坂東蛍子、あだ名をつける
教室は授業参観の様相を呈していた。教育委員会だとか運営協議会だとか、そういった偉そうな大人達が(そして恐らく本当に偉いのであろう大人達が)視察という名目で授業を覗きにやって来たのである。教育熱心な大人達のその善意は、生徒からしてみれば青春王国の自由侵犯に他ならない。彼らは叶うことなら背後に立ち並ぶ悪夢を振り切り、今すぐタイ焼きになって海に逃げ込みたかったが、悲劇的なことに千代田区に海はなかったし、彼らもタイ焼きにはなれそうになかった。
流律子はそんな大人達の幾人かを引き連れて廊下を歩いていた。授業中にもかかわらず彼女が校内の案内を担っているのは、生徒会書記としての使命感からでも、突然の自主性の発露でも、ましてや授業をボイコットして非行に走っているわけでもない。少女はあくまで選択科目の実習の一環として、大人達の誘導を教育者から割り当てられている。ちなみに彼女の選択した科目は「異文化交流」だ。
「お母さ・・・教育長、次の教室は此方です」
授業参観はあくまでたとえであったが、しかし物事には例外はつきものだということを図らずも示してくれるこの流律子という少女は、教育委員会教育長の娘として相応しい、実に教育的生徒であった。
律子は扉を静かに開け、教室の後ろに大人達を案内した。やってきたのは二年B組である。B組は校内でも変わり種が多いとされる教室だ。例えば未だ金髪を貫いている不良転校生の桐ヶ谷茉莉花などがその筆頭であるが、学校側としてはそういった個性はあまり積極的に公開したいとは考えておらず、現在教育委員会と水面下で命がけの駆け引きが行われている。
無論律子はそんなことは露とも知らず、「どうして余所のクラスってこう違和感があるのかしら」とB組の教室を興味深く眺め回していた。
「それでは坂東さん、用紙の回収よろしくお願いします」
「はい」
教師に何か頼み事をされた坂東蛍子が厳かな返事をし、椅子を引いた。変わり種と言えば彼女だってそうである。坂東蛍子は地域一帯に名を轟かせる神童で、大人からの信頼も篤い。背筋を伸ばしすっくと立ち上がった蛍子は今日も凜として美しかった。それが本来といった面持ちで、実に様になっている。こんな涼やかな白皙の鎧ですれ違われたら、彼女が猫を被っていることを看破出来る者など世に誰一人いないことだろう。まったく恐ろしい友人である、と律子は息を吐いた。流律子は坂東蛍子という人間の本性を人よりもほんのちょっと多く知っていた。故に彼女の本来の奔放さや、その本質を隠すための努力も知っており、如何に彼女が自分を演じようが、その振る舞いを茶化してあげつらったりはしなかった。律子は努力というものに人一倍の敬意を払う少女だった。
生徒達からプリントを回収し終え職員室へ届けるべく教室を出ようとする蛍子が、ドアの前の律子へ接近してくる。乱れなく切符を吐き出す自動改札機のように淡々と作業する蛍子を見て、律子はこの後の展開を予期して少しだけ寂しくなった。きっと蛍子は大人達を前に、他人行儀な微笑みを残して教室を後にするのだろう。彼女は人前では人形のように完璧な笑顔しかつくらない。思いきり歯を見せたり、憎たらしい企み顔をしてほくそ笑んだりはしない。律子は昔、その完璧な笑顔を向けられる度に感動し、嫉妬していたが、どうしてだろう、その顔を今向けられたら悲しい気分になる気がしていた。
「じゃあねリッチー」
坂東蛍子はプリントを抱えて律子の前にやってくると、大人達に一礼し、その後でドアより先に律子と目を合わせ、片手をグーパーしながらウィンクしてふざけてみせた。
律子は目を丸くし、少し遅れて「そのあだ名は却下したでしょ」と言葉を返した。腰に手を当て、怒りの姿勢を見せる。
廊下へ消えていく蛍子を大人はおろか近くの生徒も驚きの目で見送った。彼らからすれば凡そ坂東蛍子らしからぬ振る舞いだったのであろう。蛍子の素には律子でさえ未だに違和感を覚え戸惑うことも多い。たった今起きた出来事を振り返っても、むしろ日に日に戸惑いは増えていると言えるだろう。
近しくなればなるほど、彼女は彼女らしくなくなるのだ。
―先日あだ名をつけられた時もそうだった、と律子は回想する。
『あだ名をつけっこしましょう』
『その提案に論理的根拠を求めることは可能かしら』
『じゃあまず私からね、うーん、りつこ、だから・・・リッチー!』
『いきなり外国人になったけれど・・・一応どこからそうなったか聞いておくわ・・・』
『知らないの?映画監督の・・・気に入らないって顔だから別のにしてあげる』
『とても嬉しい』
『あ、リコピンとかどう!』
『人どころか、栄養素じゃない!』
『えー、トマト美味しいし良いじゃん。赤いし』
『私に赤を生み出す体組織はないわよ!ていうか前から思っていたけど、貴方の命名って何処かおかしいわ!』
『?』
『・・・もういい。最近つけたもので自信のあるものはある?せめてそれを参考にさせて』
『ん、最近だと・・・スペースオペラとか爪グミとか、あとマリリンモンロー!』
『最後の最後でようやく人に戻ったわね・・・そのモンローさんは誰なの?』
『洗濯機!』
『人じゃないじゃない!』
『もう、リコピンったら怒ってばっかり』
『リコピンじゃない!』
流律子は声を荒げた。彼女といる時律子は本当に心の休まる時がなかった。いつだって他人には推奨出来ない表情で時を過ごす羽目になってしまう―。
「なんだか、普段の貴方らしくなかったわね」
母からかけられた柔らかな調子の言葉に、回想混じりの律子が上の空で「そうね」と答えた。
「こんな表情も出来るんじゃない」
まったくだ、と律子が肩を竦める。近しくなればなるほど、彼女は彼女らしくなくなるのだ。
【流律子前回登場回】
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