姉からの遺言
死は本人の意向とは関係なく、何らかの影響を周辺に及ぼす。あるべきものが失われるのだから。故人はそれを案じて遺言を託す。
豊は部活を休み高校から帰宅した。階段を上り姉の部屋の前で立ち止まった。ほんの数日前この世を去った姉、里美の部屋のドアをゆっくり開けた。ここだけは手が付けられておらず、ベッド、部屋の中央には小さなテーブル、小学生の時から使っていた勉強机の上にはノートパソコンが。そして部屋の隅に置いてある鏡台の上で色彩を放つ化粧品類も生前そのままに置かれてあった。遺書だけはすでにこの部屋から持ち出されていた。
部屋に中に入りドアを閉めた。閉め切られていたこの部屋だけは線香のにおいはしない。姉の付けていた香水がほのかに香る気がした。豊は姉を大人の女性と意識し出した頃からこの部屋の中に入ることはあまりなかった。小さい頃は姫に仕える侍従のように、姉の後を追い、姉を慕っていたはずなのに。姉の体の輪郭線が凹凸を増すにつれ、豊は彼女に人格から距離を延ばすようになり、何時しか豊の身長も姉のそれを上回った。思春期を経て五歳年上の姉よりも他の女性に関心を向けるようになっていた。
豊は窓際へ歩み寄って、小窓のカーテンを開ける。そこから裏庭の樫の木が見える。姉はその枝に紐を括り付けて自殺したのだ。その樫の木は伐採されるかも予定となっている。姉は死を賜ったのだから、この世から悪夢とともに痕跡なく消してほしいと母は父に訴えた。しかし豊には、小さな頃の姉の思い出を幹に蓄えた樫の木が倒されることに、二重の悲しみを感じていた。
豊は鏡台の前に立った。地元で就職した際にお祝いとして父に買ってもらったものだった。
鏡に映った自分の顔を見つめる。小さい頃は姉弟よく似ていると豊の親戚や近所の人は口々に言った。成長するにつれ、姉が女らしく豊は男らしくなるにつれ、その声も聞かれなくなった。
「なんで死んでしまったんだよ」
苦渋の声と一緒に、にじみ出そうな涙を必死にこらえた。
重しとして置かれた口紅の下に一枚のメモが置いてあった。それを手に取ると「この鏡台は豊にあげます」とひとこと綴られていた。なぜ僕に?
豊は姉がまだ中学生の記憶を手繰り寄せた。二人で母の化粧品を無断借用したときの記憶。化粧の練習と称して、姉は豊を鏡台の前に横向きで座らせた。
「ゆたちゃんは女の子っぽいとこあるから、きっときれいになるわ」
そう言いながら、母のファンデーションを手に取り、豊の顔に押し付けた。活発的に見える肌色は塗った端からモノトーンを消し去り、滑らかな白色の彫刻のように変化していった。パウダーを載せると、精気が形を変え戻ってくる。アイシャドーを塗り、最後に口紅を塗った。手際の良さというよりは、油絵の写実的な肖像画を完成させていく工程のように、色を慎重にキャンバスへ置いた。
姉は手を止めた。
「できたよ」
姉は豊の両肩に手を置き鏡に向けるように促した。豊は上半身を鏡に向けると、そこには今まで見たことのない自分が写っていた。母は外出する前に化粧をする。化粧をした母はどこか他の人に感じられもしたが、綺麗になった母は嫌いではなかった。今鏡に映っているのは母の姿ではなく自分である。美意識の追及というものではなく、変身願望というべきだものだろうか。豊は異形の美と直面している。
鏡に映った姉は肩越しににこやかに笑う。
「お母さんに内緒で勉強したんだから、上手に出来上がったでしょう」
「僕はなんか変な気分」
「ゆたちゃんが女の子だったらよかったのに、そうしたら、お互いに化粧しあいっこできたのに」
豊はその言葉に多少のインパクトを感じた。自分は妹だったらよかったのか。
母の鏡台と比べ、姉のはコンパクトで場所を取らない。収納もしっかりしている。それでも化粧品類は台の上に並べれいた。若い肌はまだそれほど種類を必要としないのかもしれない。豊は以前、姉に施してもらったように、鏡に向かって自らの顔に化粧品を塗っていく。記憶の姉よりさらに手際はよろしくない。それでも一筆一筆、姉の痕跡を辿るように、化粧をしていく。
鏡に映った像は姉の顔に似通っていく。徹の姉への想いがそう思わせているのだろうか。会社へ出かけていくときの姉、遺影の笑顔の姉、死化粧をした最後に見た姉の顔。どれに似ているかも区別ができず、ただ姉の面影が鏡の中の豊の顔と交差する。
口紅を手に取り肌との境界線までの端まで染めたとき、唇がほほ笑んだ。姉の笑顔が覆いかぶさる。
姉さん。思わず豊は叫ぼうとした。しかし声にはならなかなった。唇は「ゆたちゃん」と動いたような気がした。
その時、学生服のポケットの携帯電話がなり、豊は我に返った。発信者はガールフレンドの裕美からだった。
「もしもし、豊君。野球部の人に聞いたら休んで帰ったって言うし、学校でもなんか元気なかったから、心配してた……」
裕美に返答しようしたが声が出ない。
「お葬式の写真でお姉さんを初めて見た。綺麗な人だったのね。お姉さん亡くなって悲しいのはなんとなくわかる。でもお姉さんも悲しんでばかりいてほしくないと思うの。だから元気になってほしい」
裕美の心遣いが心にしみた。しかし豊は声が出せない。豊の番になると沈黙が続く。一方通行で終わるかと思えたその時、口紅を塗った唇が動いた。
「裕美さん、豊のこと末永くお願いいたします」
その声は姉、里美の声にそっくりだった。
十年後、里美の遺品の鏡台は豊の妻となった裕美が使用している。
豊は妻を連れて、両親と一緒に姉の墓参りに行った。豊はお墓に線香を供えた。
「あれからもう十年経ってしまったのか」
「お姉さんは年も取らず、今も綺麗なままで眠っているのね。……あの時の電話、お姉さんの魂が豊に乗り移って喋らせたんだと私は思う」
「どうして、素直に、はいって答えたんだ? まだ付き合い始めたばかりだったのに」
「私には分かったの。豊と一生添い遂げるって。だから天国のお姉さんにもわかってたんだと思うの」
裕美はハンドバックから口紅を取り出しそっと墓前に供えた。
大人の女性の方に聞きたいのですが、化粧のシーンはどうでしたでしょうか?
順番とか化粧品の出いとか、男なのでネットで調べた程度の知識しかなく少々不安です。ご指導よろしくお願いします。