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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

真っ白な日常 ~闇~

作者: 高山 仁

真っ白な日常~優~のバッドエンド版です。

実際は、こっちを先に書いてます。

前半部分は、~優~と同じ内容になっています。

 

 プロローグ


「晶くん。聞いて欲しいことがあるの」

 電話の受話器から聞こえた言葉には、何故か重いものが含まれている。そのためなのか、声が微かに震えているような、そんな口調だと朝霧晶あさぎり しょうは感じた。

 電話の相手は、幼なじみの麻宮あさみやめぐみの姉、紀子のりこからだった。

「いいけど、何?」

 普通に答えたつもりだったが、晶の言葉は少し冷たい。そのせいなのかはわからない。ただ、長い沈黙が続いた。

「めぐみが……死にたいって……。そんなこといわれて、どう答えていいかわからなくて。あの子、冗談なんていわないから……」

「そう……。そんなに心配しなくていい。誰かに言ったってことは、生き方を知りたいって思ってることだから……。大丈夫……」

 紀子の言葉に、胸が締め付けられる感覚が晶を襲った。ゆっくりと、自分の言葉で紀子に答える。

「……ごめんね。めぐみのことお願い。私が頼めるの、晶くんだけだから……」

「わかったから、気にしすぎて、ぎこちなくならない方がいい。変に心配されると、かえって鬱陶しいから……」

「うん、ありがと。じゃ、おやすみなさい」

 紀子の言葉に晶は、同じように「おやすみ」という言葉を口にして、紀子が受話器を置く音を確認してから、自分も置いた。


(……死にたいか……)

 頭の中で、そうつぶやいて晶は自分の中にも、似たような感覚があることを感じていた。



 シーン1 居場所


 決められた日常。その中に晶はいる。どんなに人であることを拒もうと、人として生まれ、その環境の中で人間として生きてきた晶には、それを受け入れている自分も感じていた。ただ、人であり続けなくてはならない理由がわからない。自分自身が生き続けている理由が。

「此処は何処なんだ……」

「図書室よ」

 一人で窓の外から、空を眺めてつぶやいた晶に、めぐみがそう言ってきた。華奢なめぐみを見て、晶は昨日の電話のことを思い出す。

 無表情というわけではない。が、疲れているような、無気力な雰囲気がめぐみの表情にはあった。

「……そうだな……。じゃ、人はどうして存在している?」

 言った晶は、本気でその理由や意味を知りたかった。わからないから誰かに聞く、それが、たまたまめぐみだっただけ。

「存在してるから、存在している。意味や理由なんて、誰にもわからない……。でも、生きることを続けることが、正しいことだって、あたりまえのことだって、みんな言うわ……馬鹿みたい……」

 話していくうちに、めぐみは苦しそうな、哀しそうな、そんな表情をした。その言葉を晶は、否定するつもりはなかった。

(同じことを考える……)

「変な奴……」

「……そうね……」

 二人の会話を聞く人はいなかった。放課後の図書室は、テスト期間中を除いてはほとんど利用する人がいない。図書委員が退屈そうに、下校時間まで本を読みながら待っている。

 その図書委員の位置から、窓側にいる晶たち二人は死角になっているため、見えなかった。少し沈黙が続いてから、

「他人のことは言えないか……。おまえは、人、嫌いなのか?」

 そうめぐみに聞いた。

「そんなことないよ……」

 不思議そうな視線で晶を見て、めぐみは言う。そのめぐみの視線を、まっすぐに晶は見つめた。見られていることを気にせずに、めぐみは近くにある椅子に座った。

「お姉ちゃんから聞いたでしょ、私が死にたいって言ったこと」

「ああ」

「……わからなくなるの。決められたままに学校行って、知識を記憶して、それをテストして、沢山与えられた知識を記憶して、それを必要なときにうまく引き出せる人が、評価される。学校に限らないけどね。もっと歳を取って、会社で働いたとしても、結局は同じことの繰り返しでしょ?」

 晶はめずらしそうにめぐみの言葉を聞き続けた。いつもは、自分からこんな風に話し出すことはない。少しだけ微笑むと、めぐみは言葉を続けた。

「……だからかな、生きてることに疲れちゃった……」

「繰り返される毎日か……。やっぱり俺はわからないな、今、自分が何処にいるのか」

 晶は、寂しそうに自分を見つめるめぐみの視線が受け入れられなかった。ゆっくりと視線を外すと、窓から遠くの空を見る。少し暗くなりかけている、冷たい空だった。

「此処は図書室。そう呼ばれているから……。でも、私にも本当に何処にいるのかなんて、一つもわからない……。私の知っていることはみんな、誰かに教えられたことだけだから。私が知っていることは何一つないもの」

 知識、記憶、意識。自分という意識だけは、あるのだろうと晶は思う。ただ、自分が基準とする、考えることの元となるものが、結局は誰かに与えられた知識だけ。そう考えると、自分という意識も、創られたものに過ぎない。

「自分が恐くなるときがある。俺は、俺なのに、本当に俺なのかってな……。ただ、知らないうちに、操られているだけなのかって。こんな風に考えることも、プログラムされているなら、消えて無くなってもいいかなって思う……。何年経っても、同じだから」

 晶の言葉に、めぐみは少しだけ笑う。晶はただ怪訝そうに見た。

「……同じ繰り返しが壊れたらいいの?」

「いや、そんなに単純じゃないだろ。……理由なんてないのかもな。誰かを好きになるのも嫌いになるのも、感覚的な方が大きいから。理由は後から考える……。消えたいって思うのも、なんとなくなのかも」

「私は死にたいわ、居場所がないもの」

 そうめぐみは即答した。晶は驚くよりも先に、苦しかった。身体の何処が締めつけられているのかはわからない。ただ、苦しかった。

「俺の近くじゃ駄目か?」

「それってどうゆう意味?」

 聞かれて晶は言葉につまる。が、答えられないからではなかった。聞き返してきた、めぐみの質問の意味がわからなかったからだ。

「このまま、今みたいにこうして近くにいること。それだけだ……」

「一生?」

 そう聞かれて、めぐみの問いに気がついた。

「さぁな……。ただ今はこうして話せればいいのかもな、意味はなくても……」

 めぐみは答えなかった。

 そのまま沈黙して、しばらくずっと太陽が沈むのを見ていた……。



 シーン2 人


 昼休みの屋上は、昼食を目的に人が集まる。それなりに賑やかな場所で晶は、仰向けになって空を見ていた。人の話し声をBGMにして、じっと空を流れる雲を眺めている。

 危険がないように、かなりの高さまて鉄柵で囲んである屋上は、少し視点を変えれば、刑務所のようにも思える。

(……なんかこのまま消えてくれないかな)

 めぐみではないが、今、この全身の力を抜いて、呆然とした時間の中にいると、生きているという行為が本当に疲れることだと感じてしまう。周りの楽しそうな声は、晶には雑音としてしか聞こえていなかった。

「楽しい?」

「……そうかもしれない。気分は悪くないな。空を見てると、吸い込まれていく感じがして、此処から別の何処かへ行けそうな気がする」

 自分を覗き込むようにして話しかけてきためぐみに、晶は視線をめぐみの瞳に変えながら言う。めぐみは表情を変えないで、晶の隣で同じように仰向けになった。

 午後の授業の始まるチャイムが聞こえてくる。まだ残っていた生徒たちが急いで教室に戻っていく中で、二人はその場を動かなかった。チャイムが鳴り終わっても、二人はしばらく空を見続けていた。

「行かないのか?」

「……晶の近く……。私の居場所は……」

 すごく哀しい声だと晶は思う。何も言葉を口にできなかった。

(迷惑なのかな……。俺がめぐみを束縛してる……)

 そう思うと苦しくなる。近くにいたいのは自分の方だということが、晶にはわかっていた。だから、何も言えなかった。

「一人でいるとね、苦しくなるの。寂しくて、誰かに近くにいて欲しいって……。でも、こうして学校に来て、沢山の人の中にいると、もっと苦しくなるの。周りに自分と同じはずの人が、沢山いるはずなのに、どうしても私は他の人とは同じ場所にいられない……」

 空を見ながら聞いていた晶は、めぐみの声が少しずつ震えてくるのがわかった。泣いている時の声……。

「わかる気がする……。俺もそうだから、俺は何処に行けばいいかなんてわからない。周りに流されてるだけ……。同じかな、一人の時は寂しい。けど、みんなといると息苦しくなる……」

 意識してはいなかった。自然と胸が締めつけられて、同時に涙腺が脆くなっていくのがわかる。

「……どう……して泣くの……」

「そんなの、この身体に聞け……」

(変だな……)

 二人はじっと空を見ていた。冷たい空だった。けれど、その空に吸い込まれそうになると、涙が止まっていくのがわかる。

 めぐみが起き上がった。コンクリートの上で仰向けになっていたから、背中の痛みに少し表情を歪めた。晶はそのまま空を見ている。

「……どうして一人じゃ駄目なのかな……」

 膝を抱え込んで蹲りながらめぐみは言う。寒くなったのか、身体が震えている。十月の終わりとはいえ、屋上の風を長時間浴びていれば、震えても不思議ではなかった。コンクリートも冷たい。

「弱いから……。本当に強ければ、人は滅びてる。この自然の世界で、人は生きるために数を集めた。自分より強い動物を食らうために……。その名残かな……。つまり、生きるには一人じゃ駄目だって、潜在意識の中に残ってるんだろ……」

(……だとしたら、なんで生きようとするのかな)

 他の動物は生きるために、行動してる。しかし、晶は違った。生きているから、何をするのかを考える。

「……人は他の動物に襲われること、ないから……。守られた環境があるから、だから、生きてることの重さがわからなくなる」

「日本は特にね。……お姉ちゃんに謝らないと……」

 突然、めぐみはいうと微笑んだ。晶は不思議な感覚を感じていた。めぐみと会話をする。その内容が、答えないことでも、会話をしているときは気分は良かった。

(……みんな不安だから、意味はなくても話をするんだろうか……)

 全てに前向きで、死にたいなんて思わない人を、意図的に孤独にしてしまう。たとえば、話し掛けられても無視をする。そっけなく答える。阻害し続ける。そんな環境に追い込んだら、前向きなままでいられるだろうか。

 その答えは、やってみなければ晶にはわからない。けれど、かなりの心理的苦痛になることは確かだと感じた。

(……必要とされなくても、阻害されないだけまだいいのかな……)

「心配してくれる人がいる。それで、十分なはずなのに……」

「晶は駄目なの?」

「……死にたいとは思わない。けれど、消えたくはなる……」

 ゆっくりと晶は起き上がった。外が寒いからか、自分の心が寒いのかはわからなかった。その両方なのかもしれない。身体が冷えたので、起き上がった。

「居場所あげる。私の近く……」

「……変な奴だな……」

 めぐみは大きく頷いていた。自然に微笑んだまま……。



 シーン3 事故


 金曜日の夜に、紀子から晶に電話があった。突然の誘い……。

「晶くん、めぐみのことありがとう」

「何が?」

「くす、いいわ。それより、あした家にこない?なんか久しぶりに逢いたいし」

「……別にいいけど……」

「それなら、絶対来てね。待ってるから」

 一方的な電話だった。それでも、晶は気分は良かった。先日受けた電話の声と比べて、紀子が嬉しそうなのが伝わってきたからだった。一つ疑問なのは、なんで自分に会いたがったかである。

「……変な姉妹……」

 めぐみの家は晶の家から、近かった。歩いて十五分くらい。自転車だと五分もかからない。晶は自転車で、めぐみの家へ行った。

 父親は、晶とめぐみが小学校へ入学したその年に、交通事故で亡くなった。母親はそのショックで今も入院している。めぐみは祖母と姉妹で暮らしていた。

 玄関のドアの前で、チャイムを鳴らす晶。すぐに紀子が出てきた。めぐみとは対照的に、いつも微笑んでいる。が、今は泣いていた。

「……めぐみが……、めぐみが……」

 涙を溢れさせて、紀子は中々伝えようとしている言葉を口にできなかった。

 心臓が激しく鼓動する。良くないことを晶は考えた。めぐみに二度と逢えない気がした。恐くなって、それでもじっと紀子の言葉を待つ。不安な感情を堪えて……。

「事故に遭ったの……。晶くん迎えに行くって、家を出てすぐに車に……」

「それで……、それで!めぐみは!!」

 叫ばずにはいられなかった。失いたくなかった。身体の胸のあたりに、穴が空いてしまいそうな気分だった。

「今、おばあちゃんと総合病院に……」

 反射的に自転車に乗って、走り出していた。運ばれた病院は近くにある。晶はまっすぐそこに向かう。

(……こんなに簡単にいなくなるなよ……)

 手術室の前に、手を合わせためぐみの祖母が座っていた。連絡を受けた、学校の担任が顔を真っ青にして晶を見る。

「めぐみは?」

 女性の教師は首を横に振って、まだ何もわからないという。

 時計の音が、妙に頭の中に響いた。遅れて紀子も来たが、手術中の文字は灯されたまま、まだ消えていない。一時間が経過していた。

 誰もが沈黙していた。時々、扉が開かれて、慌ただしく、看護婦が行き来する。紀子が、その看護婦に聞こうとするのを止めたのは、晶だった。落ち着くと、酷く自分が冷静なのがわかる。

(……死んだら許さないからな……)

 そう心の中でつぶやいた瞬間、手術室の扉が開かれた。点滴をしたまま眠っているめぐみが運ばれていく。

「めぐみは、めぐみは大丈夫なんですか?!」

 出てきた医者に向かって紀子が、泣き声のまま聞いた。

「……手術は成功しました。後は、意識が戻るのを待つだけです……」

 短くいって、医者は早々に通り過ぎていく。晶は、それを気にせずにめぐみの運ばれた部屋へと歩いた。

 しかし、その日の夜は肉親さえも面会謝絶だった。事務的な口調で看護婦に説明されると、晶だけでなく、紀子や祖母も家へ返された……。

 次の日の朝から、晶は病院へ行った。面会謝絶は外され、紀子がめぐみの枕元の椅子に座っていた。

「……麻酔はもう切れているって……。でも、意識が戻らないの……」

「……」

 何も言葉が浮かんでこなかった。めぐみは、眠っているようにしか見えなかった。腕や脚の包帯が痛々しいが、表情は穏やかに見える。

「二、三日の間に目覚めないと……」

「……かわってやれればな……」

 拳を強く握り締めて、晶はつぶやいた。紀子の方が沈黙ししてしまう。ゆっくりと、紀子は立ち上がると、祖母に電話してくるといって病室をでた。

「卑怯だろ、一人だけ寝るなんて……」

 晶はそういって泣いた。どうして涙が溢れるのかはわからない。このままずっと眠り続けたら、そう思うとどうしても涙をとめられなかった。



 シーン4 幻


 図書室の窓から外を眺めていた。十一月がもう終わろうとしている。晶は、目覚めないめぐみのことを考えていた。

(……逢えないのか……)

 病院には、毎週通っている。心の無いめぐみがベッドで眠っているだけだった。日に日に痩せていくのがわかる。点滴だけでは、栄養は補えても、筋肉を維持させることはできない。

 言葉を交せなくても、めぐみを見るだけで少し気分は楽になる。もし、存在そのものが、いなくなってしまっていたら、晶は、自分がどうなっていたかわからなかった。

「生かされているから、生かしてもらっている人のために生きる……。けど、話せる相手くらいは欲しいけどな……」

 一人になって、確信する。認められなくても、めぐみという存在が、自分の居場所だったことを。たとえ、受け入れられなくても、晶がめぐみという居場所を求めていた。

「他の人じゃだめなの?」

 そう、めぐみが聞いた。いつもの、疲れたような表情で、じっと晶を見て答えるのを待っている。

「……わからない。けど、少しでも重なる何かを持ってないと……。めぐみが一番、狭くなくて、広すぎもしなかったから」

 自分を見ているめぐみに、晶は嬉しそうにそういった。めぐみはそのまま晶を擦り抜けて、窓の外を見る。

「ねぇ、いつも何を見ていたの?」

「……図書室。窓に映る図書室……そこにいるおまえの顔……」

 夕焼けが、めぐみの髪を栗色に染めた。晶は、少しずつ苦しくなっていく気がした。

「変な奴……私なんかのどこが……」

「……それは、俺のセリフ」

 めぐみに触れようとして、晶の手は何も無い空間を擦り抜けた。目の前にいたはずのめぐみの姿が消える。

(……何をしているんだ……)

 一人になるといつも見えてしまう。それが、めぐみそのものなのかは、晶にはわからない。自分が創り出した幻なのか、それともめぐみが、自分の前に本当に現れているのか……。

(俺は、そんなに弱いのか……)

 今まで、居場所として存在していた人。めぐみはもう、晶に触れてくることはない……。

 夕日がもうすぐ消えようとしていた。最近いつも、陽が沈むのをこの場所で見ている。

「……此処が俺の居場所か……」



 シーン5 自殺


 病室からの風景は、図書室の窓の外に似ていた。絵に描けば、まるで違うのに、晶には同じように映った。

「一人で話をしても、面白くない。なんで、目を開けないんだ?そんなに、眠ってる方が好きなのか?」

 自分の見る幻のめぐみと話をする方が、楽だった。答えが返ってくるから……。

 点滴が、ゆっくりと落ちているのを見る。取ってしまったら、めぐみは楽になるのかと、考えることもあった。

(心臓が動いていることが、生きているというのなら、誰にもおまえの命、奪うことできるわけない……)

 目を閉じたまま動くことのないめぐみに、晶は複雑な気分だった。

「……いつか声が聞けたらって、そう思う。だけど、ずっと生き続けて、見守っていられるほど強くない……」

 そう言って、晶はナイフを手にした。ゆっくりとそれを、自分の左手首に当てた。

(……俺が求めてたのは、おまえの肉体じゃない。器じゃない、冷めてても、笑わなくても、哀しくても、めぐみっていう心が、意識が、俺の意識に干渉している時が、その感覚が、俺の意識の求めてたものだから……)

 手首からゆっくりと赤黒い液体が溢れてくる。傷の痛みは思ったよりも感じなかった。自分の中から抜けていく何かを、不快に感じながら、まだ不思議とはっきりしている意識で晶は、眠ったままのめぐみをただ見つめた。

 色褪せた唇が、妙に痛々しく見える。

(目覚めること、できたら……ごめん)

 めぐみの眠っている布団が鮮血に染まっていく、晶は手首だけでは未遂に終わることを予測していた。水の中に入れていない傷口は、本人の意思に反して血の流れが鈍くなりはじめている。誰かに発見されれば、疑問を抱かずに助けようとする……。

 全身の力は気がつかないうちに抜けていた。思うように拳に力が入らない。それでも右手に持ったままのナイフを晶は、自分の喉元に当てた。自分の力で、喉を斬り裂く力はもう無かった。

「……恐いんだな……死ぬのは……」

 生きること。ただそれに疲れただけ。死ぬことを強く願ったわけじゃない。

 いつも消えることを望んだ。存在しているという事実を、ただ消したいだけだった。自分の中の自分。自分の知らない、他人の見ている他人の中の自分。全てが消えてしまえばそれでよかった。自分が嫌いだから……。

 しかし、今を抜け出す方法は、死ぬということしか残されていなかった。ただ、その恐怖は生きていることよりも強かった。だから、晶は自分が嫌いだった。自分の中にある生きることへの否定と、死ぬことに対しての恐怖。その矛盾が、自分自身を苦しめた。

 生きることを続ける。それをさせてくれたのは、めぐみという存在だった。晶自身が認めた、晶が求めた、存在していることを満たしてくれる唯一の居場所。

 そこにはもう、近くても見えていても踏み入れることができない……。

 無防備なまま、晶は床に倒れた。自分の意志でわざと……。その自分自身の重みで、手に持っていたナイフが首の皮膚を深々と裂いていた。先に手首を切って、全身の感覚を鈍感していなければ、激痛に耐えられなかったかもしれない。

 そして、呼吸できなくなったその瞬間。苦しいと感じたその瞬間。

 その瞬間に、朝霧晶は死んだ。



 シーン6 骨


 まだ、少し暖かい晶の骨を、紀子と、あの日、血の臭いと不安感で急に目覚めためぐみが見つめている。

 紀子の方は、ずっと泣いていたのか目が少し赤い。

 めぐみは、晶の血に染まったその現場を見て、しばらく呆然としていた。動かない晶の身体を見つめて、声も上げずに病室に看護婦が入ってくるまでずっと、微笑んだまま涙を流していた……。

 むしろ発見した看護婦の方が、精神的衝撃は大きかったのかもしれない……。めぐみより遥かに。

 焼かれて骨だけとなった晶を見ても、めぐみは表情を変えなかった。病み上がりで、無理をしているせいもあるが、めぐみの表情は、どこか疲れていて、冷たかった。

 晶の親族が、骨を骨壷のような形の木製の器に入れている。あの日から、五日経っていることもあって泣いている人は少ない。誰も予測さえしていなかった晶の死は衝撃的だった……。

 ただ、めぐみだけはじっと骨だけになった晶が、箱につめられていくのを見つめている。

(……あれは晶じゃない……。ただの骨なのに……馬鹿みたい)

 そう考えた瞬間、頬に何かが伝わっていく。意識していないはずなのに、涙腺は勝手に脆くなっていた。

(なんで、苦しいんだろ……)

 人が死ぬのは当たり前。当たり前のことが、起きただけ。自殺でも、病気でも、事故死でも、結果は同じ。その人が死んだという事実。

「わかってても、苦しくなるんだ……」

(……この感情も、教えられてきたもののはずなのに……、なんで苦しいんだろ)

「お姉ちゃん、私は大丈夫。私が死んだら、お姉ちゃんが壊れちゃうもんね……」

 突然のめぐみの言葉に、紀子は呆然として、どんどん涙が溢れていく。

 紀子は晶の死と同時に、目覚めためぐみがいつ後を追うのか恐かった。本当のところ、意識を取り戻さないままの方が、紀子は安心できたのかもしれない……。



 シーン7 めぐみ


「はぁ~」

 溜め息をつくめぐみを見て、紀子は気になるような視線をめぐみに送る。気がついたのかめぐみは、紀子の方に振り向いた。

「どうかした?」

「……結局、何も変わらないなって……。晶がいなくなった。その事実以外は、何も変わらない……。淡々とただ同じ事が繰り返されるだけ……」

「死にたいの?」

「ううん、今はわからない。全く無いっていったら嘘になるかな、そうゆうこと考える私が私だから……」

「私より早く死んだら駄目よ」

「それは嫌。お姉ちゃん長生きしそうだもの。老いる前に死にたいから、私」

 めぐみはそう答えて、蹲った。心配そうに見る姉の視線を無視して、目を閉じる……。

(晶……死んだら自由になれるの?)

 真っ暗な視界の中で、そう思う。返ってくることのない問いを何度も頭の中で繰り返した。

「めぐみ……?」

 動かなくなった妹に、紀子は本気で動揺した声で呼びかけた。全く反応が無いめぐみに、紀子は自分の鼓動が早くなるのを感じる。

「めぐみ!!」

「な、なに?」

 突然、自分の名前を至近距離で叫ばれて、驚いた表情で姉を見る。簡単に反応した妹を見て、紀子は自分が神経質になりすぎていることを、内心で笑う。

「……えっと、寝るなら部屋で……」

「ここ、私の部屋だけど?」

 完全に動揺している姉に、めぐみは冷静に答えると、すぐに蹲る。

「ありがと、でも、私は私だから。死にたくなったら、死なせてね。酷いこと言ってるかもしれない。でも、死にたいって本気で考えたことない人に、私のことわかるわけないよ?晶はね……私が生きてるときの居場所だったの……。もう、私は居場所ないから」

 まともに姉の顔を見ては言えなかった。それでもめぐみははっきりと、本心を口にする。

「……」

 どう答えていいのかはわからなかった。ただ、胸のあたりが息苦しくなって、自然とめぐみを後ろから強く抱きしめる。

(……ごめんね……お姉ちゃん……)

 姉の行為を、頭の中では理解しながら、めぐみはそれを拒絶している自分を感じていた。身体は温かくても、心にまでは伝わらない……。その自分がめぐみは嫌いだった。

(一度壊れたら、もう駄目なのかな、晶?)



 シーン8 殺人


「いいかげんにして!」

 本気で心配してくれる姉に、めぐみは怒鳴る。驚いたのは紀子だった。感情的になったことなど、今まで一度もなかった。

「どうしたの?」

 また、いってはいけないことを口にする。過剰な優しさ。それはめぐみには苦痛でしかなかった。それを紀子は気づいていない。

「もう、ほっといて!」

「そんなこと、できるわけないでしょ!」

 妹の反応に、紀子の方も感情的になった。

(心配しているのに……)

(何もわかっていないくせに)

(どうして死にたいなんて……)

(考えたことの無い人にはわからない)

(もっと前向きに)

(生きることが前向きなの?)

 重ならない心。憎しみ合っているわけではなくても、嫌っているわけでもない。それでも、心はたとえ血が繋がっていても重なることはない……。

「……殺す」

 急に微笑んで、めぐみは小さく呟いた。壊れた心。生きることを前向きだと考える、そう考える人たちから見れば、めぐみの心は壊れている。それを紀子は刺激しすぎた。

 崩れやすく、脆いから、突然暴走する。『普通の人』には理解できない、たいしたことのない状況の中で……。

「やれるなら、やってみなさいよ!」

 紀子は結局、優しい姉。でしかなかった。そう、優しいだけだった。めぐみの居場所にはなれない……。

 哀しげに微笑むめぐみの表情に、姉は気づかない。ただ、無言で頷いためぐみは自分の机から、カッターを手にすると次の瞬間、姉に向かって切り付けていた。

 反射的に腕を顔の前に上げて、避けた紀子は、腕に激痛がある事に気づく。本当に斬り裂かれている腕を見て、はじめて恐怖を感じた。それと同時に、頭に激痛が走る。

 腕の傷に気を取られた無防備な姉の頭を、カッターの刃は簡単に切り裂いていた。

 言葉にならない、声を上げてただ驚愕と恐怖に紀子は震えた。

「……酷いよ、優しい言葉で、お姉ちゃん私の全てを否定してたんだから……」

 最後にそう言って、めぐみは紀子の喉を力いっぱい切り裂いた。血まみれになりながら、涙を流して……。

 しばらく呆然と、苦しむ姉を見つめていためぐみは、姉が動かなくなってからゆっくりと立ち上がった。

 ベランダへ続く窓を開けて、空を見上げる。風が気持ち良かった。

(もっと早く死んぢゃえばよかった……)

 ベランダの柵に手をかけて下に向かって、無防備にめぐみは落下していく。

 何も考えてはいなかった。ただ、落下する感覚を不快に感じながら、いともあっさりと、めぐみは自分という感覚を感じなくなった。痛みを感じる間もなく、簡単に、めぐみはアスファルトの地面に頭をぶつけて、死んだ。



 エピローグ


「知らないうちにいつのまにか生まれていて、いつのまにか考えられるようになっているんだな」

「そして、いつのまにか目の前にある環境に順応して、生きることを意識しないで、生きている。誰でも一度は考えるのかもしれないけど、生きることに対して、死ぬ事実に対して……。その答えも人の数だけ在る」

「自分から死ぬことを考える人は、考えない人よりは圧倒的に少ないかもしれない。その中でも、実際に死ぬことを実行してしまう人は、もっと少なくなるんだろう。それでも実在はしている……」

「「死にたい……」ってそう言われたときに、人はどうするのかな。ありきたりな言葉で励ますのも、冷たくあしらうのも、優しく慰めるのも、無視ししてしまうのも。結局は、それほど大きな差はないのかもしれない。

 冗談で「死にたい」なんて口にする人はいないだろ。実行するかは別として、本気で考えていないと、口にはできない言葉」

「一度壊れてしまったら、崩壊の歯車は回り続けてしまう。誰かが歯止めにならない限り、何かが歯止めにならない限り、歯車は回り続ける……。

 自分じゃ、どうにもならないもの……。ここまで、壊れてしまうと……」

「それに歯車を止めることができる人のは、限られた人だけだから……。居場所になってくれる人……」


 END


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