傷跡
相応の覚悟と決意を持って、俺は上げていた足を下ろす。すると周囲の景色が一変し、天まで伸びる歯車の書架の代わりに、かび臭い石壁の通路が出現した。
それは懐かしい<底なし穴>の空気。ただし左右に伸びる壁には所々大きなひび割れが入っており、その隙間からは赤く錆びた歯車が見える。俺がそれに手を伸ばすと、ザリッとした手触りと共に赤錆びが落ち、代わりにその部分にゴレミの記憶が映し出される。
『でっかい魚の口みたいデス!』
「あー、こりゃ初めて転移門を見た時のやつか? はは、何か新鮮だな」
「過去なのに新鮮デス?」
「いいだろ? 言葉の綾ってやつさ」
当たり前だが、ゴレミと軽口を交わす俺の心に変化はない。なのでそのまま歩いて進み、次の大きな亀裂から覗く歯車の錆を落とす。すると次に現れたのは、俺達が復讐に行った時のジャッカルだ。
『久しぶり? 誰だテメェ』
「おおー、まだイキッてた頃のジャッカルなのデス!」
「そう、だな……こいつ今頃何してんだろうな?」
ゴレミを壊し、俺をボッコボコにしたジャッカルの顔を見てもなお、俺の心は揺らがない。そりゃそうだ、だってこいつには、エーレンティアを出る前にしっかり復讐を果たしているのだ。既に自力でけりをつけた相手なのだから、今更ビビる要素なんてない。
「今頃? 普通に探索者をやってるんじゃないデス? あ、でも、敏感過ぎてプルプル震えるから、肩書きが『草原のチワワ』とかになってる可能性はあると思うデス」
「ぶはっ!? おま、やめろよ! それは卑怯だろ! ちわ、チワワって……大体俺の付与した感度増加は、せいぜい保って二ヶ月だぜ? もうとっくに効果なんて切れてんだろ」
「それはそうデスけど、一回定着したイメージというのはなかなか消えないのデス。一度そう呼ばれ始めたら、多分ずーっと引っ張られると思うデス」
「あー、まあそれはあるかもな」
あえてそんな馬鹿話をしながら、俺は更に進んでいく。前にゴレミの内側に入った時のシーン……ゴレミ視点だと動かない俺が腹に手を当ててるだけだから、これも特に思うところはない。ただ……
「……この特訓の時は、俺ちゃんと自分の力を引き出せてたよな? なのに何で今は無理なんだ?」
「これはあくまで推測デスけど、当時のマスターはまだまだスキルが育ってなくて、影響が出るほど深いところまでは潜れなかったんじゃないデス?
それとも当時のマスターは、ちゃんと自分の世界に入り込めてたデスか?」
「いや、こんな風に入ったりはできてなかったな」
「それに、当時のゴレミも言ったデスけど、マスターが無意識に制限をかけていたというのもあると思うデス。あの時は体に掛かる負荷を制限してるんだと思ったデスけど、こうなると心の方でブレーキを踏んでいたという可能性の方が高いと思うデス」
「なるほど、そういう……ま、昔できたことができなくなったってわけじゃねーから、気にしても仕方ねーのか?」
「だと思うデス」
「なら次いくか」
再び歩いて、次の亀裂へ。細く長い縦の亀裂は手が差し込めるギリギリくらいで、覗き込むようにした先に映し出されるのはゴレミとの感動の再会シーン……恥ずかしいというか照れくさいというか、別の意味で心が動かされはしたが、それは今回の旅の目的とは全く関係ない。
『帰りましょう、ワタシ達の日常に』
『……ああ、そうだな』
「ほら、いつまで見てんだよ! 次いくぞ次!」
「もうデス? もっとゆっくり見たいデス! 何ならここに住んで、日に五〇回くらい再生したいデス!」
「見過ぎだろ! ほら次だ次!」
名残惜しそうなゴレミを強引に引っ張り、俺は奥へと進む。するとそこにあったのは、これまでとは比較にならないほど大きな亀裂。
いや、もはやこれは壁に入った亀裂というか、壁の残骸だ。大穴の向こうには血のように赤く錆び果てた巨大な歯車が存在し、その奥には無限の闇が広がっている。
「はーっ…………よし、いくぞ!」
この流れなら、次はゴレミを失った俺がしょぼくれているシーンのはず。そんな格好悪い自分を改めて見せられるのはばつが悪いなんてもんじゃないが、それでも俺は覚悟を決めて歯車に触れ……その瞬間、俺は大きな勘違いに気づいた。
『うわーっ!? ゴレミの肩が粉砕、玉砕、大喝采デスーっ!?』
錆は、ぬるりと血のような感触がした。生理的な嫌悪感が背筋を駆け上がり、だが動かしてしまった手は止まらない。そうして錆の下に見えたのは、ザリザリと荒い世界とボロボロになった俺、そしてニヤけるジャッカルの顔。
そうだ、これはゴレミの心なんだから、ゴレミがいなかった間のことが記録されてるはずがない。なら再会の前のシーンはこれに決まってる。
「マスター?」
「っ!? あ、ああ。平気だ」
そっとゴレミに手を握られ、俺は何とか言葉を返す。だが俺の胸はドクンドクンと嫌な感じに高鳴り、緊張が体を締め付けていく。
『ダ、イ、ジョーブ……デス、よ。マス、ター……ゴレ、ミはゴーレ、ム、デスから……』
「これはあくまで過去なのデス。この後ゴレミは助かって、ちゃんと今マスターの隣にいるのデス。だから大丈夫、大丈夫デス」
「……………………」
ザリザリと乱れる景色のなか、俺は必死に手を伸ばしている。だがそれがゴレミに届くことはなく、強い衝撃と共に視界が閉ざされ、過去の記憶が途切れる。
だが、俺の意識は途切れない。俺はこの続きを知っている。ゴレミの魔導核を目の前で砕かれ、ブチ切れた俺は――――
ブツンッ
「うっ!? あっ!? ゲェェ!」
ぐちゃぐちゃにかき乱された心はあっという間に集中を失い、現実に戻った俺はその場で胃の中身をぶちまける。白い雪原を汚すそれは、俺の不甲斐なさそのものだ。
「……っ! マスター!?」
「げぇ、ぐぇぇ…………げほっ、げほっ……」
「マスター! 大丈夫デス!?」
「うっ……ぐふっ…………ふぅぅぅぅ…………」
ゴレミに背中をさすられて、吐き気が治まっていく。そうして体調はすぐに戻ったが、気分の方は最悪だ。
「は、ははは…………なるほど、そういうことか……………………」
最悪だが、わかった。ああ、そうか。それが原因だったのか。わかっちまえば実に簡単で……あまりにも薄っぺらい内容だ。
「マスター? 何かわかったデス?」
「ああ、わかった。何もかもわかっちまったよ……」
左腕で目を覆い隠し、俺はそのまま背後に向かって倒れ込む。舞い上がる雪は情けない俺の体を覆い隠し、目からは涙が溢れ出る。
「情けねぇ……何て情けねぇんだ…………」
「マスター……ゴレミがやられちゃったのは、マスターのせいじゃないのデス。だから……」
泣きそうな声で言うゴレミに、しかし俺は首を横に振る。そんな立派な理由なら、どれだけマシだったことか。
「違うんだ。違うんだよゴレミ。俺が自分の内側に入れなかったのに、お前は何の関係もなかったんだ。もっとずっとくだらなくて、どうしようもない理由だったんだよ」
「…………なら、どんな理由だったデス?」
迷うように躊躇うように、ゴレミがそう問うてくる。だから俺はギュッと腕を押しつけて、強く強く視界を塞ぐ。
ああ、何も見たくない。誰にも見られたくない。俺は見ないから、どうか俺を見ないでくれ。心でそう叫びながら、思いの丈を口からこぼす。
「俺は……怖かったんだ。お前を失うことよりも…………自分の命に触れて、自分が死んじまうことが、怖くて怖くてたまらなかったんだよ…………」





