覚めた視点でのエヴァ
この作品あまり触れたくない。ただシンエヴァが終わったことで今軽くエヴァが話題に上ることが多い。そこでとなるのだが、私にとって触れる意味はアニメに芸術は必要ないって思った最初のきっかけとなった作品だからになる。実際にそう思ったのはその後起こった世界系の反乱が原因だがルーツをたどればこの作品に行き着く。
この作品に触れるときに嫌な思いがあるのは私が高く評価する部分を誰も高く評価してない点になる。何故か?時代とともに陳腐になってしまうからになる。今となっては語るには弱いと思う部分。今でも通用する部分もあるが、常識的になってしまって誰でも言うようなものにしかならない。
この作品について語るときに内容の考察に拘泥することになってしまう。それ以外今の時代には語る価値が無いからになる。
この作品今語るとなるとまずTVラストを避けて通れないだろう。そうなるとああ庵野監督の判断は正しかったと認めるのがすごく嫌だからになる。私はあそこどうすればよかったか?答えを持ってる。ありきたりな第一案で終わるべきだったと思う。真のラストがあったのか?ならない。
ただ本人がクリエイターとして語ったのを読んでると、ああこれ第一案があったけどそれ捨てたな?ってのが見えてきた。なろうの作者ならすごく良く分かると思うのだが、2つある。まず1つは作った時点で終わりをある程度想定していたケース。これは作り方による。これが絶対にないのが浦沢直樹になる。
何故なら浦沢直樹はラストを全く考えずにわざと作るからになる。いつもラストで物議をかもすのでこの人は作り方に原因があると思うし、それがエヴァにちょっと参考になる。エヴァの考察でもっと真剣になってほしいのは娯楽作品って視点でエヴァを評価する人がほぼ居ない。ある種の芸術作品のように扱うのが多い。
だが実際はもっと薄っぺらい子供番組程度のノリで良いのである。まあこれはアニメ漫画を不当に落としてめてしまうのでそれはそれで良くない。ただエヴァが人生のような感じを持ってる人とは距離を置きたい。アニメ漫画はそうあるべきじゃない。アニメ漫画は基本ただの気分転換の娯楽でしかないし、それでいい。
そこから先に漫画は踏み込んでも良いけど、それはあくまで例外として欲しい。漫画を全体的に見る場合には漫画にはそういったバイブル様な役割を与えてほしくない。その点で庵野監督は古いクリエイターだと思う。そこを割り切って現実逃避の高度な技術を磨く、そこだけに芸術性を見出してほしかった。
ただそれを芸術と呼べるのか?と言うと私は呼べないと思う。どれだけ高度でも、本当の意味で高みを目指すには受け手の知性が必須となる。今のオタクにマニアは存在しないって熱心に私が書いてることになる。頭を使うという労力なしに感動したなどの大きな対価は得られない。見終わったらああ面白かったって感覚だけがありしつこく内容について吟味する様なものは漫画物語の王道としてはふさわしくない。後には何も残らないすっからかん、これこそがアニメ漫画物語の正しい在り方だと思ってる。
分かりやすく言えば、それで深く感動したとか、そういうのは子供の時だけにしてほしい。アニメ漫画は深い感情を持つのは子供の時だけにしてほしい。大人はたばこや酒をはーって言いながら疲れを忘れるたしなむような感覚にしてほしい。
浦沢直樹だったのか?ならそれは何とも言えない。その点庵野監督は明かしてないと思う。浦沢直樹は例外が無い限り作り方として語ってるから常に同じなんだ。そしてそれはかなり重要な事になる。とにかく後の事なんて考えないで徹底的に初期に何かすごそうって幻想を作る天才だと言って良い。それは最初に何も考えてないからできてる可能性が有る。わざとやってるような口ぶりがあるからだ。
庵野監督との共通点は、作品が持ってる何か?じゃなくて、両者に共通するのは勝手に受けてが作り上げていくのを利用してるからだ。庵野監督は確信犯じゃなかったかもしれない。初期エヴァンゲリオンに不快感を伴ったものようなものを持ってるからになる。確信的にやってるならこうはならない。
なんとなくだが、様々な発言だが、基本アニメってのは週刊週刊で組み立てて良き、浦沢氏のように確信的じゃなくても漫画家も似た部分がある。例えば冨野監督は初期から持っていた構想を、Zについて、逆シャアまで引っ張るために間を作った経験がある。ZZが決まったため、その勢いで逆シャアまでZ初期の構想を引き延ばしてしまった。
あしたのジョーが大きく参考になるのだが、梶原一騎のラストってのが残っている。これについて、は?って怒ったのはちばてつやになる。その怒りがあしたのジョーのラストになる。こういった第一案ってのは初期の段階でラストを決定してなくてもちょくちょくある。多分エヴァには第一案があったはずなんだ。
それを他人が直したのがあしたのジョーなら、自分で変えたのがおそらくエヴァだったと思われる。これがかなり問題なんだ。エヴァのラストを他人が直したならまだよかっただろう。どれだけ不満があっても自分の場合何も出てこない場合どうなる?となる。漫画版エヴァはしらないが、貞本氏はまた違ったんだろう。
他の人がもし何か言ってくれればまた変わっていたかもしれない。自分で自分を否定して答えが出なかった。それがエヴァンゲリオンだと思う。私が考える正しいラストはその第一案を出せばよかったのにと思ってる。多分つまらない。だってこのTVラスト未だに語り継がれる。庵野監督の狙いは見事にあたったんだ。
読売のナベツネもこういったものに言及してて、悪評でも有名なことが大事と。または今の時代なら確実に炎上商法と言われるだろう。ここに浦沢直樹がどうかかわるか?と言うと、初期の段階で作り上げた読者の勝手な期待はラストを占めるとき神様でもないと答えることができない。
基本大半の人間に出来ない。その点あしたのジョーは良い意味で二人組んでたのが良かったと思う。梶原一騎が多忙のためやる気が無かったとの説があるが、それは違う。梶原一騎は独自の哲学があり、美化した終わりを嫌うというのがある、むしろ人々の記憶から消えるようなフェードアウトしていくようなラスをを好む。ただそういった終わりは雑になりがちというのは間違ってないと思う。
梶原一騎は良く言われる拗らせてる作家だともいえる。ただそれでも、多くの場合漫画アニメは完結のため楽しむものじゃない。基本その場その場で楽しむものが大きい。そのためすぐに人気にならないのはおかしい部分がある。知名度の点でどれだけそうやって作られいても人の目に触れないというのもあるが、それでも基本すぐに面白さがピークを迎えやすい。
そのためアニメ漫画は終わりがダメになるってわけじゃない。初期の先に対する期待は思い込みでしかない。その思い込みに対する幻想を壊すのがラストになる。そのため大半の作品はラストつまらないんだ。ラストから組み立てることをもてはやす人が多いが、私はそれはアニメ漫画の正しい在り方だと思わない。あしたのジョーで分かるようにその時の後付けでラストを完成させるしかないんだ。
エヴァンゲリオンは凡庸なラストしか作れないクリエイターである庵野監督自身をさらけ出すしかなかったと思う。ただ今でも多くのファンの記憶に残ってるのはあのTVラストが大きかっただろうなと思う思いもある。ファンがその事に対してもうちょっと客観的に自分を見るべきじゃないか?と思う部分がある。
さて最後になるが、自白のようなものをする。私は当時見てない。新エヴァ放映前のゼロ年代に見た。私は客観的な視点で語るのが当たり前なんだ。ただエヴァと言う作品をアニメ史と言う視点で見た場合、正直もっとラスト以外の物語の旨さを見てほしいって思いがある。庵野監督が、エヴァをとっとと終わらせて、そっちを磨いていったなら何が生まれたんだろう?ってわくわくする部分がある。
それには凡庸なラストを受け入れるべきだったという思いがある。私だけがこの視点でエヴァを高く評価してる。だが多くの人は無自覚には知ってるんだ。最初に引き付けられなきゃ、あのラストが今でも記憶に残るものになるわけがないんだ。庵野監督は浦沢直樹みたいに確信犯になってほしかった。クリエイターとして失われた20年になるんだと思う。
ただ庵野監督が撮った手法は、初見殺しとしては最高点に近い選択だったと思う。私が評価するのは常に、後の時代に影響を残したものになる。そのためものすごくTVラストどうでも良いんだ。セカイ系でぶん投げラストは増えたが、どれもエヴァほど醜いものじゃない。伏線の回収が不十分程度でエヴァは語れるものじゃない。だがその後のセカイ系はその程度の悪さでしかない。
一回こっきりの放送事故に近い。