第37話 bergamasque~ベルガマスク~
この貴族的な空間にそれに相応しい、華麗なる驚きを!
なんて。
椅子に座る直前まで、僕はそんなことを考えていた。
このパーティは、僕の作った未開領域探索組織の開業記念を目的としたものだからだ。
派手で美しく、華麗なそれを、彼ら貴族たちの耳に叩き込み、無理矢理僕らに対する興味と感心を引き起こさせるような。
そんな方法が、曲が、最も適しているのではないか、と、そう思っていたからだ。
けれど、暗転した闇の中を魔物としての知覚でもってゆっくりと、それでいて真っ直ぐにピアノへと向かっていく中、僕は不意に感じた。
暗闇の中で困惑する人々の不安、そして怯えを。
闇を恐れる人間の、根源的な恐怖を。
彼らは怖がっているのだ。
そしてその恐れは、突然訪れた暗黒に対してだけのものではない。
それは僕ら、≪フォーンの音楽堂≫というこの国にとって極めて異質な集団を、このピュイサンス王国が今しも受け入れようとしていると言う状態に対する、潜在的な心配でもあった。
それを、誰もが自覚なく感じている。
笑顔で僕たちに挨拶をし、これからのピュイサンス王国のためにぜひにその力を発揮してくれと言いつつも、僕らと言うどこの馬の骨とも知れぬ、しかも人かどうかも分からない者を受け入れなければならないことに心のどこかで彼らは怯えているのだ。
そう。
彼らの一部は、たぶん、僕らが人でないことを無意識のうちに理解している。
おそらくだが、僕らの発する何らかのオーラを感じているのだろう。
あくまでVRMMORPGに過ぎなかった時代とは異なり、この世界が現実であることの影響であろう。
僕らも、感じたことがある。
魔物の気配というものを。
邪悪運ぶ神の御業によって生み出された聖なる者の敵対者。
その持つ魔力は邪まで暗く、世界を闇に染めていく危険なもの。
だからこそ、魔物は駆逐すべきであり、また神の加護のもと清浄なる空気の中においてはその力を十分に発揮できないのだと言われる。
そんな設定が、IMMには存在していた。
そして、この世界にきてからの僕らは、そんな者の気配を、確かに感じることが出来ることを明らかにしている。
僕ら自身についても、僕らのうちの誰かに少し離れた位置に立ってみてもらい、その一人を意識を集中して見つめてみれば、暗く立ち上る闇の力――おそらくはそれこそが邪悪なる魔力というものなのだろう――を、感じ取ることができたし、確かにこれを見れば誰もが気軽に近づくことを躊躇するだろうと思ったくらいだ。
ただ、不思議なことに、そうであるにもかかわらず、レド侯爵やエスメラルダ王女はそんな僕たちに、それほど大きな警戒を見せることは無かった。
奇妙に思った僕は、僕らの魔力が見えていないのかを二人に聞いてみたことがある。
すると不思議なことがわかった。
彼女たちは確かに邪悪なる魔力を感じとることができるらしい。
それは事実だ。
けれど、それはあくまで貧弱な個体――たとえば、フォーンの音楽堂で言えば、かなり低位の不定形生物たちなどのものに限ってであり、僕や弟子の魔物達からはそのようなものは一切感じない、という事が分かった。
レベル差の問題なのか、それともそれ以外の要素に基づくものなのかは結局わからなかった。
ただ、僕らを邪悪なるものと明確に見ることができないらしいというその事実は、僕らがこの国に馴染むのにプラスの効果として働くことだろうと思った。
けれど、実際にはどうだ。
暗闇の中で、貴族たちは僕らの気配に怯えているのだ。
見えてはいないのだろう。
理解出来てもいないのだろう。
ただ、それでも感じるものがあるのだろう。
視覚という、人間にとってもっとも重要な感覚器官による情報入手を遮断された人間には、思いのほか強力な気配察知能力が備わるものらしい、ということを僕はそのときはじめて知った。
だから、僕は予定を変えることにした。
ここで強力な目覚めを彼らに与えることは、あまりいいことではないと思ったからだ。
感覚を強く刺激し、僕らの危険性を正確に理解させる可能性を萌芽させることは、僕らのこの世界での立ち位置の確保にとっていいことではないと思ったからだ。
むしろ反対に、その感情、不安の沈静化を図るべきだ。
しかし、だからと言って、僕らの正体を隠すという事もしないつもりだった。
正体を見せ、それでいて僕らを受け入れてもらう。
そうしなければ、今後この不安は僕らに対する敵意へと変化し、牙を剥いて襲い掛かってくるかもしれない。
そんな事態は、是が非でも避けなければならないかった。
戦力的に問題が無くても、僕らがやりたいのは殺戮ではなく、この世界のことを知ること、僕らの存在の意味を知ることなのだから。
そして、そのために必要なのはやはり、この会場に伝播していく不安と言う感情の鎮静化だ。
不安を鎮める、そのための曲とはなんだろうか。
僕は考える。
おそらくそれは、穏やかなものだろう。
甘く、優しく、しかし微睡過ぎない。
そんな曲。
浮かんでくる。
穏やかな気持ちを運ぶ、甘く穏やかな曲調。
人を自らの内面的世界へと没入させ、集団的パニックからもっとも遠い位置へと進ませる、そのための曲。
それを、僕は考える。
そうだ、その曲の名は――
クロード・ドビュッシー作曲、ベルガマスク組曲第3曲『月の光』
◆◇◆◇◆
暗闇の中、困惑しているパーティ出席者たちを後目に、何の緊張も感じてはいないかのように、その少年は楽器の前に置かれた黒色の椅子の前に姿を現した。
会場の人々は、真っ暗な中、まるでそこだけが世界にただ一つある光に照らされた場所であるかのように浮かびあっているその場所に現れた少年に、一瞬にして目を奪われる。
不思議な、少年だった。
美しい少年だった。
僕らエルフは硬質で、作られたもののような美貌をもっていると言われるが、その少年はエルフとは異なる不思議な美貌を持っていた。
例えるなら、それは闇だ。
全てを飲み込み、あらゆるものに浸食し、光すらも支配しながら、それでも憧れる人間を魅了して離さない。
そんな、破滅的な美しさを、その少年は持っていた。
微笑みに、心が動かされた。
目線に、胸が騒いだ。
あぁ、遊ばれていると感じる。
けれど、それでもいいとすら思えてしまう、強烈なカリスマ性を彼は放っていた。
僕はエルフだ。
エルフが美貌に操られるなど、そんなことあっていいはずがない。
なのに……。
甘美なる何かに、僕は飲まれようとしていた。
けれど、そんな甘い気持ちも、次の瞬間、彼が正体を現したそのときに一時断たれた。
それは僕だけのことではなかっただろう。
その場にいた、みんなが、同じ気持ちを共有していた筈だ。
観衆たちは誰もが、何がこの場で起こっているのかと。
どうしてあのようなものがこんな場所にいるのかと、大声で叫びたくてたまらなかったに違いない。
けれど、ある意味で、それは全く予想のうちの出来事でしかなかったというのも、事実だった。
僕らは、会場にいるみんなは全員が感じていた。
暗闇に包まれて自らの心を見つめ、そしてその中に怯えを見つけたその瞬間から。
暗黒と言う遥か古代よりヒトに恐怖を与えてきた時間の象徴たる属性に不意に落とされてしまったそのときから。
僕らは感じていた。
闇の中を、その暗闇に支配されるのではなく、むしろその闇から力を得て僕ら獲物となる生物を観察する捕食者たちの朱く光るその瞳、そして視線を。
今すぐにでもこの場にいる全員を殺戮してあまりあるその強大な力を。
それなのに、僕らは自分がそんな恐れを抱いていることを認めることが出来ずに、心の奥底にすべての怯えを押し込んでなかったことにしようとしたのだ。
しかし、神は、運命はそんな脆弱なヒトの選択を決して許そうとはしなかった。
眼前に事実を詳らかにし、そして決断をゆっくりと迫ったのだ。
楽器の前に立つ少年。
彼の姿は柔らかに天井から降り注ぐ魔力光に照らされていた。
その姿には誰もが神々しさを感じたのだが、徐々にそれは妖しいものへと姿を変えていったのだ。
彼の、少年の身長が徐に伸びていく。
彼の肌が病的なまでに蒼白へと変わっていく。
彼の唇は鮮血のように赤を深くしていき。
そして、その口元には長く、鋭い、生物の血を啜ることに特化した牙を生やしていく。
「きゅ、吸血鬼……!?」
誰かが、怯えながら叫んだ。
けれど、そのあとに続いたものはいなかった。
続くことができなかった、といった方が正しいかったかもしれない。
彼は、少年は、吸血鬼は、その存在を丸ごと糾弾されるその前に、楽器の前に置かれた椅子に深く腰掛け、そして何の躊躇もなくその楽器に触れたのだ。
その楽器の音色を、僕らはすでに知っていた。
先ほど、イヴェール公爵家の公爵が、十分な技術と音楽的才能をそれによって披露したからだ。
けれど、そんなものは、その瞬間に忘れたと言っていい。
吸血鬼の少年が静かに、慎重に鳴らした初めの和音に、パーティの出席者は全員が、息を止められたのだ。
たった一つの和音で、これほどのものを表現できる存在がいるとは考えもしなかった。
静かに始まったその曲が、一体いかなるものが作りいかなる歴史を持つものなのかは知らない。
けれど、その精神性、情感豊かな音色。
この曲を途中で止めるなどと言う暴挙を一体誰が出来たと言うのだろうか。
ゆっくりと、しかし確かに進んでいくその曲は、何を表現しようとしているのか。
ふと、僕は上を見上げた。
何を思ってなのかは分からない。
ただ、胸に感じられるこの切なさ、美しいものに対する敬意は、その曲を演奏する彼を直視することを許さなかった。
会場の一部、その壁面の高いところに造られた窓の向こう側に、穏やかに輝く月の姿が目に入った。
そして思った。
あれ、だろうかと。
この曲はあの月の柔らかな光を表しているのではないかと。
そう思った時点で、僕はすでに飲み込まれていたのだ。
一部だけまだ残っていた冷静な思考。
ただ、音だけを聞き、彼を判断したい。
僕らエルフにとって、それが確実な、人格判断の方法なのだから。
その意思は、普段なら何よりも強く存在しているはずだ。
こと、音楽が奏でられている空間の中では。
けれど、そんな感覚はすぐに音の波の中へと消えていく。
判断の必要を感じなかったわけではない。
そうじではなく、この音は、音色は、僕の能力をはるか超えたところにある、神の音だったというだけの話だ。
僕に、いったいどのような批評が出来るというのだろう。
そう思った瞬間、そして揺蕩った僕の耳は音だけを聞き、それ以外の何物の介入も許すことはなくなった。
続くメロディーの優しさに、彼の魂の持つ清らかさを知る。
このような音を奏でられる者に、一体いかなる邪悪が宿るのだろう。
柔らかで静かでいながら、それでいてはっきりと耳にまで届く鋭角な音は、明らかに奇跡の部類に属するそれだった。
そうして、曲は徐々に盛り上がりを迎えて走っていく。
豊かな音のアルペジオの中に宿る果てしのない華やかさ。
麗しく甘く、心の底をそっと撫でていくような音の洪水。
それが最高潮を迎えた、そう思った瞬間にゆっくりと、けれど自然と引いていった。
自然、あまりにも自然な曲だった。
どこにも不自然な点はなく、どこまでも清浄だった。
突然、僕は怖くなった。
自分がどこにいるのか分からなくなったからだ。
ここは一体どこだ。
遠くから聞こえてくる音だけが、僕を僕たらしめているような気がした。
楽器を奏でる演奏者である彼と、そして僕だけしかこの世界に存在しないような気がした。
気づいた時には、その音は、勢いを徐々に失い、そしてどこかに存在するのだろう終着点へと向かっていた。
それを理解した僕の心の引き裂かれようと来たら!
なぜこれが、この時間が終わるのかと世界を罵りたい気持ちになった。
あまりにも深い感動は、麻薬に似ている。
そこから抜け出させようとするすべてに、時間に、強制に、牢獄に、全てに怒りを持たせるのだ。
僕はそのとき、まさにそのような気分だった。
けれど、そんな僕の怒りは柔らかで切ない楽器の歌声に徐々に沈められていく。
この音の前に、いかなる怒りも苦しみも、そして疑いすら。
春の雪が暖かな植物萌える土に静かに触れたその瞬間のように、そっと溶かされていくのだ。
曲のすべてが、ゆっくりとしたアルペジオの上昇と共に、そして徐々に高音程へと消えていくメロディーの中に終わったその時。
会場に広がった共感は、言葉に表現することは難しい。
けれど、ただ一つ言えることは。
僕は永遠の感動をこの場にいる全員に与えてくれたその奇跡の演奏者に向かって、エルフにあるまじき大声で叫んでいた。
「君がなんであろうと、僕らは受け入れる! ≪フォーンの音楽堂≫主催、エドワード殿!! ブラーヴォ!!!」
それが合図だったかのように、辺りから同様の歓声が、感謝が、感激の声が、いくつも彼に向かって叫ばれた。
最高の時間をくれた君に、最高の、そして最大の拍手を。
それ以外に、彼に贈るものなど、この場にいる誰一人として、持ち合わせていないのだから。




