第13章 2人の過去―後編―
少し暴力シーンを含みます。
苦手な方はご遠慮ください。
あと5分で5限めの数学の授業が始まるというときに、1年1組はざわついていた。西村と佐々木が、間宮のケンカ情報を聞いて教室を飛び出してしまったのだ。確証はないが、おそらく例の建設中のビルへと向かったのだろう。
そのとき、いつもより早く門脇先生が教室に入ってきた。
「あれ、みなさん、どうかしたのかな」
場の空気を読んだのか、しかし場違いなゆっくりとした声で先生は辺りを見渡す。そして、当時学級委員長で泣きそうな顔をしている佳奈を見て止まった。佳奈はわらにもすがる思いで先生の元へ駆け寄った。
「先生・・・!翔太とカズが・・・」
すべてを話し終えると、先生はこくんとうなずいて教室中を見渡した。
「今からの授業は自習にします。各自静かに勉強しているように」
「・・・先生は?」
「3人を迎えにいってくるよ」
いつものほほんとしている先生がこのときだけ早口になったからよほど慌てていることがわかった。
先生は教室を出て行った。残された者は彼らの無事を祈るばかりだった。
何かの物音で間宮は目を覚ました。見慣れない天井にはっとして痛む体を起こす。その光景に息を呑んだ。
間宮をかばうように立っている2人の影。肩で息をしているのがわかった。
「西村・・・佐々木・・・?」
はっとして2人が振り返る。あちこち傷だらけだった。
「間宮!よかった・・・目覚めたんだな!」
その隙に西村が蹴られて倒れこんだ。すぐに体勢を整えようとするが、がくっとなってその場にうずくまってしまった。
「カズ!やっぱ足が・・・!」
言いかけたところで、佐々木は顔面を殴られて数メートル吹っ飛んだ。
足?もしかして昨日殴られた足のことか?間宮は考えた。もし自分のせいで西村の選手生命を断ち切ってしまったら?もし走れなくなってしまったら?
「佐々!!」
一方的にやられている佐々木。痛みで動けなくなっているようだった。こんなふうになっても仕返しをしないのは、学校に行きたいからだ。集中的に足を殴られている西村。それでも佐々木の元へ駆け寄ってかばおうとする。もう東条たちは間宮自身を狙っているのではなく、佐々木と西村の2人も狙っている。東条が振り上げた右手にはナイフが握られていた。まるでスローモーションのように見えた。
反射的に体が動いた。
間宮が倒れるのと門脇先生が現れるのはほぼ同時だった。一瞬何が起こったのかわからなかった。西村も佐々木もその場に固まった。
「・・警察だ!その場を動くな!」
警察手帳を持った中年の男が先生の後ろから顔を出す。逃げようとする東条たちを男の部下だと思われる警官が取り押さえていった。
すべては一瞬で解決した。しかし、間宮は動かない。先生が間宮に駆け寄る。
「間宮・・!しっかりしろ!!」
中年男も駆け寄って体を揺さぶるが、返事はなかった。ゆっくりと脈を確かめると黙って首を振った。間宮は、西村と佐々木をかばって代わりに刺され、そして死んだ。
門脇先生が2人を交互に見る。
「まずは病院へ行こう」
それだけを言って、間宮を抱え込む。そのとき、佐々木が倒れた。西村のぼんやりとした頭が急に覚醒した。
「動脈を切ってる。早くしないと出血多量で危険だ」
佐々木は中年警官に抱えられて、外に停まっていた車に乗せられた。西村はその後に続く。足の感覚がまるでなく、右足でしか歩けなかった。
何が起こったのか何が終わったのかもうわからなかった。西村も佐々木も気がついたら病院のベッドの上にいた。
「佐々木さんのほうは明日にでも退院できるでしょう。正直私もあのビデオを拝見しましたが、肋骨にヒビ程度で済んだのが奇跡ですよ。彼はもう大丈夫です。それで西村さんなんですが・・・左足首を骨折してまして、全治2ヶ月。それと、足の神経に後遺症が少しばかり後遺症が残ってしまって・・・日常生活に支障はないのですが、陸上を続けられるかどうかは今後のリハビリ次第です」
医者の話はその後の2人の経過を物語っていた。
病院に運ばれた2人は、直ちに治療を受けた。意識を失っていた佐々木はすぐに輸血をして一命をとりとめた。間宮は、すでに内臓破裂、出血多量などが原因で心肺停止。手の施しようがなかったそうだ。
建設中のビルは最近人為的だと思われる不幸な事故が立て続けに起こっているので、ビルにいくつかの監視カメラを設置していたらしい。そのビデオには、犯行の一部始終が映っていた。間宮も西村も佐々木も一切相手に危害を加えていなかった。
間宮の葬儀は翌日に行われた。門脇ももちろん出席した。形ばかりで参列している人も大勢いた。その中でわんわん泣いている間宮の弟の姿が見ていて痛々しかった。まだ8歳の小学2年生だった。
その頃入院中だった2人に門脇はそれぞれ会いに行った。いつも笑顔で明るい佐々木は弱々しい笑みで出迎えてくれた。
「なんとか逃げれるって思ってたんです。後先考えずに行動しました。自分の身1つ守りたかったために間宮を・・・・・死なせてしまったんです」
1つ1つ噛みしめるように言葉を発する佐々木を見て、一瞬泣いているのではないかと思った。
「君たちのせいじゃない。佐々木、君はもっと笑ってもいいし・・・泣いてもいいんだよ」
「俺は大丈夫です・・でも・・・どうやって笑ってたんだろ・・・・泣き方なんてずっと昔に忘れちゃった・・・」
西村は、元々愛想の良い人間だったので笑顔だけは見せてくれた。
「先生が来てくださらなかったら、あの後どうしていたかわかりません。本当にありがとうございました・・・」
「私がもう少し早く来ていれば良かったんだ。君たちが気に病むことはないよ」
「でも・・・今思えば他に方法がいくらでもあったんじゃないかと思います」
どうすることもできなかった。決して消え去ることのない大きな痛みだった。
退院しても佐々木は学校には来なかった。事情を知ったクラスメートは、みんなとても心配していた。西村のお見舞いに行こうとしたが、気持ちの整理がつくまではそっとしておいてほしいと医者に言われて結局行けなかった。
あの建設中のビルでケンカをしていると話を聞いたが、まだ確証がなかったため知り合いの警察官に電話をして一緒に来てもらった。ちょうど近くに住んでいたので助かったが、門脇はあと少し早く到着していればと後悔しない日はない。退職願の準備もできている。
そんなとき職員室にいると、2人のお客さんが来た。40代の女性と見覚えのある子供・・・間宮の弟だった。
「間宮さん!」
「先日はご迷惑をおかけしました。間宮航平の母です。息子の葵です」
疲れたような声で母親はお辞儀をした。門脇も頭を下げる。
「実は・・・葵が航平の死に立ち会った2人の生徒さんに会いたいと言ってまして・・・無理なお願いだとは承知していますが、お会いすることはできませんか?」
葵はしっかりとした目で門脇を見つめてくる。
「わかりました。ただし、1人はまだ入院中ですので病院でもよろしいですか?」
こくっとうなずいたのを見て、門脇は電話の受話器を手に取る。佐々木翔太の家に電話をかけた。
1週間ぶりに西村と佐々木は対面した。お互いに連絡を取ることも見舞うこともしなかったのだ。
西村の病室で門脇は、葵と2人を会わせることにした。どうなるのかはわからない。
葵はしばらく2人の顔を見た後、母親のほうを向いてこくんとうなずいた。
「すいません・・・もういいそうです」
「え・・話したいんじゃないんですか?」
さすがに驚いて門脇が直接葵に尋ねると、彼はこくんとうなずいて言った。
「兄ちゃんを守ってくれようとした人たちを見たかったんだ。それに、お兄ちゃんたちなんでしょ?兄ちゃんともうケンカしないって約束した人って」
「え・・・」
「オレがケンカしないでって言ってもいつも無理かもって言ってきたんだ。でも、死んじゃう前の日に電話で同じこと言ったら、友達2人と約束したからもうケンカしないって兄ちゃん言ってくれたんだ」
門脇は警察に見せてもらったビデオを思い出した。一方的にやられていた間宮。確かに、フクロ叩きのように見えたが、少なくとも多少の反撃のチャンスはあったはずだ。反撃できなかったんじゃない、しなかったんだ。西村、佐々木との約束を守るために・・・・・
鼻水をすする音がした。今までこらえていたものがまるで堰を切ったかのように溢れ出した涙を、佐々木は止めることができないでいた。
「あっ・・・ごめっ・・・・なんか、俺・・・・・涙の止め方、わかんねぇん・・だ」
門脇は、佐々木の頭をくしゃくしゃとなでた。西村のほうを見ると、うつむいて顔を見られないようにして手で頬杖をついている。白い布団に雫の痕がついた。
「ありがとう・・・」
彼らにとって背負い込みすぎた荷物を少しは降ろすことができたのではないかと思う。どうか、彼らの未来が明るくなるようにと門脇は心から思った。
間宮親子が帰ってから、門脇も学校に戻ろうとした。そのとき、佐々木に呼び止められた。
「先生、俺学校辞めます」
「あ、俺もそれ考えてました」
西村もあっさりとそんなことを言う。予想外の話だったのでさすがに驚いてしまった。
「どうして・・!?何度も言うが、あれは君たちのせいではなかったんだよ?」
「でも、あのとき先生が来てなかったら、正直退学になってもおかしくないことをしていたと思います。それは否定できません」
佐々木は遠くを見るような目で語る。
「それに、俺たちが秀明にいたら、またいつ東条たちの仲間が仕返しにくるかわかりません。みんなに迷惑はかけられません」
西村もはっきりとした口調で告げる。
「自分の非力さを理解して、その上で何ができるのか挑戦して・・・一歩を踏み出したいんです。先生のおかげです。だから、先生は辞めないでください」
2人の意志は固かった。そして、表情も妙にすっきりとしていた。
門脇自身が教師を辞めようとしていたことを2人は知っていたらしい。
その後、多くの先生が2人の退学をやめさせようと説得にかかったが、彼らは受け入れなかった。最初に退学を認めたのは、他ならぬ門脇だった。退学することで、彼らが新たな一歩を踏み出せるなら門脇は喜んで受け入れるべきだと思ったからだ。
そして3月、彼らはクラスメートに一言も告げることなく退学した。まるで明日も学校に来るような態度で下校したそうだった。
香咲学園高校に編入することになったのは、門脇先生の勧めでもあった。先生と香咲の校長先生が知り合いなのだそうだ。
「ぶっちゃけ柚芽と同じ高校だってのがびっくりだよな」
新しい教室の2年4組に向かいながら佐々木はつぶやく。佐々木と西村はお互いに別々の高校を考えていたのだが、事情を知った校長先生が喜んで迎え入れてくれるという話を聞いて、後ろめたい気持ちにならずに編入できるならと同じ高校の編入試験を受けた。
「良かったじゃん。また柚芽と一緒の学校で」
「でも、柚芽って俺らが転校したって知ったら、絶対心底嫌そうな反応しそうだよなー・・」
「それ言えるな」
新しい教室2年4組の前にたどり着いた。扉が開かれる。西村と佐々木は新たな一歩を踏み出した。