産道に帰する
深い紺色の空が彼方から校舎を包み始める。あちこちの廊下や階から部活動の片づけや先生の巡回の忙しない音がする。公立高校の教師や職員はみんな公務員だからわざわざ受験生のために残業してはくれない。受験勉強は高校のお仕事ではないからだ。数学科の職員室とパソコン室の明かりだけが寂しげに廊下に座り込むわたしを照らす。
「さぶ・・・」
古文の単語帳だけ持って図書室から出てきて、結局この薄暗い廊下でココアを飲んでぼーっとしていた。ださいブレザーの裾から申し訳程度の丈のスカートがわたしの太ももを覆っている。いやーでもこの丈はさすがに寒い。今、十二月だし。でも最近の流行りは短いスカートに紺色のソックスを足首でくしゃっとして短く履くの。なんでこれが流行ってんのかは知らない。正直、黒タイツのほうがかわいいしあったかい。
「自分なんてないし、それなら流行りに乗っとけば安心、ってね」
みんながやってるならださくないし、正しいんでしょ?だから、やるの。自販機で買ったココアはとっくに冷めてしまった。図書室のドアが開いて、c組の杏子が出てくるのが見えた。重たそうな黒いリュックにはわたしと同じ予備校の教材がたくさん詰まってるんだろうな。こんなことで荒んじゃって、あほらしい。杏子の綺麗に巻かれた前髪の下、チェックのマフラーの内側の彼女の顔は粘土みたいに冷たくて息ができていないんだ。わたしも、今まだ残っている同級生たちもみんな同じ顔。杏子はこれから、きっと渋谷のネオンの中ラブホとコンビニに囲まれた予備校に向かう。そろそろ荷物持ってこなきゃ司書さんに怒られそう。そうわかってるのに体育座りで畳み込んだ両膝は動かない。無意味に指先でココアの缶をくるくる回す。ずっと触ってるのに、ちょっと指が離れればその温度を失っていく。アルミ缶を放って、そのまま膝小僧に額を押し付けた。数学の先生が出てきたら捨てろって怒られるんだろうなと思いながらもそのまま放置。
「瑠璃子ー」
聞きなれた声がわたしを呼ぶ。顔を上げるのすら億劫で首だけ声のした方向へ向けた。瀬名だった。
「なに」
「さっむ。今日予備校行く?」
男物のローファーをかぽかぽ鳴らしながら近づいてくる。セブンティーンの相手役の男の子に出てきそうなコーディネイトの着崩し。しゃべんなければモテそうな男、咲崎瀬名。
「自習で?今日は行かない。お腹すいた」
「あらま。僕ちょっと赤本返しに行くけど、一緒に帰りませーん?」
手には青学と立教の赤本。どっちもわたしは受けない。口調は明るいけど、いつもどこか緊張している。帰り道はお互いにネチネチと推薦組の悪口大会と志望校への不安爆発大会になることは火を見るより明らかだった。
「えー」
瀬名は三年に上がってから一番つるんでいるけれど、今日はなんだか気が乗らなかった。彼はわたしの反応なぞお構いなしに、廊下の先へ消えて行ってしまった。わたしの不満げな声は寒々しい廊下でただ宙に浮いている。
「ルリコ?どうしたの」
小さい頃見た安物のビデオで出てきたサンタクロースのおじいさんはこんな声だった気がする。暗い廊下の先から近づくシルエットで妙に長い脚と突き出たお腹がわかる。
「ヒューゴ」
よくわかったね、わたしって、とその影に語り掛けた。ヒューゴは腰を折り曲げて、わたしの顔を覗き込んだ。光の乏しい中で見る彼の瞳は、海底から見上げた水面のように深くきらきらしていた。
「瑠璃色ね、わたしの名前みたい。」
かじかむ指先でわたしは自分の瞳を指さした。ヒューゴは目じりに皺をよせ人好きする笑みを浮かべた。
「君はいつも僕の瞳を褒めてくれる、ありがとう。ここは冷えるね、ルリコ。女性は冷やしちゃいけないよ」
そう言ってヒューゴはわたしの手を取って立ち上がらせた。オイルが切れた機械みたいに固まって動かなかった足がすんなりと動いてくれた。そのまま英国紳士らしく皺だらけの手を差し出してエスコートしてくれる。
彼はいつだってそうだった。彼が連れてきてくれたのは家庭科準備室だった。煌々と明かりが灯っていて、不安になったけれど彼は気にせず戸を開き、わたしを中に入れた。
「紅茶とコーヒー、どっちが好き?」
ヒューゴは専ら紅茶を飲んでいたけれど、わたしはコーヒー派だ。コーヒーで、と言うといつもちょっとだけ残念そうな顔をする。教員用とは別に設けられたテーブルに紅茶とコーヒーのカップを置いて、ヒューゴはわたしの向かいに腰かけた。
「勉強は大変?」
チョコレートの包み紙を開きながら、彼は問いかけてきた。わたしはコーヒーの湯気が立っては消えていくのをただ目で追っていた。
「勉強っていうか、なんか、なんにも価値がない気がする。」
プライドがわたしたちの体をじんわりと足のつま先から締め付ける。友達の目がわたしたちの恐怖を煽って、ペンを握らせる。自ら絶ったはずの逃げ道が茨の道を歩けと駆り立てる。もうわたしにできることはただ、ひたすらペンを握って皺と折り目でふやけた参考書にかじりつくだけ。引き返す道も、もがく手も、逃げる足も自分で動けなくしてしまったから。自業自得だ。
「なんでこんな苦労してんの?推薦で決めちゃった子たちはのんきにバイト?スノボ?でも学歴はあるんでしょ?ずるくない?ずるいって。学歴ってそんなに大切なの?くだらなくない?わたしはくだらない、あほらしいって思ってるの。なんなら調理の専門にでも行ってる子の方が大学行ってるやつよりよっぽど偉いよ。なんで進んだ先になにもないってわかっててこんなに苦しまなきゃならないの?なんにも意味ないじゃん」
ダムが決壊したようにペラペラと口が回る。ばかだなあ、って頭の左の隅っこで自分が言っている。無駄な苦労する必要ないって何度も親にも言われた。それでも、選んだのは自分だった。それなのに、ただ周りと比較して苦しいからってこんな文句言ってる。ヒューゴはうんうんと頷きながら、ただ聞いてくれていた。
「志望校どこ?って聞かれるのもヤダ。わかんないんだもん、なにやりたいかなんて。将来何になりたいかなんてわかんないもん。」
自慢じゃないけど、中学生の時はここの高校に入りたくて入りたくて勉強ばっかりしていた。県でも有数の進学校に入れて本当に嬉しかった。でも、こんなことで仇になるとは思わなかった。大学に行く以外周りの目が許してくれない。留学ならまだしも専門や就職なんて奇異の目で見られて到底できやしない。もちろん専門や就職する子もいるにはいるけど、わたしはそんなことできない。みんながいるから安心なの。一人なんて怖いの。勇気がないなら勉強するしかないのに、それすら逃げようとしてる。
「確かに、学歴なんてものはバカらしいものだって僕も思うよ」
二杯目の紅茶を淹れながら彼は優しく言った。廊下で見た時は凪いだ瑠璃色の水面のようだった瞳は、夏の空のように青く力強くわたしを見つめていた。
「でも、選ぶことと選ぶことによって生まれる結果には必ず意味があるんだ。今は無意味で無価値なように見えても実はすごく重大な決断をしているかもしれないんだ」
彼はそのままなんてことないように、クッキーのおかわりはいる?と続けた。わたしは促されるままチョコレートのクッキーを二つもらった。
「あなたはとても聡明な女性だから、自分が本当に悩んでいることと言葉に出していることは違うって自分でもわかっているんだね。」
途端に、真っ黒いコーヒーを見つめる視界がぐちゃぐちゃになった。我慢していたわけではなかったのに、感情にぴったりと寄り添ってくれる言葉を言われて涙が出てきた。同情のなにが悪い。涙はコーヒーやスカートにぼたぼた零れていく。ひやっとした指が私の目元を拭った。ぼやける視界の向こうで困り気味の笑みを向けている彼がわたしの涙をぬぐってくれているのが見えた。
「君がこの世に生まれて最初にもらったプレゼントって何だと思う?」
掠れた声で、わかんないと返した。ヒューゴはマグカップを置いて、自分の目元をとんとんと指した。艶やかな金髪の下、濡れたように瑞々しい青い瞳。
「あ・・・瑠璃子、名前?」
「そう。正解」
美術室に置いてある石膏像のように白い陶器のような肌が蛍光灯に照らされて、ぼんやりと光っている。いつもはこんなに光の下で彼を見たことがなかったから途端に不安になった。
「ねえ、ここにいて大丈夫なの?」
「うん?家庭科の先生たちなら今は会議でいないからちょっとくらい拝借したってバチは当たらないよ」
「そうじゃなくて」
「ルリコ」
ヒューゴはわたしの言葉を遮った。
「今日は、今日だけは大丈夫みたいなんだ」
彼の声も表情も佇まいもひどく穏やかだった。黒暗が迫る空を窓越しに見つめる彼の横顔は溌溂とした若者らしさとは不釣り合いだった。その歪さに胸が締め付けられた。もう、今日なんだ。
「僕たちはもうわすれてしまっているけれど、生まれてくる苦しみはそうそう生きてても経験しないほど辛くて過酷なんだ。そんな苦労を乗り越えた自分の子どもにプレゼントするのが『名前』なんだと思うんだ。生まれてきてくれてありがとう、ってね。最大の困難を乗り越えた小さな命に対する最大の贈り物なんじゃないかな」
英語だとgiven nameって言うでしょ、と言った。
「だから、大丈夫だよ。ルリコ、あなたが乗り越えようとしている困難はバカらしいことでも乗り越えられないものでもない。どんな結果になっても間違ってなんていないよ。君が選択したことは、全部間違ってない。今君がぶち当たっている壁は君が乗り越えてきた壁の中で一番高い壁じゃない、だから臆することはないよ。」
ただ怖かったんだ。大人たちにはくだらないと一蹴されても、わたしにとってはすごく苦しくて辛くて大きな問題だったの。くだらないなんて、そんな簡単に言わないで。そんなくだらない大学受験に失敗したらみんななんて言うの?どう思うの?くだらないって言ったくせに!わたしを傷つけるんだ。怖くて仕方なかったの、逃げたくて仕方なかったの。感情が昂って、綺麗になんか泣けない。鼻水も嗚咽も止まらなくて子どもみたいに泣いていた。机越しにヒューゴはわたしを抱きしめた。背が足りなくて首から上に絡まってるような体勢になってしまっているけど、布越しに伝わる彼の冷たさがわたしを安心させた。彼は幼げな丸っこくて柔らかい額をわたしの額にくっつけた。
「ヒューゴ、わたしがんばるよ。だから、あなたも必ず乗り越えてみせてね、わたし待ってるから」
「約束するよ。君にもう一度、次はヒューゴとしてじゃないけど、出会うために僕は乗り越えてみせるよ」
電灯と星の光が夜を照らす。もう彼の冷たさがわたしに触れることはない。
「兼松さん、ここにいるじゃない」
「えっ、ちょっと瑠璃子僕が荷物持たされてんだけど何してんの!」
家庭科の内野先生と瀬名が家庭科準備室に入ってきた。瀬名はわたしの黄色いリュックと自分のスポーツブランドのリュックの二つを背負ってしこたま文句を並べてきた。
「瀬名、帰りに肉まん買って帰ろ。おごってあげる」
「なになになに、怖いんですけど。なんかあったの」
わたしのリュックを乱雑に投げつけ露骨に疑心の目を向けてくる。こういうところが彼の駄目なところだ。飲みかけの紅茶が入ったマグカップを一瞥してから、わたしは言った。
「それは秘密」
given nameのくだりはおそらくキリスト教や西洋の思想等の関係もあるかと思いますが、今回はわたし個人の解釈で書いています。