九節 修学旅行 後編
そして迎えた二日目。
今日はこの修学旅行で一番のイベント、ダイビングの日だ。
簡単な講習を行い、僕たちは順番を待っていた。
はじめはプールの中で泳いでいたが、次第にそれにも飽きてきたため、僕は砂浜のほうにいった。
普段の生活では見ることのない澄んだ海を眺めながら、僕は砂浜に座り込んだ。
こんなに楽しい生活も、今日と明日で終わりだ。戻ったら、また勉強をしなければいけない。
模試の成績も全然上がらないし、もっと根詰めてやらなければ。
僕はなんとなくため息をついた。
「玉木くん、どうしたの?」
ちょうどこっちに歩いて来ていた小林君が話しかけてきた。
「ああ、なんか。勉強やだなあと思って」
「え、こんなときくらいそんなこと考えなくてよくない?」
「まあ、そうだよね。ちょっと退屈だったから思い出しちゃった」
「僕ら最後だもんね。さっき一組帰ってきてたから、もうちょっとかな」
小林君は、にこやかな表情をしながら話した。
「そういえば玉木くんさ、最近みんなからたまちゃんって呼ばれてるよね。それはまだわかるんだけど、まこって呼ばれてるのはあれどういうことなの?」
「まこは小学校のときについたあだ名だよ。正確にはもともと『たまこ』だったんだ。当時なぜか名字とか名前に『こ』をつけるのが流行った時期があって、それが定着したんだよね。それでいつの間にか短くされて『まこ』になったんだよ」
「そうだったんだ」
小林君は疑問が解消されて、少し表情が緩くなった。
「はじめて聞くと『こ』はどっからきたんだろうって思うよね」
「うん、じゃあたまちゃんは新しいあだ名なの?」
「実はそれも小学校のときに呼ばれてた。だいたい男子からは『まこ』呼びで、女子からは『たまちゃん』って呼ばれてたかな」
「バリエーション豊かだね」
「ほんとにね。中学で知り合った人も、最初は名字とか名前で呼ぶんだけど、僕を知っている人はそういう呼び方しかしないから、だいたい『まこ』と『たまちゃん』のどっちかになっちゃうんだよね。まあ中学からは玉木くん呼びの人もちらほらいたけど」
僕は中学の頃を懐かしみながら言った。倖成君からも、一番最初は玉木くんと呼ばれていた。
「玉木くんはどの呼ばれ方が好きなの?」
「正直どれでもいいかな。あだ名はみんなが僕につけてくれたやつだから、ぜんぶ気に入ってはいるけど、べつに玉木くんって呼び方も嫌なわけじゃないからね。僕ってことがわかる呼び方だったら、何でもいいかなと思ってる」
「じゃあ僕もたまちゃんにしようかな。いまさらな感じはするけれど」
「いいよ。大歓迎」
「じゃあ、これからは僕も、たまちゃんで」
小林君は少し照れくさそうに言った。
そうしていると、僕たちの番がやってきた。
「あ、戻ってきた。行こうか。えーっと、たまちゃん」
「うん」
小林君はやはり照れくさそうに言った。
その後僕たちは予定通り船で海に出た。
「じゃあ、手前にいる人から行こうか」
補助をしてくれる人が僕たちに向かって言った。
一番手前にいるのは僕だ。
「はい、お願いします」
改めて軽く説明を受け、僕はついに海の中に入った。
そこには、僕の知らない世界が広がっていた。
どこまでも続く水に、無尽に動き回る魚。これは、水の中の世界。
僕の生活している地上とは何もかもが違う。
自分の知る世界からは隔絶された水の中で、僕は圧倒されてしまっていた。
何もしないままあたりを眺めていると、僕のそばに補助の人たちがきて、何かを千切ってそのまま手から離した。
すると魚たちが寄ってきて、勢いよく食らいついた。
そしてその何かは、僕に手渡される。
そのまま見ているだけでも十分過ぎるくらいの感動が、自分の介入によってちょっとした娯楽に変わった。
波打つように動く魚の群れが、僕の手放した何かに左右される。
僕は楽しくなってしきりに千切った。渡されたときはかなりの大きさだったのに、すぐになくなってしまった。
そしてまた、雄大な水の世界を堪能した。
本や映像で、海の中を見る機会は何度もあった。
だけど、今僕の目に映っている世界は、記憶の中にあるその光景とはまったく違った。
僕の知らなかった世界が、これほどに美しいのだということを知った。僕が今まで見ていた世界は、とても狭かったのだということがわかった。
ダイビングの時間はあっという間に終わってしまい、名残惜しくも僕は船の上に戻った。僕に続いて続々と上がってきたみんなの顔は、活力に満ち溢れて見えた。
僕たちは「すごかった」などと月並みなことを恥ずかしげもなく言い合いながら、砂浜まで戻った。
ダイビングが終わって、午後からはタクシーに乗って水族館に行った。途中、運転手の人がすすめてくれたお店で昼食をとった。
だが、食事が終わっても興奮冷めやらぬ僕たちは、はしゃぎながら館内を巡った。
小さい生き物、
大きい生き物、
変わった生き物、
ダイビングのときに見た生き物、
初めてじっくり見る生き物、
僕たちはいちいち立ち止まって、
たくさんの言葉を交わしながら、
たくさんの生き物たちを見た。
やけに静かなタクシーで、僕は後ろの席を振り返った。みんなは疲れて寝てしまっている。
「楽しかったですか?」
運転手の人はやさしく笑いながら僕に話しかけてきた。
「はい、とても。でも楽しすぎてあっという間でした」
「そうですか。それはよかった」
運転手の人はうれしそうに笑う。僕もそれにつられて笑った。
「もし疲れていらしたら、寝ちゃっても大丈夫ですよ。ホテルまではちゃんと送り届けますので」
「いえ、僕はまだぜんぜん大丈夫です」
楽しい時間の余韻を終わらせたくなかった僕は、迫る眠気を感じながらも意識にふたをすることを我慢した。
「そうですか。じゃあもう少しだけお話に付き合ってもらってもいいですか?」
「はい、お願いします」
僕は、今日限りの付き合いである運転手の人と、短いたくさんの思い出を共有した。
三日目の散策は、クラスも班のくくりもなく完全に自由だった。
僕は倖成君と一緒に回った。知り合いとすれ違うたびに話をして、少し一緒に移動したり、また別になったりと気ままに楽しく過ごした。
道の向かい側で、今井君の姿を見つけた。
久しぶりに見かけた今井君は、女の子と一緒に楽しそうに歩いていた。邪魔してはいけないと思い、話しかけることはしなかったが、今井君も今井君で修学旅行を楽しめていたようだ。
そして、楽しい時間はあっという間に過ぎ、修学旅行は終わった。
ほんとうにあっという間だったけれど、ほんとうに、楽しかった。
――――登場人物――――
玉木悠太 僕
中学時代はバレーボール部。
父親と兄との三人暮らし。
永野司 かさ
小学校からの付き合い。
僕をまこと呼ぶ。
京都に住むために勉強をしているらしい。
前川倖成 倖成くん
中学時代は、僕と同じくバレーボール部。
二年間クラスも同じでよく話をした。
僕をまこと呼ぶ。
高校でもバレーボール部に入った。
今井俊 今井くん
僕と似た空気を感じる。
親戚の家で暮らしており、少しだけ僕と境遇が似ている。
曜子という人ともめたらしい。
一年生の文化祭のときに、曜子という人ともめた話を聞いた。
それからは、距離が開いてしまった。
小林正樹 小林くん
昔やっていたゲームの話をした。気が合わないわけではない。
勉強に打ち込んでおり、部活もしている。
高校一年生のときは室長もしていた。
修学旅行のときから、僕をたまちゃんと呼ぶようになった。
田原友貴 友貴
中学は同じだが、話したのは高校受験の日が初めて。
部活をやっている。坊主頭。
修学旅行のとき、急に僕のことをたまちゃんと呼んできた。
森島さん
今井君のことを教えてくれた人。
冷静な人のようだが、意図はよくわからない。
曜子という人の友人。
伊藤恵 伊藤さん
吹奏楽部。フルートが上手らしい。
わかりやすい感情表現をする。
気さくな人でクラスの中心的存在。
随分と、僕を気遣ってくれていた。
江口先生
高校一年生のときの担任。担当科目は国語。
役者めいた話し方をする人。
表面を繕って核を守る振舞いが、僕に少し似ている。
中川先生
高校二年生のときの担任。担当科目は国語。
やさしい笑顔が特徴。
いろいろと見抜かれている気がする。




