シドロアへ
――何で俺らだけ殴られなきゃならねえんだよ。
目の前で、十二、三歳の少年が鼻血を拭っている。その隣に、まだ幼い顔つきの青年が立っていた。
――俺もお前も家なしだからな。仕方ないさ。
――家があると偉いのかよ。なんも悪いことしてねえのに。
青年は優しく微笑んだ。
――泣くなよ。オリヴァス様が見てるぞ。
少年に頭を撫でられた。顔がはっきりと見えた。
幼いころのザクトだった。
ジーンはふっと目を覚ました。あたりを見ると、簡素で味気のない灰色の壁と、格子があった。手足は拘束されている。
ここに来る直前のことは覚えていた。
ラナレイが白変に罹り、最期の別れをするために役人に反抗した。牢屋に入れられて当然だった。
問題は、何故か、その牢の造りが厳重だということ。下層の牢屋ではない。何度か喧嘩沙汰でぶち込まれた経験があるからこそ分かる。
ここは上層の牢屋だった。
上層民が落ちてくることはあるが、下層部の人間は、どれだけ重罪を犯しても、上層に送られることはない。すっぱり死刑になって終わりのはずだ。あれだけの騒ぎを起こせば、そうなっても何ら不思議ではない。
ぼんやり、事態がどう動いたのか理解できずにいると、不意に、何の前触れもなく、牢の前に見覚えのある白衣の男が立った。
「……パーグス隊長」
「やあ、カタルトくん」
いつもながら、胡散臭い笑みを浮かべている。
しかし、目が合わない。
「取り急ぎ報告するけど、これは録画映像で、君は僕の実験台として上層に送られた。君の生体反応に応じて再生される仕組みなんだけど、うまくいくかな? ともあれ、カタルト兄の美人なお嫁さん、早く助け出さないと始末されちゃうよ」
「どういうことだ」
録画映像だということも忘れて思わず問いかけた。
「僕の実験につき合ってくれるかな? 君の服、軽量化した防護、兼、戦闘服でね。身体能力が膨れ上がるはずなんだ。僕を信用して、義姉を助けるなら、今すぐにそこを出てほしい。僕はその服についた通信機の信号を受け取って、昇降口で待つよ。義姉と一緒においで。鍵は君の声で外れるようにしてある。解除、といえばいいよ。じゃあ、待ってるね」
相変わらず状況はわからない。
パーグスの姿は消えてしまった。捜索隊の隊長であり、何らかの研究者だということは知っていたが、怪しげな強化服まで作っているとは思わなかった。仕事着の上から嵌めるように着せられた白い服は、なんだかアシュロンの基体を彷彿させる。
まさかと思い、首を触ると、太い管が刺さっていた。感覚が鈍いため、新たに麻酔を打った状態で刺されたのだろう。
「変態だな」
我が隊の隊長ながら気持ちが悪い。
パーグスが言っていたことを確かめるために、拘束された手足を力任せに引っ張った。たちまち罅が入り、枷が外れる。
「……解除」
半信半疑で唱えれば、檻が音を立てて開いた。
我が隊長ながらどこか胡散臭いと思っていたが、どうやら信用してもいいようだった。
ジーンは独房から逃げ出し、見張りの品のいい制服を着た看守を軽く払いのける。アシュロンの操縦と似ていて、力の加減は自由自在らしい。
おそらく、出力の最大は本体と同じか、それに相当するはずだ。
だが、うっかり無茶をすれば、露出した人間の体だ。神経がおかしくなっても不思議はない。
「とんでもない代物だな……」
アシュロンにも取り付けられている通信機が腕にはめられていた。
囚人が逃げ出したことを知らせる報知器の音を背に、収容所の外へ続く透明の渡り廊下を駆け抜ける。
余裕があればそこからの景色を楽しみたいほどそこは高く、下層民にとっては目が眩むほど明るい。下を見ると同じような渡り廊下が重なりあい、それよりはるか下方に、下層の屋根である上層の地面がうっすら見えた。
走りながら、通信機を取り出して、耳に入れた。電源を入れると、パーグスの声が聞こえてきた。
「思ったより早かったね。どう? 強化服は」
「そんなことより、義姉さんの居場所を教えてくれ」
「無礼講だね。でも、いいね、切羽詰まった感じで」
「そんな話をしてる場合じゃ」
茶化すパーグスを怒鳴ろうとした時、腕の装甲に地図が映しだされた。
入り組んだ建物の中で動いている点がある。その南側に点滅する点があった。
「出たかな?」
「ああ。点滅が医療塔だな」
「そうそう。そこの弐百伍階だよ。今、君がいる場所から六十階ほど下だ。幸い、白変の医療塔は収容所と近い。まずは」
ジーンは後ろの追手を見やり、パーグスの指示を待たず、分厚い透明な壁を叩き割った。下を見て、飛び降りた。風を切って、少し下の渡り廊下の天井に着地する。少しでも着地点がずれていれば、目が眩むほどの高さから地面に叩きつけられるところだった。
ジーンは同じように飛んで、下の階に降りる。
通信機からの信号でジーンの行動を予測したのだろう、パーグスが「大胆だねえ」と半ば呆れたような、状況に似合わない呑気な声を出す。
「そのへんでちょうどいいよ」
まさか、渡り廊下を破って逃げるとは思っていなかったのだろう。とりあえずは逃げ切れたようだった。
白衣の人間ばかりの廊下に、壁を蹴り割って降り立つと、警報が鳴った。
「……逃走経路くらい用意してくれてもいいだろ」
「うーん、君を見る限り必要なさそうだけどね。さすが僕の見込んだ男!」
「言ってろ……」
腕の地図を見ながら枝のように分かれている廊下を進んだ。とりあえずの警備員だろう、それほど戦力のない役人を軽くあしらって進んでいく。
軍人ならいざしらず、さほど戦闘訓練を受けていない警備員など、仕事の奪い合いや、居住区の争奪戦で喧嘩三昧の下層民にしてみれば子どもと変わりない。
「こっちまで君の情報が入ってきたよ。すごい暴れっぷり! 頑張れ、頑張れ」
「頑張れって……。義姉さんを連れて、昇降口に行った後、どうするつもりだ」
「もちろん、邪神ダリアス様の大地に向かうんだよ」
パーグスは声を潜めたような感じだった。近くに誰かがいるのかもしれない。
「詳しい事情は会ってからでも間に合う。よろしく頼むよ」
「待て。どうして、あんたはこんな」
「オリヴァス様に嫌気が差したのかもね」
パーグスはそういった後「一旦、切るよ。がんばってね」というや否や、通信を切った。
ジーンはラナレイの言葉を思い出した。
呼ばれたと言っていた。シドロアへ行かなくてはと。
それは、あの声だろうか。
あの声に誘われて、兄も消えたのだろうか。
+
騒ぎだけがどんどん大きくなり、当事者のパーグスは姿を消した。
白変病棟を襲撃した下層民がいるという情報が民間人にまで漏れだし、上を下への大騒ぎだった。
事態の収拾を命じられたヴィオイドはひとまず、監視カメラで標的を確認する。
白変した女性を背負い、渡り廊下を駆け抜ける男。歳はまだ、十七、八だ。冷静さを感じさせるすっきりした顔立ちだが、動きやその行動力には、猛々しさすら感じる。
パーグスはなぜこんな男を下層から実験のために引き上げたのだろうか。
「おい、パーグス・レモダンを探せ」
「はい」
監視塔の役人に鋭く指示を下した。
パーグスはすぐに見つかった。この騒ぎで封鎖されたはずのアシュロン昇降口にいる。
「アシュロンの発出準備をしているようです。近くに警備隊が控えていますが、突入させますか」
「……いや。俺が行く。パーグスと脱走犯の位置を逐一、俺に知らせろ」
現在のパーグスの立場を考えれば、些細な問題さえ命に関わる。
彼が婿入りするはずだったヴィオイドの実家、ドレイアス家は皇帝の血族であり、その娘を直接ではないにしろ、死に追いやったパーグスに慈悲をかける猶予はもはやなかった。
思えば、数日前、彼がアシュロンの報告書を持ってきた時には、すでに様子がおかしかった。どこか上の空で、気づけばぶつぶつ何かロナがどうの、ガナージャがどうのと唱えていた。
研究がパーグスの息抜きとなるならと放っておいたが、こんな事態になるのならば、あの時に問い詰めておくべきだったようだ。
ヴィオイドは昇降機に乗って、軍のアシュロン保管庫へ向かった。
途中途中、脱走犯が第何警備隊を倒しながら昇降口に向かっているという情報が何度も入ってきた。
監視塔では言わなかったが、脱走犯が着ていた服はシドロア探索隊の仕事着だった。その服の上にさらに何か、装甲をつけていた。あれはほぼ間違いなく、パーグスの発明品だ。身体能力を跳ね上げる鎧のようなものだろう。
それに加え、探索隊の隊員はシドロアの魔物ともいえる生物との交戦経験が豊富である場合が多い。加えて下層民は野蛮だ。軍人程ではないにしろ、民間人を捕捉するための警備隊では歯がたたないのは、当たり前かもしれない。
まさか下層出身のシドロア探索隊が、上層に乗り込み、強化鎧に身を包んで暴れまわるなどと、誰が想定しただろうか。
全く、頭の痛い話だ。
「俺のアシュロンを出す。準備しておけ」
保管庫の管理者に連絡を入れた。
軍部としては、今は来るべき時に備え無駄な兵士の消耗を避けたい時期だった。得体の知れない力を持つ男、それも白変患者を背負っている奴を相手取って戦うことは、感染の危険を考えると、なるべく出動を先送りしたいはずだ。今、ヴィオイドが連絡をしたところで、素気ない対応を得て終わりだろう。
「脱走犯、昇降口に到着しました。何者かの誘導により、こちらからの封鎖は全て解除されている模様です! 至急、応援を願います!」
焦る監視塔の声を聞きながら、ヴィオイドはアシュロン保管庫に入った。白い基体を包むように、黒を基調とする装甲が取り付けられた新しいアシュロンが、もうすでに発出準備が整えられた状態で施設内に立っていた。
「将軍、お待ちしておりました。出撃ですか」
「脱走犯がシドロアへ逃げたところを撃つ」
ヴィオイドは制服の外套を脱ぎ捨て、整備員に押しつける。
アシュロンの体に足をかけ、背部にある乗り込み口に蓋をする装甲を開いて中に乗り込んだ。体内は外の装いとは違って、どこか肉っぽい。かつて生物だった唯一の痕跡ともいえる。
ヴィオイドは耳に入れた通信機を、アシュロンの中のものと取り替えた。
垂れ下がった針のような触手を首に差し込む。一瞬の激痛を乗り越えると、視界が拓けた。
「通用口を開けろ。出る」
アシュロン発出のための通用口を塞いでいた鎧戸が開いていく。
ヴィオイドは鎧戸がぎりぎり一体分開いた瞬間に合わせて外へ飛び出した。
僅かにガナージャを一望した後、上空を舞ってシドロアへ通じる捜索隊の昇降口を目指した。
+
意識を失ったラナレイを背負いながら探索で使われるアシュロンの発着所へ向かう。
警備隊の数は増して行き、徐々に疲労なのか、それとも強化服の性能なのか、体が重くなり始めた。意識のないラナレイはしがみつくこともできない。片手と足だけで抵抗するには限度があった。
何とか発着所の前まで来たが、鍵がかかっていて中には入れない。
「こっちだ」
渡り廊下のそこかしこから新手の警備隊の声が聞こえる。
苛々しながら鎧戸が下りた扉を叩く。
「隊長!」
いらいらしながらパーグスを呼ぶと、後ろの警備隊が銃を構えたところで扉が開いた。ほとんど転ぶようにして中に入った。
扉は素早く閉まり、弾丸を弾く音が響いた。
「すまない。手間取ってね」
通信機にそんな声が響く。
呆れながら、アシュロンがある昇降口へ向かう。中に入ればこっちのものだった。近道を通り、最短で目的地にたどり着く。
いつもは人がごった返し、酷い時には警報がなっている昇降口にたどり着くと、一体のアシュロンの発出準備が整っていた。傍らには、いつもどおり白衣を来たパーグスが立っている。
「やあ、お疲れさま」
「そんなことより、義姉さんが」
アシュロンの足元に下ろすと、パーグスは慣れた手つきで脈を測り、瞼を持ち上げて目を覗き込む。
「どうなんだ」
「僕の予想通りだとしたら、これで少しはよくなるはずだよ」
懐から小さな箱を取り出し、中から薄緑色の液体が入った注射器を出した。
「何をするつもりだ」
「いわゆる中和剤、かな。彼女はロナの中毒だと思う」
「……中毒?」
「そ。でも、違ったとしても、人体に悪影響はないから。打つよ」
パーグスはラナレイの腕に注射針を刺し、薬を注入した。
「義姉さん……」
「とりあえず、君はそれ脱いで。みんなでアシュロンに乗ってシドロアへ行くよ」
「待て、三人も乗れないぞ」
「そんなこと言ってる場合? がむしゃらにでも急がないと、僕の義兄が追いかけて来て、始末されちゃうよ」
「義兄?」
パーグスが胡散臭い顔ににっこり笑みを浮かべた。
「ヴィオイド・ドレイアス将軍」
「……冗談じゃない」
ジーンは急いで首から触手を引っこ抜き、ラナレイを担いでアシュロンに乗り込んだ。
ヴィオイドの名はよく知っていた。
一騎当千の異名を持つ男だ。シドロアからの敵に切っ先を向けているうちは何とも思わなかったが、今、自分たちの敵に回ったとなると何一つ笑えない。
探索用のアシュロンは確かにある程度の防御と攻撃ができるような装甲を持っているが、兵器化したヴィオイドのアシュロンには敵わない。あっという間に木っ端微塵にされて終わりだ。
出立の準備を整えていると、後から入ってきたパーグスが扉を閉める。
「ほら、急いで急いで」
「わかってる」
ジーンは新たに触手を刺し直し、アシュロンを動かした。下へ向けて斜めになっている昇降口からほとんど落下するようにして地上を目指す。
「重い……っ」
いつも以上の重さに基体が揺らいだ。速度を落とさなければ着地に失敗してしまう。
「ちょっと、さっさと降りて隠れないと本当に来ちゃうって……あ」
パーグスがそんなことをいった時、ジーンも視界の端で動く黒いものを確認した。
慌てて向き直り、防御の姿勢を取る。
ガツッと激しく基体を揺らす衝撃に、ジーンは体勢を崩した。後ろに黒いアシュロンが回りこみ、首を締めつけられる。
神経が繋がっているため、息苦しさと痛みが直接体に響いた。
「う、くそっ……。あんたの兄貴なら説得できるだろ。何とかしてくれ」
このままでは絞め殺されてしまう。
パーグスは少しだけ唸った。
「おーい、ヴィオイド僕もいるんだけど」
ジーンの通信機を使い、場違いに呑気な声でそう呼びかけた。
すると、すぐに向こうから返事があった。
「パーグス、今なら人質として利用されたということにしておいてやる」
地を這うほど低い、恐ろしげな声だった。式典などの映像でも、その声や見た目は知っていたが、実際対峙すると、迫力が違う。
「人質かあ。でも、僕はもう、君がいうところの上の指示には従っていられなくなっちゃったんだよ」
「ふざけるな。今更、何をするつもりだ」
「僕はね、ヴィオイド。ナナフィルの望みを叶えに行くよ。シドロアで真実を見つけるんだ」
パーグスのいっていることの意味がジーンにはよくわからなかった。
真実とは、一体何のことだ。
ともかく、早くヴィオイドの腕から抜けださなくてはならない。
「は――」
不意に拘束が緩んだ。
ジーンは身を振って、ヴィオイドのアシュロンから逃げた。
しかし、逃げ切ることは敵わない。背後から撃たれた。
「うぐっ」
「ヴィオイド!」
パーグスが叫ぶ。
再び弾丸が背に打ち込まれ、背部の装甲が剥がれ落ち、激しい風が吹き込んで来た。
「隊長、義姉さんを支えてくれっ……」
「ヴィオイド、僕は」
「貴様にナナフィルを渡したことを、今になって後悔しそうだ。パーグス、戻ってこい」
「……嫌だよ」
ヴィオイドの呻き声が聞こえた。
「ごめん、カタルトくん、話し合い失敗かも」
「ふざけるな、あんたらのごたごたに俺たちを巻き込むんじゃ」
ない。
そう言うよりも先に急にアシュロンが傾いた。肩口や足に激痛が走った。ヴィオイドが放った弾丸がジーンのアシュロンの腕や足をもぎ取って行く。
触手が抜けて、アシュロンを操縦できなくなる。
「くそっ、こんな……!」
基体の落下を感じながら、まだ意識を失ったままのラナレイを抱きしめた。
こんなところで落ちて死ぬのだろうか。
こんなところで。
こんなふうに、あっけなく。
『ジーン。こっちに来て』
絶望で何も考えられなくなった時――あの声が聞こえた。