侯爵様、お気は確かですか? この森は案内人がいないと迷いますよ?
その森は『迷いの森』と呼ばれていた。
古代の呪いに蝕まれたこの森の中ではあらゆる方向感覚が狂う。常に濃い霧に包まれて太陽の方角さえもわからず、木の枝は形を変え続け、印をつけても目を離した瞬間に消えてしまう。
一たび足を踏み入れれば二度と出ることはかなわない。
森に迷って死んだ人々はそのままさ迷う亡霊となって、生者を新たな仲間に引き入れようと求めた。
呪いは長い年月の果てに薄れるどころか強くなるばかりだった。
そんな森だから誰も領有することができず、二国間の境界になっている。
二国間の交流には普通は広大な森をぐるりと大回りしなければならない。
ところが……あまり広く知られていることではないが、その森の中に細い道が一本だけついていた。
道をつけたのは呪いの主の子孫とされる人々だ。彼らだけはその道の上にあるかぎり呪いの影響を受けず、森を横断することができる。
限られた行商人や緊急の使節が彼らの案内で両国間を往来していた。
彼らはそのような人々から『森渡し』と呼ばれていた。
秋口のある日のことだ。その森渡しの集落を兵士の一団が訪れていた。
徒歩の者が大半だが身分のありそうな騎馬の者も数人いた。中でもひときわ大きな馬に乗った背の高い男が森を見て呟いた。
「ここが迷いの森か」
迷いの森に隣接する地方の領主、若き侯爵ベルナールがここを訪れるのは初めてのことだ。
春先に父を亡くし侯爵の地位を引き継いだのだが、近頃ようやく諸事が落ち着いた。
落ち着くと同時に侯爵は趣味の狩猟を再開した。初めは手近な野原や森で小さな獲物を狩っていたが、すぐに飽き足らなくなった。
侯爵は迷いの森に目を付けた。ここは人の手が入らないまま太古の姿を残した森だ。野生動物の宝庫でもある。
……とはいえ、この森での狩猟は禁止されている。当たり前だが、迷って死ぬからだ。先ほど亡くなった前領主もその祖先たちも、ここで狩りをしようなどと、そんな無謀なことは言ったことがない。
しかし若さゆえの勢いあるいは無思慮のために侯爵はここでの狩猟を解禁し、森渡しの民に先導を言いつけた。
ところが森渡しの返事は色よいものではなかった。「この森での狩りは禁止されています」の一辺倒でにべもない。そもそも森渡しの民は彼の領民ではなく、命令に従ういわれもない。なかったが、侯爵はそんな理屈が通じる人間ではなかった。
業を煮やした侯爵は今日とうとう自らここへ乗り込んできたのだ。
「村長はいるか!」
家宰の命令で兵士たちは村中を呼ばわって回った。ともすればそのまま捜索を始めそうな剣幕だ。
仕方なく村長は侯爵一行の前に姿を現した。
村長は白髪の老人だった。嫌そうな顔を取り繕ってはいるもののそっけない態度を隠そうともしていない。
「これはこれは侯爵様、初めてお目にかかります。今日は如何用でございましょうか」
「如何用だと? 俺は先般より狩猟の先導を申し付けていたはずだ」
「それも先般よりお断りしておりました。この森は道を外れれば我々でも迷いかねないのです。狩りなどもってのほか、自殺行為でございます」
「何だと……? それが貴様らの役目だろうが!」
「我々の役目はこちらからあちらへ、あちらからこちらへと決まった道を渡るだけのことでございます」
「口答えするなっ!」
侯爵の怒りに老人は渋面を作って押し黙った。
「お待ちください!」
一触即発の気配が漂う中、一人の少女が村長のもとへと駆け寄ってきた。彼の孫娘、イオだった。
「私が行きます」
「イオ……」
割り込んできた孫娘に村長はますます渋い顔をした。
「やめろ。お前の手に合う相手ではない」
しかし少女はそんな祖父を抑えつつ侯爵をまっすぐ見返してもう一度言った。
「私が行きます」
「フン、お前のような小娘がか? 他にまともな男はいないのか?」
「私しかおりません。秋晴れの時期なんです、森渡しはみんな行商人の案内で出払ってしまっています」
侯爵はもう一度鼻を鳴らした。
「……仕方あるまい。お前が先導しろ」
「指示には従ってください それが守れないようであればお断りします」
「わかったわかった、うるさい奴め」
「おい、いつまで道を歩いているのだ。早く森に入れ」
「ですから、道を外れることはできません。迷います」
「話が違うではないか!」
「ですから……」
森に入ってすぐにイオは後悔していた。
侯爵はイオの言う事をまったく聞いてくれなかった。先導者どころか同じ人間と認識しているかも怪しい。侯爵は人を家柄とか地位とか、そういう肩書でしか判断できないタイプだった。
イオの苦手なタイプだ──正確に言えば森渡しの嫌いなタイプだ。こういうタイプの人間は格下と認定した相手の助言に従うことを恥と感じる。それどころか攻撃と受け取る。同じ型にはめられているのかと疑うくらい、決まってそうなる。そして森渡しの忠告にむしろ反発するように動いて、結果遭難する。
なるべく早く帰ろう。でないと共倒れだ。祖父の言う通りやめておけばよかった。
ジリジリとした焦燥感がイオの胸を焦がしていた。
その時ガサリと藪をかき分ける音がした。
木立の向こうに虎が見えた。
見事な虎だ。一瞬ピクリと耳を動かした虎は、しかしすぐに興味なさそうに木々の向こうへと消えていった。
侯爵は喜び勇んで指示を下した。
「やはりいるではないか! よし、勢子の者よ、行け! こちらへ追い込むのだ!」
「ですからおやめください!」
イオは全身の力で馬の手綱を引っ張って止めた。
「追ってはいけません! 帰って来られなくなります!」
「ああ、行ってしまった……」
虎を見失った侯爵は苛立たしげにイオを怒鳴りつけた。
「俺はこの国の領主だぞ! 俺の国に俺が入れない場所があるものか!」
「この森はあなたの領地では──」
「何ッ?」
侯爵は怒りまかせに腰の剣に手をかけた。
「貴様……、一体誰に向かってそのような口をきいている!」
抜き身の剣がイオの鼻先に突き付けられた。顔面を蒼白にしたイオはへなへなとへたり込んだ。
その時突然後ろから伸びた手が引っ張って、イオの姿は藪の中に消えた。
「な、何だ?」
「クソ、ここはどこだ?」
侯爵たちはたちどころに道を見失っていた。
イオが一行を離れた瞬間から森は様相を一変していた。先程までは薄れていた霧はたちまち先も見通せないほど濃くなった。木々は鬱蒼と茂って空も見渡せない。
しかもその梢の隙間から水が漏れ始めた。雨だ。
「閣下、こちらに洞窟が!」
雨で霧が払われた。家宰の指さす先に洞窟が暗い入り口を開いていた。
「よし、全員あそこに入れ。雨宿りだ」
彼らは洞窟へと駆け込んだ。
夜にかけて雨脚はいや増すばかりで侯爵たちはすっかり足止めされてしまった。今夜はここで過ごすことになりそうだ。
暗い洞窟の中だ。兵士たちは小さな油壷の口を開いて灯心に火をともし、明かりを取った。家宰の指示で兵士たちは携行食の準備を始めた。
深夜のことだ。見張りの兵士を除く他の全員は仮眠を取っていた。
その眠りを地響きが揺るがした。
地鳴りに続いて地面が揺れ、凄まじい轟音が彼らの眠りを打ち破った。全員が跳ね起きた。
地響きはしばらく続き、天上から落ちた小石がカラカラと跳ねた。
「何があった!」
暗闇の中に侯爵の声が飛んだ。消されていた明かりが手探りで再びつけられた。
小さなともし火に照らされた洞窟の中は前も後ろもなかった。どちらを見ても土の壁で、崩落が収まるとあれだけ降っていた雨の音ももう聞こえない。
土砂崩れだ。あまりの豪雨のために地盤が緩んだのだろう。
彼らは閉じ込められていた。
慌てて点呼が取られた。幸い巻き込まれた者はいなかったようだ。全員の無事を確認すると侯爵は即座に指示を与えた。
「よし、お前たち二人は剣を抜いて土を崩せ。他の者は列を作り、土を運んで後ろに捨てろ」
「土を入れる器はいかがいたしましょうか」
「兜を使え」
兵士たちは交代で任務に当たった。五人の兵士が間隔を取ってともし火を高く掲げた。二人の兵士が剣で土を突き崩し、他の兵士たちが掻き出した土を兜で運んだ。兜を手から手へと手渡して、土を奥へとリレーして捨てて行った。
「こいつを被ったら頭が土まみれになっちまいまさあ!」
一人の兵士がおどけた調子で訴えると侯爵は得心顔で頷いた。
「何、ここを出るまでの辛抱だ。洗えばよいし、そうだ、戻ったらこの功を賞して新調してやろう」
「それはありがたき幸せ!」
兵士の列に笑いが弾けた。彼らは意気揚々と、いっそ楽しげに土を掘っては奥に捨てた。
侯爵は頼もしく働く部下たちを満足そうに眺めた。
それにしても苛立たしいのはあの森渡し共だ。あいつらめ、ここを出たらどうしてやろうか……。侯爵は考えていた。
(ここを出たらあの森渡し共は皆死罪にしてくれる。そうだ、この森の木を全部切ってしまおう)
カツン
その時剣の先が硬い物に当たった。石でもあるのだろうか?
ところが隣の兵士の剣もまた硬い物を探り当てていた。不思議がっていた二人だったが、何度場所を変えても剣の先は硬い物に当たる。疑念はすぐに焦燥を伴う確信へと変わっていった。
剣は岩盤に行き当たっていた。
「こ、これは?」
家宰の動揺が兵士たち全員へと広がるのにさして時間はいらなかった。
侯爵たちには知る由もなかったが、この洞窟は古い時代──この森が『迷いの森』となる前に掘られた坑道だった。
そして全員の方向感覚がこの坑道に閉じ込められた瞬間に狂っていた。
彼らは過去の落盤による崩落を今土砂崩れで埋もれた入り口と信じて、奥の方の土を掻き出してはせっせせっせと入り口を埋めていたのだ。
無情の壁に突き当たって彼らはようやくその事実に気づいた。
後ろを振り向いた。彼らが運び続けた土は崩れた入り口をさらに厚く埋めてしまっていた。
……もう一度やるしかなかった。彼らは方向を変えて、今度こそ入り口へ向かって土を掘り返し始めた。
しかし先程までと違って兵士たちに力はない。うつむいて、ノロノロと、沈黙のまま作業に取り掛かった。全員の両肩に徒労感が重くのしかかっていた。
今度の彼らは掘り崩した土砂を足元に薄く撒いて踏み固めることにした。何も奥まで運ぶことはないと遅まきながら気づいたのだ。
兵士の中に火を掲げていた者は五人いた。そのうちの一人がともし火の油の小壺を何の気なしに地面に置いた。手が少し疲れていた。
その火がフッと掻き消えた。
慌てて床を探った兵士はそのまま声もなく倒れ込んだ。ドサリと重い音が響いて、周りの兵士たちは慌てて彼を助け起こそうとした。
「触るな!」
侯爵の鋭い声が飛んで兵士たちは動きを止めた。
その顔つきが険しくなっていた。
実際に見るのはこれが初めてだが、侯爵は以前に聞いたことがあった。狭い坑道の中では悪い空気が出て息が止まってしまうことがある、そのような空気は下の方から溜まるのだと。
実際、入り口を塞がれた今、足元の方から二酸化炭素が溜まって、膝下の酸素濃度は呼吸できる水準をとっくに下回っていた。
そもそもこの洞窟内の酸素は最初から入り口に向かって掘っていても出られるか出られないか、ギリギリの量しかなかった。
残りの酸素と彼らの残りの体力で脱出できる折り返し地点はとっくに過ぎている。
彼らは自分たちの墓穴を地の底目掛けて掘り続けていた。
イオは村長の背中に負われていた。腰が抜けて歩けなくなってしまったのだ。
彼女を藪の中へと引きずり込んだのは村長だった。きっとこうなると思っていた村長は一行の後をつけていた。
「……ごめんなさい」
「いいんだよ。お前に怪我がなくてよかった」
謝るイオに返ってきた祖父の声は優しかった。同じ声で諭されもした。
「勉強になっただろう。世の中には関わらない方がいい人種というものがいるのだ」
イオは村長の背中で黙って頷いた。しばらく沈黙があって、最後にひとつだけ尋ねた。
「あの人たちは……?」
村長は黙って首を振った。
侯爵一行の公式上の最終的な記録は『行方不明』というものである。
どうあれ彼らが日の目を見ることは二度となかった。