甘い呪いは泥の中
私は、あと数日で死ぬ。よくもった方だと、自分では思っている。
そろそろ死ぬというのにあまり実感もなくて、いつものように培養液に身体を浸し、電子媒体で本を読んでいる。飽きはしない。先生へ向け続けるこの感情と同じく。
「なにを読んでいるのですか?」
私の浮かぶ水槽しかない病室に、唐突に声が響いた。びっくりしてしまって手から端末が滑り落ちかける。
「……驚かせてしまってすみません」
「いえ、大丈夫です。落としても問題ないようにビニールに入れていますし」
白と黒の割合が半々の髪。光のない瞳。くたびれた白衣。中肉中背で、指は細くて長い。
「――こんにちは、先生。いつも見回りありがとうございます」
「いいえ、仕事ですから」
淡々と話す先生に見惚れる。光を通す髪に。私を眺める瞳に。ほつれた布に。カルテをめくる指に。
……向こうは私のことを覚えてすらいないのに、私は先生の中に見つけようとする。私の欠片を。私の何かが少しだけでも残っていないかを。
「身体の調子はいかがですか?」
先生の言葉をうけて自分の身体へ目線を移した。腰から下はとうに泥になっており、手先もどろどろに緩み、形をなくしている。今も腹部が赤黒く溶けて、透明な水槽をまた少し濁らせた。
最近病気の進行が早い。私がそれを願っているからかも知れない。だから
「――良いです」
と笑って返した。先生の顔がかすかに歪んだけれど、見なかったフリをした。
「そう、先程先生は何を読んでいるのか、とおっしゃいましたよね? 最近流行りの恋愛小説です。他の患者さんにお勧めされまして」
「どんな話ですか?」
歪みを瞬きのうちに消して、先生は問う。私にこれっぽっちも興味がないくせに。何度聞いても忘れてしまうくせに。
「身体が足先から泥となってゆく女の子が、病院の先生に恋をするお話です。その先生は患者を憶えてられないんですよ」
――今度こそ、ハッキリと顔が顰められた。不愉快そうに、怒ってそうに、泣き出しそうに。
「……その女の子は、馬鹿ですね。報われない恋をしたものです」
「あら。否定はしませんが、酷いことを言いますね。きっと、その病院の先生だって馬鹿ですよ。その女の子の担当から外れようとしないんですから」
いっそ姿を消してくれれば諦めもついた。私はこの身体で動けない。先生は私を忘れる。だからこの恋を捨ててしまおうと、一体何度思ったことか。
――なのに、忘れられる度、はじめましてを重ねる度、痛感する。強く思う。
「今日も先生の心に残りたいです」
まっすぐに彼を射抜いた。先生はたじろいだように視線を泳がせて、一歩退いた。
「先生、好きです」
告白は呪いだ。心を捕らえるための甘い呪いだ。
――私から先生へ、込められるだけの棘を込めて、愛の言葉を紡ぐ。
少しでも私のことが記憶に残りますように。少しでも私との時間が良いものだったと思いますように。少しでも、私が幸せだったことが伝わりますように。
私は泥になって死ぬけれど、この思いまで溶かしてしまいたくはない。
まっさらな心に、小さくてもいいから跡を残したい。
「……」
……何度目かも分からない告白は、やっぱり先生の沈黙で終わ――
「――ありがとう、ございます」
掠れた声。吐き捨てるような声。
その、たった一言に背筋を震わせてしまう私は、やっぱりおかしいのかもしれない。呪わしそうに私を睨む先生が、ひどく愛おしいものに見えて仕方ない。
通算三桁に昇る全ての告白が、今、報われた。
「――愛しています、先生。貴方が私を忘れても」
先生を思って溶かしたこの泥こそが、私だけの愛の証明だ。