始まりの音
ここ一年くらいの間、私は私では無いような感覚に何度も襲われる。
仕事からの帰り、最寄り駅の階段から見事に転げ落ちて一週間ほど入院した辺りから、まるで別の世界を覗いているようなこの不思議な感覚が毎日のように私を覆うのだ。
今日も私は一度も来たことがないはずの公園にある銀杏並木道の入り口に立ち、最近では当たり前になってしまったデジャビュを感じながら公園に入っていく。ここまで頻繁にデジャビュを感じると、不思議とこれは本当に私の体験や記憶なのではないかと錯覚してくるのだから、人間の記憶ほど不確かなものはないのだなと思うこの頃。
足元には散り始めた銀杏の葉がまだら模様に落ち、それはある方向に私を導いているように道を作っているみたいだ。散り始めてはいるものの、まだ見頃の銀杏に道行く人々は足を止めて、各々スマートフォンや立派なカメラで銀杏の撮影をしている。
そんな人たちを横目に、銀杏特有の鼻につく匂いを振り切るように足早に並木道を抜けると、ベンチや花壇が均等に端に配置してある広場に出た。その中央には水が吹き出していない噴水であろうコンクリートのオブジェがある。公園内には親子連れも多く見えるので、きっと夏には水が流れて良い水遊び場になるのだろう。
広場から左右に道が分かれ、私は向かって右側の道を更に奥に100メートルほど進んだ。
もう一度言っておくが、私は今日初めてここに来た。
歩みは迷いなく、目的地周辺に辿り着いている。
その証拠に気持ちの良い音が、私の耳に心地よく届いた。
* * *
彼女が僕の前からいなくなってもうすぐ1年になる。
異変が起きたのは11月も半ばを過ぎた頃だ。
《LIME:美生》
「全てが再生された時、必ず私をあなたの手で壊してね。私からの最後のお願いです。」
日曜日の早朝、目覚ましのアラームを止めスマートフォンの画面を見ると、彼女から不思議なメッセージが入っていた。
只ならぬ様子のメッセージに不安を覚え、勢いよくベッドから体を起こし寝ぼけた状態のまま美生に電話をかけてみたが繋がらず、寝ぼけていたので間違えた番号を押したのだろうかと履歴を見返すが、美生の名前が表示されているので間違ってはいないようだった。
一瞬混乱して、寝癖のついた頭をくしゃりと掴んで固まった。
どういうことなのだろうか。昨夜は一緒に外食をして、僕たちが大好きなSF映画のレイトショーを観て、日曜日の今日も午前中から公園で約束していたはずなのだ。
美生の様子もいつも通り、か、いつもよりもはしゃいでいたような気がするくらいだ。
その日、朝から彼女の住むマンションにも行ったがすでに退去していて、約束していた場所にも現れることはなかった。
付き合って2年目の秋の出来事だ。
そこで僕は気づいたのだが、彼女のことを僕は殆んど知らなかった。両親がどこに住んでいるのか、兄弟がいるのか、デザイン事務所に勤めていることは知っているが会社は何処なのか、一番仲のいい友達は誰なのか……?そのせいで探す宛てが何もないことに気づいてしまった。
唯一思い出したのは、叔父が近くの病院勤務だと話していたので、知る限りの病院に当たってみたが結局は見つからなかった。
何か事件に巻き込まれたのでは……と頭を掠めたが、マンションを綺麗に引き払っていることと、謎ではあるがちゃんとメッセージを残しているのだから、姿を消す予定があったとしか考えられない。
それからというもの、毎日のニュースの確認は欠かさなくなった。もし万が一、万が一何かあったらと。もちろんそんなニュースに出るような事件に巻き込まれることは考えたくもないのだが。
幸か不幸か、この1年近く毎日欠かさずニュースを見ているがそれらしい情報は全く得られなかった。
挿絵も描きながらの投稿になりますので更新ペースはゆっくりになりますが、よろしければお付き合い下さいませ。(絵を描かないときはなるべく早くアップします)