第16章 ファーストキス
その日は、ただいつもより寒いなーと思う以外は特にいつもとは変わらない日だった。違うと言えば、遅刻しそうになって慌てて自転車をこいできたことだけだろう。
ホームルームが始まる瞬間、私は教室に駆け込んだ。
「三枝さーん、ギリギリですよ」
あいかわらずのほほんとした足立先生に苦笑いをしながら自分の席に向かう。髪の毛もぐしゃぐしゃ、きっと顔も赤いだろう。急いで席について顔を隠すようにかばんから用具を出していると、
「そういえば、今日はバレンタインですねー」
足立先生の言葉に私は固まってしまった。しまった・・・今日は2月14日、バレンタインデーだ。すっかり忘れていた・・・・・・
「なんでバレンタインを忘れるかな・・・」
事情を薫とミッチーに話すと、案の定呆れた顔をされた。
自分でもわかっている。今までバレンタインデーにチョコをあげた経験がないのだ。それに加えて、最近は全然テレビも新聞も見なかったので、世間のことにも疎くなっていた。ついでに日にち感覚までもが鈍っていたらしかった。
「どーしよー!!今から買いに行ったほうがいいかな!?」
「手作りのがいいんじゃない?だって佐々木君もうチョコ誰かからもらったみたいだし」
ミッチーの言葉に私は固まってしまった。昔は自分のくつ箱を開けたら大量のチョコが落ちてくるといった現象は起きてないが、佐々木も西村も真面目なチョコを5,6個もらってきたことがあるのだ。
「ねぇ、薫は手作りしたの?」
「まさか。店で買ったよ。そのほうがおいしいかなって思って」
「うーん・・・そうかぁ」
ますます迷ってしまった。
手作りなら、家に帰ればなんとか作れそうだが、渡すのが遅くなってしまうだろう。買って渡したほうが効率が良いような気がする。しかし、普段お世話になっている分、その気持ちを形で表したかった。それにはやはり手作りだと私は思う。
「決めた・・・やっぱ家に帰ってから作る」
佐々木の好きな生チョコ。作るのに時間がかかってしまうが、もうこれを作ると決めたのだ。
放課後になるまでの時間、私はずっとイライラしっぱなしだった。佐々木とも西村とも会話することなく、帰りのホームルームが終わった瞬間ダッシュで帰っていった。帰りにスーパーに寄り、生チョコの材料を買う。
「ただいまぁ。うあっ柚芽!!」
弟が帰ってきて、私が台所に立っていることに驚いた。
「めっずらしー・・料理してんなんて」
「・・・うるさい。そうだ、あんたチョコとかもらったの?」
試しに聞いてみると、弟の浩哉はぎょっとしたような顔になった。さては自分の思い通りにはもらえなかったなと私は直感した。
「うるっせーよ。柚芽こそなんで今作ってんだよ!」
まさか忘れていたとは言えない。
生チョコが完成したのは夜の10時半頃だった。最後にココアパウダーを振り掛けて、ラッピングをすると11時になってしまった。
いっそ明日にしたほうがいのだろうか。でも、せっかく作ったのだから今日中に渡したかった。ケータイを取り出し、電話帳でサ行を探す。
コール音を無意識に数える。9回目でようやく繋がった。
『柚芽ちゃん?やっほー』
出たのは佐々木の妹だった。予想していなかったので、私は少したじろいだ。
「やっほー。えっと・・・兄貴いる?」
『今お風呂入ってんだけど、たぶんもうすぐ出てくるかも。あ、そうだ柚芽ちゃん、もしかして翔太にチョコあげてなかったりする?』
ぎくっとなる。
「なっなんで知ってんの!?」
『だって翔太、なんつーかちょっとイジけてたよ。チョコもらってきてもあんま嬉しそうにしてなかったしぃ!?』
語尾が上がったのは向こうで何かが起こっているかららしい。
『何言ってんの!』『わっ!翔太いたんだ。びっくりした!』
『もしもし!柚芽?』
電話の向こう側の会話が丸聞こえだった。その声に急にどきっとした。佐々木と電話したことはあるが、こんなに緊張したのは初めてだった。
「っと・・遅くにごめんね?・・・今から会えないかな・・・・・」
『・・・うん。今からそっち行くよ』
「いいよ!私がそっち行くから!」
『じゃぁ、間をとって公園にするか』
承諾して電話を切った。私はラッピングした箱を大事にバッグの中にしまう。
寒空の下、私は自転車をこいだ。
公園で待つこと5分、誕生日にプレゼントしたマフラーをつけて佐々木は現れた。自転車を停めて、寒そうにコートのポケットに手を入れてこちらに近寄ってくる。
「ごめん。ちょっと遅れた」
その髪の毛が少し濡れている。そういえば、お風呂に入っていたと言っていた。私はバレンタインデーを忘れていた自分を責めた。風邪でもひいたらどうしよう・・・
「私こそこんな時間にごめん・・・」
ベンチから立ち上がって私は言う。寒さと緊張で、暑いのか寒いのかわからなかった。
「いいよ。つーか、その格好寒くね?夜中雪降るって天気予報で言ってたけど」
「大丈夫。皮下脂肪多いから」
佐々木が自分の巻いていたマフラーを私の首にかけるのと、私が佐々木にチョコを渡すのが同時に行われた。お互いにびっくりして立ち止まった。先に声を出したのは私だった。
「遅くなったけど、バレンタイン!生チョコなんだけど・・・他の子とかぶっちゃったかもしんないけど、一応受け取ってくれると嬉しい・・・」
後で思っても、支離滅裂な言葉だ。それだけ心臓がどきどきしていたのだ。
「・・・・・嫌われたのかと思った」
佐々木はマフラーから手を放す。
「・・え?」
「今日1日話しかけてこなかったし、帰りはソッコーで帰るし、ちょっと期待してたんだけどなーって思って・・・イジけてた」
私の手からチョコを受け取ってくれた。佐々木の本当にイジけていたような顔から、やがて無邪気な笑顔が生まれた。
「だからサンキュー!すっげー嬉しいよ!」
その笑顔が嬉しくて、だけど申し訳なく思った。私はバレンタインデーのことを忘れていたことを正直に話した。佐々木は柚芽らしいと笑った。
と、そのとき頬に冷たい水滴を感じた。
「あ・・雪?」
空を仰ぐ。どんよりとした雲が空一面を覆っている。佐々木も空を見て、そしてつぶやいた。
「違うよ・・・雨だ!」
言った瞬間、さーっと雨が降ってきた。慌てて自転車を引いてすべり台の下で雨宿りをする。こんなとき、雪が降ってくれたらムードが良いが、やはり上手くはいかないのだろう。
「あ、マフラー濡れちゃう」
私がマフラーを取ろうとすると、佐々木に首にかけられたままのマフラーの両端を持たれる。そのまま引っ張られて、私と佐々木は向き合った。その顔が少し赤くなっていることがわかった。
何をしたいかすぐにわかった。
「目、つむっててな」
一拍おいて、私は目をつむった。少しして唇に吐息がかかって、暖かいものが重なった。ほんのちょっと目を開けてみた。閉じた目とまつげが見える。こんなに近くで佐々木翔太の顔を見たのは初めてだった。
ファーストキスだった。
「カズ!はい!チョコだよ!」
翌日、昨日作ったチョコを私は西村にもあげた。ちょうど朝練が終わったところで、西村がくたくたになっていたときだった。
「ありがと!てゆーか今食べていい?」
「いいよ。味見してないけどおいしいと思うよ」
丁寧にラッピングを開けて西村は1個チョコを口に入れる。しばらくコメントがなかった。
「おいしいよね?」
「ん。おいしい」
その表情が怪しかった。私はチョコを取り上げて、試しに1個食べてみる。・・・・・・味は腐ったような、すっぱいような、とても食べるものではなかった。
「まずい・・・・・」
西村が苦笑している。
その日、佐々木が学校を欠席したのは、昨日のチョコが原因ではないことをただ祈るだけだった。