三節 かさ
だんだんと暑くなってきて、学校でも冷房が点き始めたころ、僕は渥美先生の提案で放課後残って勉強をすることにした。家であまり集中できなかった僕は、学校が閉まる時間いっぱいまで勉強をしてから帰るようにしていた。
そうして次第に僕は、家のことをほとんどしなくなった。僕が帰ったときに残っているのは風呂掃除だけで、それも手早く済ませて家でも勉強をした。ご飯の用意に比べると圧倒的に拘束時間が少ないため、僕は今までより多くの時間を勉強にあてることができた。
だけど最近は、家にいても学校にいても、いろいろなことが頭を巡って集中できていなかった。
受験の不安や、これからのことを考えながらゆっくり帰っていると、ふらふらと揺れる小さな光を見つけた。
僕は思わず立ち止まって、その光を観察した。光の正体は思った通り蛍だ。
僕はその弱々しい光をぼんやりと眺めた。
「はあ、どうしよう」
僕は独り言を呟いた。
携帯電話を取り出し時間を確認すると、もう八時をまわっていた。
そして僕は、なんとなくかさに連絡を取ってみた。
「勉強の息抜きに蛍でも見にこない?」
と書いて送る。
少し待つと、連絡が帰ってきた。
僕は一人で空を見上げた。
雲の合間から、かすかに月明かりが見える。すっかり暗くなった道で立ち尽くしていると、僕に声がかかった。
「蛍、ほんとにいるんだ」
「いるって言ったんだからいるよ。かさ、勉強よかったの?」
「いやだって、誘われたし。そっちこそこんなことしてる余裕あるの?」
暗くてあまり表情はわからないけれど、その声は楽しそうだった。
「一応さっきまでは学校で勉強してたよ」
「そうなんだ」
「そうなんだよ」
それから僕たちは、線路沿いの道を歩きながら、どちらともなく近況を報告し合った。
新しいクラスや担任の先生のこと、この前の模試の結果や、勉強の進み具合など話すことはたくさんあった。
そうしていつしか話題は変わって、将来の話になった。
「まこってさあ、将来のこと考えてる?」
「決まってない。しいて言えば就職したくないくらいかな」
「それは僕も一緒だわ。やりたいことだけやって生きていけないかな」
「ほんとにね」
僕は少しだけ笑う。
「でも現実問題さ、まこが働かなかったら、まこの家まずくない?」
「そうだね。あいつも一応働いてはいるけど、僕は働かないといけないと思う」
「え、そうだったんだ。ふつうに仕事してるの?」
「そうらしいよ、よく知らないけど」
「ああ、さすが。今もまったく会話しないの?」
「うーん、たまにご飯の用意しろって言われるくらいかな。まあでもそれは僕が忘れてるときだけだし。最近は僕帰り遅いから風呂掃除くらいしかやってないけど」
「僕は兄弟いないから何とも言えないけどさ、まこみたいなの聞いたことないわ」
かさは笑いながら言う。
「興味ないしね。ほんとにどうでもいいし」
「……そっか、まあべつに悪いとは言わないけど」
かさは話題を変えた。
「まこって結婚願望とかあるの?」
「どうかな、わかんない」
「じゃあさ、どんな人となら結婚したいって思う?」
「うーん……僕の基準満たす人たぶんいないよ」
「なに? そんな厳しいの?」
かさはまたも楽しそうな声になる。
僕の基準は、おそらく人として尊敬できるかどうかだと思う。子どもを一人の人間として扱うことができたり、やさしさを持っていたりが、それに当たるように思う。
だが、これはやさしい人がいいという、ありきたりな言葉で表されることのようにも思えた。
そして僕は、思い浮かんだことをかさに伝えた。
「あー」
かさは少しの間声を出し続けた。そして声が途切れると、若干驚いたふうに話し始めた。
「え、それだったら、いるんじゃない?」
「そうかな」
「うん、わりといると思うよ」
そうだろうか。
「でもあれだよ。子どもにやさしいとかって、甘やかすって意味じゃないからね」
「いやそれはわかってる。というかほんとにそれだけなの?」
「えーっと、あとは常識があるとか? うーん、でもやっぱり根幹はそれだけかも」
「へー、意外。じゃあ子どもは欲しいってこと?」
「いやそういうわけじゃないよ、もし結婚するんだったらって話ね。だって子どもってさ、自分の意志で生まれるわけじゃないじゃん。勝手に生んでおいて生きることを強要するのって、なんか僕はおかしい気がするんだよね」
「まあそうなのかな」
「結局子どもなんて親の勝手な都合で生まれるんだから、子どもの一生を背負う覚悟がないとだめだと僕は思う。そんなこともできないくせに、子どもを生むのはなあって。
だから子どもが全く不自由することのないだけの金があって、子どもの自由意思で生死も含めて何でも選ばせてあげられるなら、生んでもいいかなあ」
「何かこの前それと似たようなこと言ってる人テレビにいたわ」
「そうなんだ」
「うん、あまり賛同されてなかったけどね」
「……そうなんだ」
誰が言ったのかは知らないけれど、僕にはその人が正しいことを言っているように思えた。
「じゃあかさはどうなの? 子どもとか欲しいの?」
「いや……僕はどうだろ。なんかまこの話聞いてたら、僕の家系に生まれる子って不幸になる気しかしなくなってきた」
かさはまた笑った。本当は、あまり笑い事ではないけれど、かさが笑っていたから、僕も少しだけ笑っておいた。
「そんなの僕だってそうじゃん」
そして僕たちは、笑いたくもないことで笑い合った。乾いた感情を共有して、僕は少し話の角度を変えた。
「あと僕は幸せにしてあげられる自信がないかも。なんだかんだこれが一番大きいかな」
「あーそれはね。でもみんなそんなものじゃないの?」
「そうかもしれないけれど、でも何も考えずに生まされた子どもとか、それこそぜったい不幸になると思う」
「まあねえ……でも、そういうの抜きにしても、やっぱり僕らは結婚とか向いてない気がするわ」
「それはわかるけどさ」
「まあ仕方ないと思うけどね」
過度な関わりを避ける生き方をしているのは、かさも同じだ。僕たちは、お互いに根幹には触れない。だからこそこの関係は、楽なのだろう。
「この前の倖成くんのとき言ってたけどさ、かさは彼女欲しいの?」
「どうだろ。あこがれてただけで、実際欲しいかって言われるとわかんないな」
僕も、誰かと付き合いたいと思ったことはない。
今も昔もそれは変わらない。
昔いた、僕が唯一仲のよかった女の子も、べつに好きなわけではなかったと思う。
「そろそろ帰ろうか。急に呼び出してこんな時間まで悪いね」
「そんなのいまさらでしょ」
かさは少し頭を下げて表情を隠した。声色からしておそらく笑っている。
「そうだった」
僕も笑いながら答えた。
「いい息抜きになったよ、じゃあまた」
「うん、また」
久しぶりにかさと二人でゆっくり話せた。やはり僕たちは、昔も今も変わらず、似た者同士なのだと改めて思った。
かさと話してからしばらくは、勉強に集中することができた。
だけど、ふとかさと話したことを思い出してからは、勉強以外のことを考えている時間がさらに増えた。
そうして他のことを考えているといつしか手が止まり、ぼんやりと問題集を眺めるだけの日々が続いた。
そんな毎日の中で僕が考えることは、だんだんと固定されていった。
僕が考えるのは、いつも昔のことだった。
――――登場人物――――
玉木悠太 僕
中学時代はバレーボール部。
父親と兄との三人暮らし。
永野司 かさ
小学校からの付き合い。
僕をまこと呼ぶ。
京都に住むために勉強をしているらしい。
人との接し方が似ている。
僕にとっては貴重な、家のことを話せる関係。
前川倖成 倖成くん
中学時代は、僕と同じくバレーボール部。
二年間クラスも同じでよく話をした。
僕をまこと呼ぶ。
高校でもバレーボール部に入った。
今井俊 今井くん
僕と似た空気を感じる。
親戚の家で暮らしており、少しだけ僕と境遇が似ている。
曜子という人ともめたらしい。
一年生の文化祭のときに、曜子という人ともめた話を聞いた。
それからは、距離が開いてしまった。
小林正樹 小林くん
昔やっていたゲームの話をした。気が合わないわけではない。
勉強に打ち込んでおり、部活もしている。
高校一年生のときは室長もしていた。
修学旅行のときから、僕をたまちゃんと呼ぶようになった。
田原友貴 友貴
中学は同じだが、話したのは高校受験の日が初めて。
部活をやっている。坊主頭。
修学旅行のとき、急に僕のことをたまちゃんと呼んできた。
森島さん
今井君のことを教えてくれた人。
冷静な人のようだが、意図はよくわからない。
曜子という人の友人。
伊藤恵 伊藤さん
吹奏楽部。フルートが上手らしい。
わかりやすい感情表現をする。
気さくな人でクラスの中心的存在。
随分と、僕を気遣ってくれていた。
僕の字を褒めてくれた。
何事も一生懸命に取り組むことができる。
江口先生
高校一年生のときの担任。担当科目は国語。
役者めいた話し方をする人。
表面を繕って核を守る振舞いが、僕に少し似ている。
中川先生
高校二年生のときの担任。担当科目は国語。
やさしい笑顔が特徴。
いろいろと見抜かれている気がする。
あのやさしい笑顔は、葛藤の末に得たもののように見える。
人にやさしくあれる強さをもっている。
渥美先生
高校三年生のときの担任。担当科目は数学。
弱さを隠さない人。
だからこそ、信用できる。




