何もない恐怖
この<永久の雪原>には「空白地帯」と呼ばれる場所がある。篝火同士の直線移動に含まれない地域……他のダンジョンで言えば「壁」にあたる場所だ。
だが壁と違い、雪原は人が踏み込むことができる。篝火を無視して……あるいは視認はできなくても、地図上ではその先にあるはずの篝火を目指して、何もない雪原に足を踏み入れることは可能だ。
そしてそんな場所だからこそ「何か」……具体的には未発見のお宝とか……があると期待して、空白地帯の探索に乗り出した探索者パーティは、歴史上何組もいたらしい。
だが、成果を上げたパーティは一つもない。ある者達は途中で引き返し、またある者達は目指していたのとは全く違う篝火に辿り着き、しかしその道中で何かを見つけることはなかった。
もっとも、そんな彼らすら望外の幸運に愛された者達だろう。何故なら空白地帯に挑んだパーティの半分以上は、そのまま帰ってこなかったのだから。
白と黒に分断された何もない世界に、彼らは一体何を思いながら歩を進めたのだろうか? 辿り着けた者も辿り着けなかった者も、その道中ではきっと同じ事を考えていたに違いない。何故なら俺も、今それを強く考えているからだ。
即ち――
「……こんなところに来るんじゃなかった」
「何? 何か言った?」
「いや、何でもない」
俺の漏らした呟きにフレデリカが反応したが、俺はそれを苦笑と共に誤魔化す。そうして歩みを止めぬまま、俺は改めて周囲を見回した。
振り返っても、もうとっくに篝火の光は見えない。見果てぬ闇に向こう側などなく、広がる雪原は地平の果てまで続いている。
見上げた空に浮かぶのは、天頂に輝く巨大な月。外と違ってそれが動くことは永遠になく、ただジッと俺達を照らし続けている。
「…………怖いのじゃ」
俺が感じていたことを、ローズが代わりにぼそっと呟く。
「妾達は今どこにいて、どの方向にどれだけの時間進んでおるのじゃ? 妾はきちんと前に進んでおるのじゃ? それとも実は横にずれておったり、あるいは足を動かしているだけで進んではおらぬのじゃ?
わからぬのじゃ。何もかもわからぬのじゃ。妾は今……ちゃんと生きておるのじゃ?」
目印は何もない。進んでも止まっても戻っても、周囲の景色は変わらない。魔物が襲ってくることもないため、時の流れすら感じられない。
全てが凍り付いた白黒の狭間。ここにいるのが俺だけだったなら、正気を保てず泣き叫び、走り回っていたかも知れない。たとえ出会ったのが自分の命を奪う魔物であろうとも、心の底から喜んで笑顔で死を……変化を歓迎したのではないかと思う。
だが幸いにして、ここにいるのは「俺達」だけではない。
「何よアンタ、エルフのくせにそんなこともわかんないの? それとももう疲れちゃった? まだ二〇分くらいしか歩いてないわよ?」
俺のコートから顔を出すお客様が、呆れたような声で言う。その顔には迷った様子は一切なく、時々俺達の進路のズレを修正するべく声をあげるのだ。
「あ、ほら、ちょっとずれてきちゃったから、もうちょっと左に向かって!」
「おう、左だな。わかった」
その標があればこそ、俺達は進むことができる。この方向でいいのだと、目標に近づいているのだと信じることができるのだ。
「ここはゴレミでも現在位置がわからないデス。フレデリカはよくわかるデスね?」
「当たり前でしょ! アタシ雪の妖精よ? 雪のあるところで迷うわけないじゃない!」
「そういうもんなのか?」
「しかしそれじゃと、雪のないところでは迷うのではないのじゃ?」
「え? どうだろ? ものすごーく深くてクネクネした洞窟とかなら迷うのかも知れないけど、そんなところ行ったことないからわかんないわ」
「ま、普通に暮らしてりゃそうだよな」
空を飛べる者が、地上で迷うことなどあり得ない。何故なら目的地に向かってまっすぐ飛べばいいだけだからだ。建物の内部とか洞窟とか、そういう飛べない場所であればまた違うんだろうが、妖精であるフレデリカがそういうところに縁があったのかと言われれば、この様子だとないんだろうしな。
しかし……ふむ?
「……なあフレデリカ。オヤカタのところに連れていくのって、俺達が初めてなんだよな?」
「何、突然? そうだけど?」
「そう、か……いや、じゃあオヤカタってのが水とか食料をどうしてるのかと思ってな」
この雪原を、フレデリカの案内なしで進める人間がいるとは思えない。だが誰も案内したことがないというのなら、それはつまり外から物資を調達していないということだ。
ならオヤカタとやらは生きるために必要はものを、果たしてどうやって手に入れているのだろうか?
「俺が知らねーだけで、ひょっとしてダンジョン内で水とか食料を調達する方法ってあるのか?」
「ふーむ、どうじゃろうな。あるかも知れぬが、その情報が一切出回らぬというのであれば、よほど幸運に恵まれた者だけがそこに辿り着ける、とかじゃろうか?」
「むぅ」
大ダンジョンこそ七つだが、小ダンジョンなら世界中に山程ある。そこに何百年もの時間をかけて数え切れない程の探索者が入っているのだから、それで情報が出回らないとなれば、その恩恵にあずかれるのは極めて一部の者のみってことだろう。
それなら情報が出回らないのも理解できるが、ダンジョンで生活できる根拠としては些か以上に弱すぎる。
「あるいは宝箱に入ってるのかも知れないデス。食料しか出ない宝箱なら、再設置の期間も短そうなのデス」
「……おお! そりゃ確かに!」
対して斬新なゴレミの視点に、俺は目から鱗が落ちる思いで感心の声をあげた。確かにダンジョンの宝箱の再設置の期間は、おおよそ中身の価値に比例する。その辺で手に入る肉だの野菜だのしか出ないなら短期間に再設置されてもおかしくねーし、そういうものがいくつかあれば、ダンジョンで生活することも可能な気がしなくもない。
「その発想はなかったのじゃ! ゴレミは凄いことを思いつくのじゃ」
「フフフ、ゴレミの灰色の脳細胞は、いつだって冴え渡っているのデス!」
「いや、お前の頭に詰まってるのは石だけだろ……」
生ものが詰まっていたらその方が怖いし、あと何か腐って臭くなりそうで嫌だ。いやでも、ひょっとしたら石以外にも歯車くらいは詰まっている可能性が……?
「ちょっと、何騒いでるのよ! また方向がずれてるわよ!」
「おっと、悪い悪い」
胸元から叫ぶフレデリカに軽く謝罪しつつ、俺は方向を修正する。にしても……
「……まっすぐ歩くって、難しいんだな」
ここはダンジョンの中。軽い雑談に興じてはいても、決して油断しているわけじゃない。周囲の警戒はしているし、決して適当に歩いているわけじゃないのだが、それでもこうしてそこそこの頻度で「ずれている」と言われてしまうのだから、その難易度は相当なものだろう。
「ふむ? こうして見る限りでは、特に曲がっているようには見えぬのじゃが……足跡もまっすぐじゃしな」
「人間の足は左右でちょっとだけ長さとか大きさが違うせいで、まっすぐ歩いてるつもりでもちょっとずつ曲がっていくようになっているのデス。足跡が見える程度の距離なら誤差の範囲デスけど、長距離となると完全な直線移動はほぼ不可能なのデス」
「そんなもんなのか……人間はってことなら、ゴレミだけならまっすぐ歩けるのか?」
「人間よりはいけると思うデスけど、地面の起伏とかでも歪みやズレが生じるデスから、やっぱり限界はあるデス」
「アンタ達って不便なのね。ちなみにアタシならまっすぐ飛べるわよ!」
そんな俺達の会話に、フレデリカが加わってくる。空は空で風が吹いたらずれそうな気がするんだが、本人ができるって言うのならできるんだろう。
「おお、大したもんだ。ならこの調子で案内頼むぜ?」
「ふっふーん! 任せときなさい!」
「ウギャー!? それはゴレミの、ゴレミの台詞なのデス! マスターの懐のみならずゴレミの座まで狙うなんて、このゴレミ容赦せん! なのデス!」
「何を容赦しねーんだよ……」
「さあ、あっちよ! ちゃんと連れていくから、キリキリ歩きなさい!」
無駄にいきり立つゴレミと、そんなゴレミを気にせず指示を出してくるフレデリカ。そんな二人に俺とローズは顔を見合わせ笑いつつ、雪原を歩いていく。
狂気の月に照らされる、静寂と孤独の雪原。だがそれを恐れるには、俺達は少々賑やかすぎるようだ。





