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第36話 con dorole~嘆き悲しんで~

 息も止まるような感動と言うものがある。

 なぜ、こんなものが、これほどのものがこの世界に存在するのだろうと。

 つい、そう思わせてしまうものが、この果てしなく汚れきった世界にはいくつかある。

 そして、そういうものを見る度、聞く度、触れる度に、思うのだ。


 あぁ、この世はなんて美しいのだろうか、と。


 悪魔に魂を捧げてまで美しいものを欲しがってしまう気持ちも分かろうと言うものだ。

 賞賛は、送らなければならない。

 それを正しく受け取るべき者が眼前に存在するなら、いかなる憎しみや確執を感じていたとしても、魂の奥底から褒め称えなければならない。

 それが、一瞬でもこの世界を愛する時間をくれた相手に対する、最低限の礼儀というものだから。


 美しいもの。


 それは、遥か地平線の彼方に沈む夕日であったり、葉脈彩る樹木の葉の上に煌めく朝露であったりする。


 自然は、どこまでも美しい。

 その造形に計算はなく、それなのに、人の心に直接訴えかける何かを持っている。


 けれど、美しさは自然だけのものではない。

 人は、それを作り上げ、編み上げてきた。


 今僕の耳に届くもの。


 それこそが、人が作り出した自然美を超える人工美。

 ただの音でこの世の全てを表現しようとする壮大な試み。

 その、結晶。


 そう、その名は、音楽。


◇◆◇◆◇


 観衆は、アルボの演奏に惜しみない拍手を送っていた。

 それも当然と言うものだ。

 彼の演奏は、確かに人の心を動かすものを持っていた。

 はじめから、彼の奏でる音を聞いていれば、あるいは彼を性根のあまりよくない性質の典型的な貴族だなどと言う勘違いはしないですんだのかもしれないと感じるほどに。


 彼が奏でたのは、フレデリック・ショパン作曲、『子犬のワルツ』である。

 その可愛らしく尻尾を追いかける子犬の姿を想像させる曲を、正しくホールに響かせた彼に、僕もまた周囲の慣習と同じく、拍手を贈った。

 そんな僕の姿を見つけて、アルボは少し目を見開くと、少し恥ずかしそうな、年相応の顔で笑った。

 そうすると、まるで純粋な少年そのものだから少し驚く。

 やはり、彼は悪い男ではないのだ。


 それから、観衆の注目を集めるアルボは、言った。


「みなさん、惜しみない拍手に感謝を! それからこれほどの拍手を向けらておきながらも、僕は、ただの前座に過ぎないことを理解してもらわねばなりません。この楽器は、此度のその演奏のために作られたもの。次の演奏者は、このパーティの主役たる、エドワード殿です!」


 そうして、彼が手を掲げるとホールを照らしていた光が落ち、それから僕に対して一筋の光が柔らかに落とされた。


 演出、なのだろう。

 少し驚いたが、僕の眼は魔物の瞳だ。

 それも、特に夜に特化した吸血鬼の。

 たとえどれだけ暗かろうと見えなくなる、などと言うことはない。

 ホール中の人々が、僕に注目していることが分かった。

 その目線は好奇であったり、期待であるいは、侮蔑であったりした。

 その中でも真っ直ぐに視線を僕に向けてくるのは、この場にいる僕の従魔たちの視線だ。

 彼らの瞳の中には、僕に対する疑いなどまるで存在しないようだった。

 僕が確かにここにある、あの馴染み深い楽器で、観衆の心を捉える演奏を披露してくれると雄弁に語ってやまない。

 その信頼は、もしかしたらな愛によっては重荷になるような性質のものかもしれない。

 重すぎる信頼は、時に人の心を壊すから。

 けれど、今の僕にとって、それは頼もしい味方のように感じられた。

 信じてくれる者がいるというのは、非常にうれしいものだからだ。

 誰も僕の知っている者のいないこの世界で、必ず僕の味方をしてくれる人たちがいるというのは。

 そして、特に、このような場においては。

 パーティが終わった時、僕の味方になってくれる者もいれば、敵になる者もいることだろう。

 ただ、その前に、確かに信じられる者がいるというのは心強かった。


 この世界に来て、誰もそういう者がいなかったら、僕は狂っていたかもしれない。

 そう思うのだ。

 彼らがいることは僕の精神を確かに正常なものへと維持してくれている。


 そんな彼らの期待に応えることは、僕のなすべき第一の義務だ。

 弾く曲は、正直、少し悩んだが、パーティの目的を考えればゆったりとした微睡を運んでくる曲を、深い音楽的解釈で聞かせる、というような地味なものより、目を覚まさせ、驚きと賞賛を一挙にこの会場に想起させれるような、派手な曲の方がいいはずだ。


 アルボの掌がまるで執事のようにあの楽器の下へと誘うように向けられ、僕をピアノのもとへと進むようにと伝えている。


 ――さぁ、行こう。


 そう思った僕は、観衆の痛いくらいの視線が刺し貫く人集りの道を、ゆっくりとピアノのもとへと、歩き始めたのだった。


 ◆◇◆◇◆


 "美しさ"とは、僕たちのものであると思っていた。

 それは、容姿と音楽的素質におけるすべてについてである。

 神が与えた美しさは、僕らだけのものであると、傲岸不遜にも、そう思っていたのだ。

 その考えは決して僕一人のものではなく、僕の種族全体の総意であり、また僕の種族を見る他種族の客観的な評価でもあった。


 僕ら――エルフは、深く清浄な森を好み、そこで自然と音楽を愛しながら日々を過ごす、最も長命な種族だ。

 容姿は誰もが目を見張るばかりの美男美女揃いであり、また種族全員が何かしらの楽器を奏でることを生活の一部にしている。

 音楽は、精霊が愛するものであり、演奏巧者であればあるほど、そのエルフは精霊の加護を受けているものと理解されているからだ。


 かくいう僕も、生まれたその時から楽器を両親に持たされた。

 もちろん、赤ん坊のころから楽器を奏でられるはずがなく、ただ持たされているだけに過ぎなかったが、少なくとも物心ついたころには、その楽器の練習が日常の一部になっていたのは覚えている。

 音楽は愛おしく、美しい。

 楽器を使い、どこまで続いていく空の蒼さを、森の深さを、そして愛の強さを歌ったものだ。

 周りのエルフたちもそうしていたし、数人が集まれば即興のメロディーを奏であってはお互いの演奏を褒め称え、また刺激を受けて過ごした。

 皆が、必死なのは、演奏が上手くなりたいのも勿論だが、エルフで最も重要な行事、精霊祭において、精霊に音楽を捧げる役目に選ばれることを夢見ているからだ。

 それはエルフ最大の名誉であり、永遠の栄光である。

 エルフの中で最も高名で、最も優れた演奏者はメンシスと呼ばれる者であり、エルフは誰もが彼を追い、そして彼を超えることを目指す。

 長命なエルフである。

 メンシスは未だに存命であり、その演奏を種族に披露しているが、流石に老いたのか、他種族のもとへ出向くことはほとんどなくなった。

 その衰えは演奏にも表れていて、かつてほどの腕前を披露できなくなってきているとも言われている。

 メンシスが精霊祭に出なくなってから久しく、次の精霊祭でも、演奏を披露することはないものと思われた。

 そのため、精霊祭における演奏を披露する者――精霊奏者と呼ばれる――に選ばれる可能性は、若いエルフにとっても無視できないほど高くなっており、だからこそエルフたちは近年、非常に熱心に演奏を練習しているのだった。


 だから、今のエルフの里ではいつも、音楽が流れていて、そのどれもが聞きほれてつい足を止めてしまいそうなほど美しい。

 エルフは耳が良く、その演奏にどのような感情が込められているのか、どうしてそのような解釈になるのかを正確に理解できた。

 この世に遍くもの全てを音楽にて表現しようとする種族。

 それがエルフだった。


 だから、とてもではないが、考えもしなかった。


 こと、演奏において、そのエルフを易々と超えていくものが存在しようなどとは。


 超える、などと表現するのも烏滸がましいほどの、とてつもない名演を披露するものが、まさかエルフの里の外にいようなどとは。


 しかし僕はたしかに聞いた。


 魂を震わせるほどの演奏を。


 一度聞けば二度と離れられなくなるほど、心をつかんでやまない、悪魔のような演奏を。




 そう。


 その少年は、先ほどまでそれなりに上手な演奏を見たことも無い楽器で披露していた少年に誘われ、観衆の中を通り、堂々とその楽器のもとへと現れたのだった。

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