二節 政経
先生に対して感じたことは周りの人も同じだったようで、渥美先生はすぐに打ち解けていた。
何かと締まりのない人だが、その隠さない弱さこそがすぐに打ち解ける要因でもあるのだと思った。
僕たち三年のこの時期に余裕はなく、周りの人もみんな勉強に専念していた。
そんな僕たちの数少ない息抜きが、政経の授業だった。
政経の授業形態は教科書の範囲が終わり次第、先生が考えてきた議題を数人で班になって話し合い、翌週その結果をみんなの前で議論するというものだった。
はじめは猫が好きか、犬が好きかなどというひどく子どもじみた議題だったが、回を重ねるごとに政治経済の授業らしく頭を使う議題になっていった。
この話し合いをするという授業形態が、一人で取り組む受験勉強の程よい息抜きになるため、政経の授業を楽しみにしている人は僕も含めかなり多かった。
いつも通り教科書の範囲が終わると、今日は先生の都合で自習の時間になった。前の方に座っていた何人かは、前回の議論前に先生に提出した下書きの返却を任せられていた。
しかしその紙には名前欄がなかったため、誰が書いたものか分からず、何人かで協力して聞いて回りながら配っていた。
「これ、玉木くんだよね?」
ふとかかったその声の主は、伊藤さんだった。僕は軽く目を通して自分のものであることを確認した。
「うん、ありがとう」
人の字を判断するのはどのようにするのだろうか。おそらくなんとなくの印象だと思うが、もしかしたら僕の字はわかりやすいのだろうか。
そんなことを考えながら、僕は下書き用紙をしまい問題集を開いた。
しかしどうしても残るものがあったらしく、違う人が僕のところに持ってきた。
「これたまちゃんのかな?」
「いや、違うよ」
「そっか、えーこれだれだろう」
そうして戻された数部に何人かが集まり、議論でもするかのようにいろいろ意見を言い合っていた。
「たまちゃんっぽくない?」
「言われてみれば玉木くんっぽいかも」
「でも違うって言ってたよ」
「勘違いかもしれないじゃん」
そんなやり取りの後、残ったものはまた僕のところに持ってこられた。
「これ違う?」
「違うよ。僕のもう帰ってきてるから」
そう言って一度しまった用紙を取り出そうとすると、横辺りから伊藤さんが口を出した。
「玉木くんの字はもっとしっかりしてるよ。こんなんじゃないって」
「え……? ああ、そうなの。じゃあ違うか」
どこからか、僕のだったらどうするんだという声が聞こえた。
聞きに来た人は気まずそうにしながら戻っていった。
事実それは僕のものではないのだが、ここまで素直に言われると少し恥ずかしかった。
字をほめられること自体は、小さいころはけっこうあった。だけど、高校三年生にもなるとそんな機会はなかなかなくて、どこか懐かしい感じもして、端的に言えばうれしかった。
「ありがとう」
まだ近くにいた伊藤さんに、僕は小さく言った。
「ん、何が?」
伊藤さんは何でもないように言った。その表情は、本当に何とも思っていないようだった。
伊藤さんの感情表現がわかりやすいことを知っている僕は、さっきよりも少しだけうれしさが増した。
――――登場人物――――
玉木悠太 僕
中学時代はバレーボール部。
父親と兄との三人暮らし。
永野司 かさ
小学校からの付き合い。
僕をまこと呼ぶ。
京都に住むために勉強をしているらしい。
前川倖成 倖成くん
中学時代は、僕と同じくバレーボール部。
二年間クラスも同じでよく話をした。
僕をまこと呼ぶ。
高校でもバレーボール部に入った。
今井俊 今井くん
僕と似た空気を感じる。
親戚の家で暮らしており、少しだけ僕と境遇が似ている。
曜子という人ともめたらしい。
一年生の文化祭のときに、曜子という人ともめた話を聞いた。
それからは、距離が開いてしまった。
小林正樹 小林くん
昔やっていたゲームの話をした。気が合わないわけではない。
勉強に打ち込んでおり、部活もしている。
高校一年生のときは室長もしていた。
修学旅行のときから、僕をたまちゃんと呼ぶようになった。
田原友貴 友貴
中学は同じだが、話したのは高校受験の日が初めて。
部活をやっている。坊主頭。
修学旅行のとき、急に僕のことをたまちゃんと呼んできた。
森島さん
今井君のことを教えてくれた人。
冷静な人のようだが、意図はよくわからない。
曜子という人の友人。
伊藤恵 伊藤さん
吹奏楽部。フルートが上手らしい。
わかりやすい感情表現をする。
気さくな人でクラスの中心的存在。
随分と、僕を気遣ってくれていた。
僕の字を褒めてくれた。
何事も一生懸命に取り組むことができる。
江口先生
高校一年生のときの担任。担当科目は国語。
役者めいた話し方をする人。
表面を繕って核を守る振舞いが、僕に少し似ている。
中川先生
高校二年生のときの担任。担当科目は国語。
やさしい笑顔が特徴。
いろいろと見抜かれている気がする。
あのやさしい笑顔は、葛藤の末に得たもののように見える。
人にやさしくあれる強さをもっている。
渥美先生
高校三年生のときの担任。担当科目は数学。
弱さを隠さない人。
だからこそ、信用できる。




