた。


読んでいただいて、ありがとうございました。

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とても素敵な、じんわりとするお話でした。 色々と心を巡るものはありますが、上手く言葉にできずもどかしいです。
素敵なお話でした…
すごく良かったです✨✨
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