親友に契約結婚はやめたほうが良いと助言したい
親友のチャーリーが、突然親の爵位を継いだ。白銀の波濤が洗う断崖の領地、ヴァイツェン伯爵領をである。チャーリーは、輝く銀の髪をきっちりと撫で付け、鋭い鼻と薄い唇が作る厳格な顔立ちを際立たせていた。男らしい眉の下には、深い眼窩の底に鋭く光る紫水晶の瞳があった。
盛大な継承式と祝賀会が済んで、客は皆帰った。祝いが終われば、岩だらけの荒地には、みなもう用がない。この豪邸にいるはずの大勢の使用人たちも、まるで魔法のように姿を消した。みな片付けが終わって寝たのだろう。
「アンディ、お前、これ好きだろ」
差し向かいで暖炉の前に座り、ヴァイツェン伯爵領の新当主から高級酒を勧められる。グラスには、チャーリーと対照的に緩く撫で付けたブリュネットの男が映っている。魔法使いの象徴である紫色の瞳も、俺のものは黒に近いほど濃い。
「チャーリー、お前大丈夫か?」
「大丈夫じゃない」
赤黒い酒が波うち、グラスに映った俺が崩れる。整ってはいるがどこか間抜けな顔立ちだ。グラスを受け取渡す指も、チャーリーはがっしりとして、俺はなんだか頼りない。背丈は2人とも同じくらい高いのに、骨格は随分違う。
チャーリーは顎が張っているが、俺はどちらかというと細面だ。世間で魔法使いというと、俺のような長身痩躯の優男を思い浮かべるのだろう。俺たちは、現在国の魔法使いのツートップを張る実力なのだが。
「小父さんたちいつ帰るって?」
「さあな!」
チャーリーは投げやりなようすで、豪華な長椅子の背にぼすんと倒れ込んだ。
「まったく、宴会が終わった途端に出発しやがって」
「宴会だけはちゃんと楽しむあたり、小父さんと小母さんらしいよなあ」
「くそっ、何が引退旅行だ!あいつらまだ40歳にもなってねぇくせしやがって」
「そんで、嫁さん候補は決まったのかよ?」
突然に当主の座を明け渡した親友の親父さんは、爵位継承の宴会をついでにお見合いパーティーとして利用したのだ。当主になったので身を固めろというわけだ。
「うーん、それがなあ」
「けっこう良さそうな子もいたんじゃないか?」
「うまくいかないもんだよ」
「だめか」
「うん、だめそう」
結婚適齢期であるチャーリーと俺だが、残念ながら浮いた話のひとつもない。いいなと思う子の話をしたことくらいある。だけど2人とも気が利かなくて、てんでダメなんだ。
「親御さんが推してくれる娘には、恋人や想い人がいるみたいだったし」
「タイミング悪いな」
「まあ、いつものことだ」
いいなと話してるうちに、いつの間にかその子には恋人ができている。俺たちは、振られることさえ出来ていない。あ、かわいいな。と思ってしばらくしたら、結婚したとか。
そもそも海の魔物と闘うのにばかり忙しくて、女の子と知り合う機会が少ない。チャーリーは、加えてヴァイツェン馬の管理もある。ふたりとも、だいたいそんな風に青春の日々を浪費していた。
「珍しく積極的に来てくれた子は、みんな親が渋い顔してたな」
「お前、イケメン伯爵なのにな」
「うちはヴァイツェン馬の輸出で儲けた金を、海の魔物との闘いで使い果たすからなあ」
親たちは、娘を苦労させたくはないだろう。親が乗り気な家庭は、魔法使いの血筋を親戚に持ちたい名誉欲なのだ。魔法の力は血に宿る。だが、魔法使い一族の全員が魔法の才を見せるとは限らない。
魔物と闘えるのは魔法使いだけなので、俺たち魔法使いは尊敬されている。しかし実際には死と隣り合わせの仕事だ。儲かるわけでもない。
「討伐には国から援助もあるし、貧乏ってほどじゃないだろ」
「援助たって、ぎりぎり赤字になんない程度だ」
「無いよりゃマシだろ」
「そりゃそうだが」
この地は、岩だらけの海辺で強靭な馬を産出する領地である。魔法を使える者たちなら、この馬を海でも空でも走らせることが出来る。普通の馬なら耐えられないような暑さ寒さにも耐える。
俺はこの馬が好きだ。魔法の才を買われて子供の時からこの家に居候している。ヴァイツェン馬と共に育った。親同士が仲良しな隣の領地ゴルドゼー伯爵領の三男坊である。ここでは、海の魔物を討伐する仕事を手伝っているのだ。
親同士はチャーリーの妹ヒルダと結婚させるつもりだったらしい。だが、俺たちは特に仲良くもならなかった。ヒルダはさっさと相手を見つけて嫁に出てしまった。
チャーリーは、赤黒い酒の入った寸胴のグラスをくるりと回す。氷山のような氷が、カランと小気味の良い音を立てて揺れた。
「そういや1人、変なのがいたな」
「変なの?」
「独りで来ててさ」
「保護者とはぐれたんじゃないのか?」
「その辺は解らんが」
チャーリーは一口酒を呑む。俺はつまみのドライフルーツを齧る。強い酒も手伝ってそろそろぼんやりしてきたが、ドライフルーツが酸っぱくて目が覚めた。
「うおっ、すっぱ!」
「この酒に合うだろ?」
「合うなあ」
「今まで苦いもんばっか合わせてたけどさ」
「うん。酸っぱいやつのほうが合う」
「だろ」
チャーリーはニタリと笑う。
「それで、何で変だと思ったんだよ?」
俺は話を戻す。
「うん。名乗りもせずに手紙だけ渡されてな」
「恥ずかしがり屋さんかな」
「いや、堂々としてた」
「手紙は読んだのか?」
「まだだ。ここにある」
チャーリーは懐から手紙を取り出す。飾り気のない白い封筒に、色気のない赤い封印が見える。身を乗り出して印章を見る。
「おいっ、それノルト選帝侯の長女の紋章」
「おお?そうだな。気づかなかった!」
「えっ?ヴォルだろ?なんで気づかなかった?」
「ドレス着てたからな」
「顔見りゃ解んだろ。それと声や体捌き」
ヴォルことヴォルフィナは、修行の為にヴァイツェン魔物討伐隊に参加している。俺たちとはかれこれ3年の付き合いだ。
「お洒落してると解んねえもんだぜ」
「そうかあ?」
「お前、ヴォルが来てたの気づいたか?」
「いや」
「ほら」
「や、でも凄え数の客が居たろ」
ヴォルフィナは、神聖アローラン帝国の皇帝選出権を握る8選帝侯のひとつ、ノルトヴァルトゼー侯爵家の長女だ。彼女は優れた体術に魔法の道具を巧みに取り入れて、海の魔物を翻弄する。
夕陽の朱を映した逆巻く髪が、鼻筋の通った卵型の顔を華やかに飾る。夕陽の色は直線的な眉にも宿り、カールしたまつ毛は、勝気なエメラルドの瞳を取り巻いている。珊瑚の唇が印象的な、背の高い乙女だ。
「契約結婚しませんかって書いてある」
「は?なんで?あいつも跡取りだろ?」
「書いてある」
チャーリーが、俺にヴォルフィナの手紙を渡す。グラスを置いて受け取ると、大きく力強い字が並んでいた。緑がかったインクはヴォルフィナが好んで使う、ここヴァイツェンの魔法インクだ。これは、本来誓約書に使う。嘘が書けないのだ。高価過ぎて流通はしておらず、収入源にはならない。
「ほんとだ。書いてあるな」
わが神聖アローラン帝国の選帝侯は、封土をひとつの領地に留め、領主同士の婚姻は禁じられている。力の偏りを防ぎ、皇帝選出が公正に行われる為だという。領地を持たずに嫁入りか婿取りをするぶんには構わないという、甘い決まりごとではあるのだが。
「何考えてるんだあいつ」
俺は呆れて、手紙をローテーブルに放り出す。チャーリーはぐいと酒を煽る。
「だいたい契約結婚てなんだ?婚姻契約の間違いか?」
「いや、そこに条件が書いてあるだろ」
チャーリーに言われてもう一度手紙に目を落とす。条件として三項目だけ挙げられていた。理由は書いていない。
「一つ、衣食住の確保」
「一つ、互いに干渉しない」
「一つ、どちらかに好きな人が出来たら解消する」
あとは結びの挨拶と、ヴォルフィナのサインがあるだけだ。
「本当に利害関係に基づく偽装結婚なのか?」
「詳細は後日だそうだが、提案の内容はそうだな」
「いや、この手紙だけじゃ利も害もわかんねぇぞ?」
「うん、結婚という形を取る意味も解らないな」
俺は頭をはっきりさせるために、酸っぱいドライフルーツを勢いよく齧る。
「何でこんなこと」
「後日解るだろ」
「跡取り問題で揉めてんのか?命でも狙われてるとか」
「アンディ、何か聞いてないか?」
「いや、特に。チャーリーは?」
「俺も聞いてない」
俺たちは眉間に皺を寄せて黙って杯を重ねた。
しばらく黙々と呑んでいたが、すっかり空になった瓶を持ち上げて、チャーリーがぽつんと言った。
「アンディ、契約結婚てのもいいかもなあ。気楽で」
「おい、何を言い出す」
「多分ヴォルフィナも結婚を急かされて偽装したいんじゃないか」
「まて、早まるな」
チャーリーは瓶を下ろすとキャビネットに向かう。おかわりを取りに行ったのだろう。
「どうせ俺は魔物との闘いとヴァイツェン馬の管理で、殆ど家に居ねぇしな」
「それは嫁さん寂しいかも知れないが」
「だろ?」
キャビネットを眺めて、酒を選びながらチャーリーが続ける。
「こんな寂しくて荒っぽい領地に、嫁に来てもらうのも申し訳ないしな」
「条件は悪いかも知れないがなぁ」
「ヴォルフィナが相手見つけて離婚しても、そうじゃなくても、世継ぎは妹んとこから養子貰えばいいし」
チャーリーの中で、どんどん契約結婚の提案を受け入れて行くのが伺える。止めないと。
「いや、相手見つけたから離婚てのはまずいだろ」
それ、不義になるよな?
「不祥事起こしたら、選帝侯の資格が剥奪されるだろ?」
「その辺はうまくやるんだろ」
「いやいや」
「まあ、後日んときに聞いてみるよ」
チャーリーは底の方を藁で包んだ丸い瓶を持ってきた。これもなかなかに強い酒だ。
「カナッペが食いてぇな」
「ああ、これには軽食っぽいのがいいな」
チャーリーは呼び鈴を鳴らす。寝ているかと思った側仕えのシーザーが、音もなく現れる。
「カナッペ頼んで」
チャーリーが注文すると、シーザーは黙って頭を下げて消える。
それからしばらくは、変な手紙の事は忘れていた。チャーリーは爵位を継承してから激務が始まり、それどころではなかったのだ。引き継ぎもろくすっぽせずに引退旅行へと旅立ってしまった両親へと、呪いの言葉を吐きながら。
「チャーリーよう、現場は俺に任せちまえばいいのに」
「ここの隊長は歴代、後方にデンと構えるタイプじゃねえよ。親父も祖父も、その前もな」
気概と誇りは良いんだが、真っ黒な隈作って頬がこけ始めているじゃないか。お前が言ってるその時代は、奥方が家令と力を合わせて、家のことは引き受けてたろうが。ここんちの家令は補佐だからな。メイン張れるのは今、チャーリーしかいない。
討伐がひと段落して、久しぶりのヴァイツェン伯爵邸での朝食を楽しむ。不毛の荒野だから、果物も豆も他領から取り寄せた乾物だ。それでも、ヴァイツェン馬を駆って岩礁を飛び回りながら齧る携行食よりは格段に良い。
目の前に座るチャーリーは、落ち窪んだ目で淡々と豆のスープを飲み込んでいる。生気がまるでない。
「そんなんじゃ、大勢殺すぞ」
「大丈夫だ」
「お前、ふざけるなよ?頭も体もぼろぼろな奴なんか、お荷物なんだよ」
「うっ」
「そんな奴のボーッとした頭で出した指示なんかに従ったら、死ぬだろ」
「まだそこまでは、多分」
お前はとにかく寝ろ。睡眠をとれ。食事は一応摂っている。これは習慣なので、機械的に体に取り込んでいるだけだ。魔物の討伐中でも、隊服に忍ばせた豆や干し肉を摂る習慣があるので、健康を意識しているのとは違う。
俺はスープに浮かぶ干し肉を掬う手を止める。
「親父さんたちだって旅立つ時、俺にも頼むって言ってたろ」
「隊長には任命されてねぇだろ」
「俺が信用できねえか?」
「そうじゃねえ」
「じゃあ、意地張ってねぇで、慣れるまでは俺に現場任せろ」
チャーリーは憮然としてスープ碗を睨む。
「こなせる。出来ると思うから親父たちも俺に全部を任せたんだろ」
その辺はどうなんだろう。信頼して任せたのは確かだろうが。恐らく、現場は俺がいるし、補佐は有能な家令がいるというのも引退を実行した決め手になったんじゃないのか?
「なんでも背負いこむなよ」
「無理はしてねぇ」
「そうは見えねぇから言ってんだよ」
「無理なら言う」
「はあ。こういうの想定して爵位継承の祝賀会で嫁さん選びもさせられたんだろうぜ」
奥方がいれば、実務も精神面も支えて貰えるからな。
「嫁さんなぁ」
「あの後どうだ?誰かに申し込んでみたか?」
「そんな暇あるか!」
チャーリーはいきなり叫んで、眼光鋭く俺をみる。深い眼窩の底から薄紫の瞳がぎらぎらと覗く。とうとう精神が限界か?
「いや、それも領地運営の業務みたいなもんだろうがよ」
「はっ、三男坊は気楽でいいよな」
「なんだよ藪から棒に」
「呑気に嫁取りなんぞしてる場合じゃねぇんだよ」
「でもよう、チャーリー。お前さあ、代々奥方が担当してたことまでやってんじゃねえか」
チャーリーは俺の指摘にうっと詰まる。
「今、好きな人もいねえんだろ?政略結婚でいいじゃねえかよ。別に恋愛結婚にこだわってる訳でもないんだろ」
「政略結婚か」
チャーリーは唸る。
「え、お見合いからでも恋愛じゃなきゃ嫌なのか?」
「いや、そうじゃねえ」
「じゃなんだ」
チャーリーは拗ねたように豆をもごもご噛んでいる。
チャーリーはむくれて黙り込んでしまった。
「なんだよ」
「政略結婚はなあ、うちの場合、恋愛結婚より難しいんだよなあ」
「魔法血族狙いの家と縁を結べばいいんじゃねえの?」
チャーリーはため息をつく。
「俺もそう思ってたんだけどよ」
「違うのか?」
「そういう家のお嬢さん方がよ、みんな売れちまってんのさ」
「そういや、そんなこと言ってたな」
「そうなんだよ」
気まずくなって、俺も黙ってスープを胃に送り込む。
「なあ、積極的な子もいたって言ってなかったか?」
チャーリーはイケメン伯爵である。多少は怖い顔だが、正式な場に出れば、物腰柔らかな紳士だ。アプローチを受けることはこれまでもあった。ただ、もたもたしているうちに傍から攫われるのだ。
「そっちは家が反対してた」
「それも聞いたけどさ、押してみれば」
「うーん、そこまでしたい子はいなかったし、どの子も親御さんに渋い顔されたら、さりげなくどっかいったよ」
「そりゃあ」
きついな。
「いつものことだろ」
「そうだな」
俺たちは不毛な朝食を終える。何も解決しなかった。俺はとりあえずは休暇中なので、訓練がてらヴァイツェン伯爵邸周辺の岩山散策に赴く。チャーリーには睡眠を奨めたが、怒って業務に向かってしまった。
「この解らずやが」
「出かけんならさっさと行けよ」
「わかったよ」
何だか喧嘩別れみたいになってしまった。困ったな。本当に寝かさないと。どうにかならないものか。
岩山を走り回ったところで、なにか妙案が浮かぶわけでもなく、昼前にヴァイツェン伯爵邸に戻る。午前中、チャーリーは何か色々な内務をこなしたらしい。能力は高い奴なのだ。こんな過労状態では、能力の半分も発揮出来ないだろうに。
「お前、内務だってミスしたらまずいんじゃないのか」
「スタッフが優秀だから大丈夫だ」
「いやそれ」
「何だよ。俺ん家のことに口出すなよ」
「そうは言ってもなあ。お前が早死にしたら俺も嫌だよ」
「こんなんで死なん」
何を言っても聞かない親友の扱いに困っていると、チャーリーはふと足を止めた。
「そういえば」
「今度は何があった」
「ヴォルから手紙が来てた」
「ヴォルから?」
「うん。何だろうな。今月はあいつ、見廻り当番じゃねえし。午後に開けてみるよ」
「ヴォルから手紙か」
「そうだよ」
何かが引っかかる。
「ヴォル、手紙、うーん」
「どうした」
「いや、なんか忘れてるような気がしてよ」
「ん?そうか?」
「うーん」
「何だろうな」
「まあ、手紙を開けりゃあ解るか」
「そうだな」
雑談をしながら昼食を取った後、チャーリーはまた睡眠を拒否して業務に戻る。本当に心配だ。
と思ったら、岩山まで伝令が呼びに来た。何事だ。ついに倒れたか。慌てて邸に駆け戻る。
「おう、来たな」
「何だ、無事か。どうした」
「無事かってなんだよ」
「伝令なんぞ寄越すから、倒れたかと思ったぜ」
「いや、ちょっと頼みがあって」
チャーリーの手には、開封した手紙が握られている。机の上にある封筒には、ヴォルフィナの紋章が押された封蝋が見える。
「あっ、契約結婚!」
「思い出したか」
「思い出した」
俺は、祝賀会の夜2人で見たヴォルフィナの手紙をようやく記憶の底から呼び覚ます。
「話だけでも聞いてみようと思ってな」
「正気か。好きな人が出来たら離婚するとか、常識が無さすぎるだろ」
「お前だって、奥方が居れば良いって言ったろ」
「それはそうだが」
「ヴォルなら内務を任せられそうだし」
「いやまて。次期選帝侯だろ?お前と結婚したら」
「継げないよな」
「継ぎたくないのかね」
「そうも考えられる」
我が国では選帝侯の場合に限って、領主同士の婚姻が禁止されている。次期当主の段階なら、どちらかの継承権は取り消される。
「それで、よく解らん契約を結ばされたら困るからな。立会人になって欲しいんだが」
「立会人か。ヴォルはなんて」
「何も。読んでみろよ」
今度の手紙もやはり簡潔で、詳しい相談をしたいから都合の良い日程を知らせてくれというものだ。ヴォルフィナは今、崖端にあるこの邸宅の敷地内で、討伐隊宿舎に寝起きしている。
結婚したい理由はわからなかった。
ヴォルフィナが住んでいるのは敷地内だし、彼女は魔物討伐隊の部下である。チャーリーはヴォルフィナをその日のうちに呼びつけた。正確にはお茶の時間に招待した。お茶は、この邸宅の習慣なので、これもまた自動操縦的にチャーリーは参加する。
参加と言っても、ここのところは俺とふたりの寂しいお茶だ。親父さんもお袋さんも妹さんとその家族も、他の親戚も今はいない。機械的に茶を飲んで菓子や軽食を食べ、魔物の話や雑談を少しするとお開きだ。
部下とは言え選帝侯家の次期当主。お茶に来るとなれば、お菓子担当の調理人が張り切る。というわけで、今日の御茶請けは豪華だろう。楽しみだ。
「いらっしゃい」
「こんにちは」
簡単な挨拶をしてヴォルフィナが席に着く。庭園などと言う洒落たものはない屋敷だ。荒海を見下ろすティールームで、武骨な3人が集まる。ヴォルフィナは俺がいても気にしない様子だ。立会人の件は受け入れてくれそうである。
ほどなくお茶とお茶請けが運ばれてくる。数種のドライフルーツ、豆を粉にして蜜と練り合わせて揚げたもの、フルーツをヴァイツェン山羊の乳で寄せて、氷室で冷やし固めたもの。山羊のチーズに荒地の塩と薬草を擦り合わせたもの。
「美しいですね」
「これですか?祝賀会にもありましたよね。海藻ゼリー」
「ええ。あの時も美しいと思いました」
緑とも黒ともつかない独特の色合いの透明な塊は、花や鳥の形になっている。波が砕ける夜の岩場のような、艶めきを感じさせる食べ物だと思う。チャーリーの目には、ただ暗い色のツルッとしたものに映っているようだが。
香り高い秘蔵のお茶で一口喉を潤すと、早速本題に入る。気心が知れた武人の集まりだ。余計な前置きはいらない。
「ヴォルフィナさま、何でまた偽装結婚なんかしたいのですか」
このお茶会ではヴォルフィナを次期選帝侯として迎えたので、チャーリーは丁寧に接する。
「偽装結婚じゃありません。契約結婚です」
「ん?政略結婚の申し出なのですか?」
「いえ、終生継続する予定はありませんので」
「偽装と何が違うのです?」
チャーリーは問い詰める。
「ヴァイツェン伯爵夫人としての仕事はなさるおつもりですか?干渉しないとは、タダ飯食らいになりたいと言うことですか?」
「内務は承りますよ」
「偽装ですよね?部外者ですよね?わが領の内情を知りたいのですか?」
「そんな、人をスパイみたいに」
俺もチャーリーも、ヴォルフィナの目的は予想がつかない。チャーリー側のメリットひとつ提示せず、一方的に結婚したいが干渉するなとは。全く腹のうちが読めない奴だ。
「だいたい、好きな人が出来たら別れるってどういうつもりなのですか。別れるなら結婚しなくても良いのではございませんか?」
「あ、いえ。好きな相手が出来ないなら出来ないで継続します」
「何を仰るんですか。つまり、相手が出来たら離婚するって言ってるだけですよね?相変わらず」
「え、まあ。そうですけども」
「相手がいるふりをしたいなら、偽恋人で充分でしょう」
「いえ、私と夫婦になっていただきたいのです」
「何故ですか」
俺もそれが聞きたい。継続する気は無いといったり、継続すると言ったり、何がしたいのか解らない。正式に婚姻する理由は何なのだろう。
「長く縛り付けるのも申し訳ないので、期限は決めてもいいですね」
「いや、理由を聞いているのですが?」
ヴォルフィナの目が泳ぐ。え?いつも隙のないヴォルフィナがなんだか間抜けだな?なんだ?やらかした子供みたいで愛らしいぞ。
しかし、次期選帝侯ともあろう人間が、理由もなく他人の人生に傷をつけたい筈はない。離婚となれば、チャーリーの社会的信用は地に落ちるだろう。家庭も治められない人物が、魔物と闘うこの厳しい領地を治められる筈がないと言われてしまう。
それにもし、今後大切な人ができたらどうするんだ。チャーリーの性格では、その人が略奪愛の謗りを受けるのをよしとしないだろう。だから、心を動かされる女性が現れても、ヴォルフィナから離婚してくれない限りはじっと秘めているに違いない。
俺たちに見据えられて、ヴォルフィナは眼を逸らしながらも口を開く。
「あの、妹にとられましてね?王子殿下に婚約破棄されまして流れてきましたのでございます」
「いや、嘘をついてはいけませんよ?」
チャーリーは間髪を入れずに非難する。ヴォルフィナに婚約者なんかいたのか?それも破棄?王子殿下って誰だ?そもそも、流れ着いてないだろ。
魔法修行の為に、ヴァイツェン伯爵領の魔物討伐部隊に志願してきたんだろうが。その時、家族がぞろぞろ観光についてきたよな?荒海と岩山しかないこのヴァイツェン邸付近で、滅茶苦茶楽しそうにしてたよな?家族はとっても仲良しだったよな?
俺たちが投げる不審の眼差しに晒されて、ヴォルフィナはしまったという顔をする。俺の心がざわりと騒ぐ。
「なんでわかったんですか」
「いや、なんでって。図々しいな」
チャーリーの言葉が荒くなる。相手は遥か格上の次期選帝侯様だというのに。まあ、海の魔物討伐現場ではチャーリーがトップなのだが。それでなのかは知らないが、ヴォルフィナは始終丁寧な言葉を使う。
「何でですか」
ヴォルフィナは、怯まず再度理不尽な詰問をする。チャーリーはどんどん不機嫌になる。
「入隊する時身元の調査くらいするわ」
「でも廃棄、破棄、されたんです」
「廃棄って言ったろ」
「廃棄みたいなものですよ。妹に取られて」
婚約破棄とか言い慣れないから間違えたな。可愛い。
「だいたいヴォルお前、妹いねぇだろ」
「弟だよな」
俺も口を出す。
「え、いや、ですから、弟が妹で」
「何を言い出すんだ」
「弟、結婚してるよな」
「ですから、王子殿下と」
「お前、消されるぞ」
「お前の弟の奥方、チャーリーの妹の友達なんだが」
俺が事実を言うと、ヴォルフィナはむくれた。
「先に言ってくださいよ。卑劣な」
「なんなんだ、お前は。本当に」
不貞腐れたヴォルフィナが愛らしい。なんだこいつ。抱きしめたい。
「ですから王子に」
開き直ってループする。
「どこの。どこの国のなんて王子だよ?」
チャーリーが問いただす。ヴォルフィナは答えられない。そりゃそうだよな。架空の人物だもんな。婚約破棄は嘘だもんな。
「なあ」
俺は声が震えるのを必死で堪えながら尋ねる。
「なんでそんな見え透いた嘘をつくんだよ」
「笑わないで下さいよ」
一応は俺も副隊長なので、ヴォルフィナにとっては上司だ。そのあたり、そういえば身分を感じさせずに普通の部下として接してくるな。こいつ。なんだ、謙虚じゃないか。自然体だから気づかなかった。そこもいい。
「いや、笑ってない。くくっ、笑ってないから。笑、笑ってないからさ。言えよ」
「何を」
ヴォルフィナが睨みつける。可愛い。いや、可愛いな。何だこいつ。可愛いんですけど。可愛すぎて、可愛いしか出てこなくなったぞ。どうしてくれるんだ。
「変な嘘ついてないでさ、くくっ、ほんとは何で、くっ、チャーリーと結婚したいんだよ?くくくっ」
「まず、笑うのやめていただけませんかね?」
「いやいや、可愛いなお前、くく」
「馬鹿にするのもやめてください」
ヴォルフィナがすっかり拗ねてしまった。
「機嫌直せって」
「とにかく俺は理由が知りたい。忙しいんだよ。さっさと話せ」
チャーリーも苛々し始めた。俺はちょっと冷静になる。
「契約って言うなら、嘘はいけないよな」
「アンディの言う通りだ。理由を問わずに済むほどのメリットが俺にあるのか?」
「メリット?」
ヴォルフィナがキョトンとする。
「貴様っ!」
「おい、チャーリー!」
過労で精神がすり減ったチャーリーは、とうとう怒りを爆発させた。
「え、だって、チャーリー隊長、結婚しないといけないんですよね?花嫁が必要なんですよね?」
何か、根本的な誤解があるようだ。
「違う」
「違う?でも、ヴァイツェン伯爵夫人は、内務の責任者ですよね?空席はまずいですよ?」
「余計なお世話だ」
「祝賀会でお嫁さん候補見つからなくて、困ってたじゃないですか」
「今すぐ無理に結婚する必要はない」
「あ、ヴォル、お前まさか」
すぐに結婚する必要があると思って、後先考えずにボランティアを買って出たのだ。俺は感動した。自分でも熱烈な視線を送っているのが解る。ヴォルフィナは美しいエメラルドの瞳で、俺の憧憬を受け止める。真っ直ぐに受け止める。そして戸惑いの色を見せる。
「お前ら?なんだ?そう言うの他所でやってくれ。俺は忙しい」
「あ、チャーリー隊長!お待ちを」
「ヴォル、もう相手が見つかったろ。契約は成立しない」
「え、相手」
ヴォルフィナは、俺をちらりと横目で見る。また目が合う。俺たちはなんとなく微笑みを交わす。
「くだらねぇ。話は終わりだ」
「いやまて、チャーリー。ヴォルなりに内務の手伝いをする方法を考えてくれたんだろ!断るにしても、もう少し言い方ってもんが」
ヴォルフィナは、俺に対して感謝の色を滲ませる。心が触れ合うって、こう言うことかな。なんだかほわほわしてきた。
チャーリーはまた怒鳴る。ふらふらなのに大声なんか出して、倒れるんじゃなかろうか。
「必要ないな!お前まで何を言い出す!」
「ヴォル、本当のこと言えよ」
「えっ」
「今更何だっていいよ。とにかく断る」
チャーリーのあまりの剣幕に、ヴォルフィナがおろおろし始めた。
「アンディ副隊長、チャーリー隊長大丈夫でしょうか」
「聞こえてるぞ!」
「すみません!」
「なあ、チャーリー、座れよ」
俺は必死で引き留める。
「内務責任者は、真面目に考えないと、ヴァイツェン伯爵領が潰れるぞ」
「そうですよ!」
「このままじゃ、そう遠くない先に大事故が起こるぞ」
「海の魔物を減らす討伐隊も壊滅するんじゃないですか?」
俺とヴォルフィナは、阿吽の呼吸で説得する。
「なあ、俺たちに嫁さん選びを手伝わせてくれよ」
「お力になりますよ」
立ち去りかけていたチャーリーが足を止める。
くるりと振り向くその顔には、既に怒りが消えていた。
「どうやって?どんなふうに手伝うんだよ?」
「兄貴たちに聞いてみるよ」
「私も弟嫁に聞いてみます」
「いや、それどっちも祝賀会で全滅したろ」
ヴォルフィナと俺は顔を見合わせる。
「あ」
ヴォルフィナは気まずそうにする。
「ああ」
俺はため息をつく。
「王族に理不尽な婚約破棄をされた女性と、立場の弱い貴族男性が、契約結婚で互いの名誉を守る小説が流行ってるって、弟嫁から聞いたんですよ」
ヴォルフィナが、肩を落としてとうとう白状した。変なものに影響を受けたな。なんて単純で可愛いんだ。
何だか名誉がテーマの、格調高い説話小説みたいに聞こえる。しかしそれ、多分大衆恋愛小説だな。チャーリーの妹のヒルダが祝賀会でお仲間と喋ってたぞ。
「いい考えだと思ったんですよ。私が選帝侯を継ぐには、まだかなりの時間がありますし。奥方様が決まるまで内務をお手伝いすればいいかなって」
うん。大衆恋愛小説だからな?
「こちらの内務責任者は、夫人しか担当できないと聞き及びまして。そしたら、お手伝いする為には、結婚する必要がありますよね。でも、私は選帝侯になる予定なので、ずっとは無理ですし。契約解消条件は、弟嫁から聞いたお話を参考にしました」
人を見る目と武芸と魔法の道具については、右に出る者がいない凄腕美人なのにね。なんでそんなあり得ない設定を真似しちゃうの。可愛いなあ。
「それ、ノルトヴァルトゼー侯爵はご存じなんだろうな?」
「私の独断です」
「契約だろうと結婚だぞ?親抜きでは無理だろう」
「あ」
「浅はかだな」
「おいチャーリー。そこまで言わなくても」
ヴォルフィナは善意だぞ。いささか脳筋で深く考えないところはあるが。そこも可愛い。
「こんな考えなしが次の皇帝を選ぶのか?」
チャーリーはぎろりと睨む。
「そこはこれから勉強しますよ!父にも、他の7選帝侯からも、きちんと承認を頂けるように精進します」
「応援するよ!」
ヴォルフィナが嬉しそうに俺に笑いかけた。俺は健気に頑張るヴォルフィナが愛しくてたまらなくなった。俺なら三男坊だ。なあヴォル、婿取り出来るぞ。俺は、魔法の才も帝国ツートップの片翼を担うほどだ。
「お前ら、あっちいけよ」
チャーリーが疲れた声を出す。え、俺今声出てた?出てないよな?ヴォルフィナも求婚されたことを認識してないぞ。
「嫁は自分でなんとかするから」
「なんとかって」
「どうするんです?」
「内務はもう立ち行かなくなり始めてるだろ」
「継承式に来てなかったご令嬢は、まだいるからな」
お?積極的に探す気になったのか。よい兆候だ。
「本腰入れるなら、実家の魔法使い情報網を駆使して、お相手の下調べは引き受ける!」
「私も、父のネットワークを借りて、いい人探しますよ」
チャーリーが俺たちの顔をかわるがわる見た。
「何だよ?過労で現場に出たら俺たちの命も危ないって言ってるだろ!」
「文句は言わせませんよ!隊長に倒れられたら、人界から海が消えますよ!」
「お前ら、息ぴったりだな」
俺たちは顔を見合わせて真っ赤になる。赤くなるヴォルフィナ可愛い。燃える赤毛に負けないくらい頬が赤い。
「はあ、分かったよ」
チャーリーがとうとう折れた。
「1日も早く、内務を任せられる妻を迎える。そのつもりで相手を探すよ」
「手伝わせてくれるか?」
「せめて、討伐隊はアンディ副隊長に一時預けて」
「やっぱりそう思うよな?」
ヴォルフィナが俺と同じ考えで嬉しい。
「その時間で嫁さん探せよ」
「そうですよ。それがいいです」
「またお前ら。仲良しだな」
「そんな、仲良しだなんて」
ヴォルフィナが照れた。現場では仲良しだ。信頼できる仲間だ。プライベートでも隣に居てくれたら最高だな。
「なに照れ笑い交わしてんだよ」
「悪い」
「すみません」
「謝んな!腹立たしい」
「ええー」
「怒らないで下さいよ」
「ああもうっ!嫁は探す!隊はアンディに任せた!以上、解散!」
なんかヤケクソだが、まあいい。これで少しは睡眠が取れるようになるだろう。謎の契約結婚問題も解決したし。
「ヴォル、午後の鍛錬、崖下に行かないか?」
さっさと立ち去るチャーリーに続いてティールームを出ながら、俺はヴォルフィナをデートに誘う。俺たちはゆっくりでいいからな。急に求婚したりなんかはしないぞ。
「ええ!良いですね」
ヴァイツェン伯爵邸がその頂に建つ切り立った崖は、海の魔物が巣くう岩礁を眼下に控えている。崖下の岩場なら見廻り当番の奴らもいるし、最初からふたりきりになる心配もない。警戒されずに済むだろう。
「よし、じゃあ隊舎に迎えに行くよ」
「はい、お待ちしております」
よしよし。迎えに行くとか、デートっぽいぞ。ヴォルフィナも受け入れてくれた。
「俺が見えなくなってからにしろ!」
「えっ?ふたりきりはまずいでしょ、ヴォルは次期選帝侯様だぜ?変な噂がたったら困る」
「アンディ副隊長!お気遣い感謝します!」
「あのさ、非番の時は敬語やめない?」
「いえ、でも」
「いちゃいちゃすんな!」
チャーリーがまた喚き始めた。
「落ち着け」
「疲れてる時に叫ぶと倒れちゃいますよ?」
「良い加減にしろよ!」
チャーリーはドカドカと靴を鳴らして早足に立ち去った。俺たちはどちらからともなく笑い出す。ひとしきり笑うと、すっかり爽やかな気持ちになった。
「ヴォル、君は本当に可愛らしいひとだね」
「アンディ副た、ええと、アンディ」
名前を呼ばれて、胸がぎゅうっと掴まれたような感覚になる。ヴォルフィナが可憐に頬を染めて見上げてくる。どちらかと言うと華やかな女戦士の艶がある容姿だ。それがいじらしく見つめてくる。効果は絶大だ。
「うん、何?」
「ありがとう、嬉しい」
恥ずかしそうに口籠る声も抱きしめたい。
「ねえ、抱きしめたい」
「えっ、あの、はい。お願いします」
「本当に?」
「ええ。あの、はい」
何だ、お願いしますって。可愛い。とにかく可愛い。俺は大切に抱きしめる。
「あー、やっぱりまだいた」
チャーリーが戻ってきた。手には二通の封書がある。二通とも開封済みだ。
「ほら、この怪文書返すから」
チャーリーは、落ち窪んだ眼を嫌そうにすがめる。まるで魔王だな。油断すると討伐隊から攻撃されるぞ。
「あ、すみません」
「お前、それより、ちゃんと睡眠を取れよ」
「いいから、さっさとどっかいけよ!」
「え、おい、やめろ」
チャーリーが魔法を放とうとしている。
「チャーリー隊長、ダメですよ」
「屋敷も壊れるぞ」
「そうですよ。仕事が増えちゃいます」
「うるせぇー!!!」
なんだかめんどくさいので、俺たちは走ってヴァイツェン伯爵邸から走り出た。そのまま厩に行く。それぞれヴァイツェン馬に飛び乗って、邸の下の断崖を駆け下る。
夕焼け色の巻き毛が潮風にたなびく。砕ける飛沫は、どんな宝石よりも美しくヴォルフィナの髪を飾る。躍動的な身体はこの世でいちばん魅力的だ。
ヴァイツェン馬が2人を軽やかに運ぶ。見交わす瞳に奔り出した恋を込め、俺たちは荒海に飛び出した。
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