第32話 eveille~目の覚めた~
エスメラルダ王女の話によれば、エスタトゥアは正教会の首座だ、という話だった。
つまりは一つの宗教団体のトップだということだ。
この国、ピュイサンスは特に国教がこれ、と定まっているわけではないらしいが、正教会の信者は比較的多い方であるらしい。
つまりは、力のある宗教団体ということになるのだろう。
けれど、なぜ、エスタトゥア、ひいては彼が"主上"、と呼ぶ人物が僕に興味を抱くのかはわからない。
しいて言うなら、僕が異世界から来たと公言しているところに理由があるのかもしれないという気はするが、特にそれ自体がどこかの宗教の教義に真っ向から反する、ということはないとエスメラルダ王女やレド侯爵から保証されている。
細かい教義からすると、さすがに専門家でないと判断が難しいらしいが、それほど気にする必要はないだろうとも。
しかし、あのエスタトゥアの態度からすると、何か問題があったのかもしれない、という気もしてくる。
表情は別に厳しいものではなかったし、むしろ友好的な感情すら感じられたから、何か宗教的にまずい行為をしてしまった、ということはないと思うのだが……。
「究極的にはこじつけで色々と文句を言う、ということが宗教団体の方には割とありますので、あまり気にされても仕方がありませんわ。大まかなところで喧嘩を売ってなければ、だいたい見逃されるものです。もし何かありましたら……陛下が、というわけにはまいりませんが、わたくしとレド侯爵で何とかしてみますし、今のところは、深刻に心配されることはございませんわ」
考えたところをエスメラルダ王女に言えば、こう返ってきた。
つまりは、推論に推論を重ねても仕方がないという話なのだろう。
まさにその通りだなと、彼女の言葉を聞いて頭が冷えたので、その場でのことは胸の片隅にとどめておくくらいにしようと思った。
ただ、“主上が会いたいと言っていた”という話だったのだから、そのうち間違いなく、正教会を訪ねなければならないだろう。
そのときにいったい何が出てくるかは考えてみると少し怖い気もするが、楽しみにしておくのが精神衛生にもいいだろうと、気楽に構えることにした。
◇◆◇◆◇
パーティに集まった大体の人々との顔合わせを終えて、僕は精神的疲労を癒すためにバルコニーに出た。
パーティの主賓が会場にいないのは少し問題があるかもしれないが、僕らが行う事業について詳しく説明できる人間は僕以外にも当然いる。
ノクターンたち魔物や、ウィアたちだ。
ウィアたちに関しては元は孤児であるから、それなりの格を相手に要求する貴族には下に見られたり、あるいは酷ければ侮蔑されかねないが、彼ら一人一人に魔物たちを一体ずつ付けている。
これから彼らには貴族たちをはじめとする権力ある人間ともそれなりに相対してもらわなければならない。
そのための慣れ、というものを身に着けてもらうための訓練として切り抜けてほしいと考えている。
今回の事業は国王からの覚えもいいし、貴族にとってもメリットはあってもデメリットは少ないから、あまり極端なことをされるということは考えにくい。
それに、もし本当にどうしようもなくなったときはノクターン達がフォローしてくれるから、あまり心配せずともいいと告げてある。
なので僕も先ほどまでのせわしない時間から離れて、ぼんやりと空に浮かぶ星々を眺め、息の詰まるやりとりを忘れようとしていた。
空には多くの天体が煌めいており、その瞬きは地球で見たものと変わらず美しい。
誰が言ったかは知らないが、どんな場所にいても同じ月を眺めている、という言葉が思い出される。
月の下には、人間の営みがある。
誰かが月を眺めているとき、同じ月を眺めている誰かがいる。
月が誰かを照らしているとき、また他の誰かをその月は照らしている。
月は一つしかなくて、だから、誰かを照らす月、誰かが見ている月は同じものだ。
月を眺めていれば、それだけで自分が誰かとつながっているのだと、地球の自分の家の自室で月を見ているときは、そう信じることができた。
けれど、今、僕が眺めている月は、どうだろう。
あの月は、確かに僕以外の誰かを照らしていて、また僕以外の誰かもまた眺めていることだろう。
けれどそれは、この世界にいる人間だけに限った話だ。
あの月は、地球を照らしてはいない。
地球からあの月を眺めることも、また、できない。
僕はここで、この世界であの月を眺めるたびに思うのだ。
あぁ、僕は、地球の誰ともつながっていないのだな、と。
酷く虚しい考えが、僕の胸に去来する。
考えても仕方ない。
わかっている。
この世界で生きるほかない今は。
そう思って諦めても、ふと空を見上げると、生まれ故郷であるあの青い星にある極東の島国を思い出さずにはいれなかった。
「……そんなところで主賓が何を佇んでいる」
物思いにふける僕に、不機嫌そうな声が、後ろからかけられた。
驚いて振り向くと、そこには見覚えのある顔が立っていた。
「イヴェール公爵?」
「……なんだ。来て悪いか?」
「いえ……」
まさかこんなところで僕に声をかけるなどしそうもないと考えていたから驚いた、とは言いにくい。
彼の両手にはワインが握られており、その一つを僕に対して差し出してきた。
「これは……?」
「持ってきてやった」
そう言って黙り、僕の隣にやってくる。
その一部始終を見つめていて、酷く不思議な気分になったのは仕方ないことだ。
なぜ……一体何の目的で君はこんなことをするのかと。
そう思ったからだ。
しかしまさか本人に「君は僕のことを嫌っていたのになぜ、こんなところに来てワインをはサーブするなんて気の利くことをしているのか?」なんて聞くわけにもいかない。
まさかワインの中に毒でも入っているのか……?
と思わないでもなかったが、まじめに考えて、今こんなところで僕を毒殺したとしても何の意味もない。
当然、彼の渡したワインで僕が死んだらまず間違いなく彼が疑われるからだ。
そこまで愚かなこといくらなんでもするはずがなく、しかし、そうすると彼がここに来た理由が全く見えない。
つまり、僕はちょっとした混乱の中に叩き込まれたわけだが、だからと言って何もしないわけにもいかない。
返事も必要だろう。
とはいえ、とりあえず場を持たせるため、ワインを受け取って口をつけた。
味について語るのがいい枕詞になるかもしれないとも思ったからだ。
ただ、毒殺を警戒する必要はないと言っても、万が一と言うものもある。
しかし、仮に、万が一、ちょっとやそっとの毒で僕が死ぬことはない。
いざと言う時は解毒だってできるだろう。
ある意味で、一世一代の決心であった。
そして、その決心はいい意味で無意味なものであったことがすぐにわかる。
「美味しい……」
実際、いい味のワインだった。
しっかりとした味の赤で、飲みやすい。
「だろう? うちの領で作っているもののなかでも特に出来のいいものを持ってきた」
「そうなんですか……」
イヴェール公爵の領地はどうやらワインの名産地らしい。
いずれ訪ねてみるのもいいかもしれないと思ったが、そんな中になれるのかどうかと否定の言葉も頭に浮かんでくる。
ただ、ワインを自慢する表情になったイヴェール公爵の顔には、意地悪気な感情は特に浮かんでいない。
むしろ、これだけのものを作れる自領を誇るような、そんな表情をしていた。
僕にとってはあまりいい性格をしていなくとも、彼の領民にとってはいい領主なのかもしれない、とここで初めて思った。
「とは言っても、数はそれほど確保できないものだ。夫婦でやっている小さな工房で作っているものでな。年間で10本程度しか出回らない」
地球でも家族経営の小さな農場で作っている、というものはあるが、それに輪をかけて小規模である。
ほぼ趣味に近い製造量だ。
だが、領主であるイヴェール公爵が薦めるほどなのだ。
そのような製造量でも、というかその程度の製造量だからこそ、品質が高い、ということなのかもしれない。
しかしそれだけ製造量が少ないと、こんな一国を挙げたような規模のパーティに出すには似つかわしくない気がして、僕は尋ねる。
「そんな貴重なものが、なぜここに?」
10本ではパーティ出席者全員に回ることはないだろう。
だからこそ、イヴェール公爵自ら僕に持ってきたのかもしれない……。
イヴェール公爵は僕に答える。
「このパーティをするにあたって何本かレイスに確保させたんだ。市場には十本しか出回らないと言っても、本当に十本しか作っていないわけでもないしな。生産者に無理を言って二十本ほどもらってきた……あぁ、しっかりと対価はやったぞ」
てっきり無理やり徴収したか、と思ったのだが、イヴェール公爵はそんな僕の想像を即座に否定した。
この分では対価もまともな金額か、むしろ色をつけて払っているのだろう。
それくらいの財力は余裕であるはずだ。
「しかしなぜそこまで……」
僕の続けた質問に、イヴェール公爵は、
「なに……権力に興味のない貴族も、これが出る、と聞くと出てくる気になるかと思ってな。権勢欲に塗れた貴族よりも、そう言った貴族の方がお前の力にもなるだろう……」
それはあまりにも予想外な台詞だった。
これだけ聞くに、イヴェール公爵は本当に僕の事業に協力しているとしか考えられない。
これが罠だ、と考えるには気を遣いすぎている。
イヴェール公爵はパーティの席上で僕に恥をかかせようとしていることは間違いないはずなのに。
考えれば考えるほどによくわからなくなってきた。
そんな僕に対し、アルボは話題を変える。
「そう言えば、孤児院についてだが……」
孤児院。
それは僕が権限を奪い取って好き勝手にしている部分だ。
もともとイヴェール家は何もしていないも同然だったので、僕には文句を言われる筋合いなどないと考えている。
だから何を言われても、気にする必要はないと思ったのだが……。
「彼らに仕事を与えてくれたこと、感謝している」
「……は?」
イヴェール公爵はバルコニーから遠くを見つめながらそう言った。
その様子は非常にすっきりしていて、何か企みがあるようには見えない。
「僕が家督を継いで間もないことは、聞いているか?」
エスメラルダ王女やレド侯爵にもある程度聞いた話だ。
僕は頷く。
「……ええ」
「そう……そういうこともあってな、あまり枝葉に目がいかないのだ。出来ることも、今の僕には限りがある。特に孤児院には中々目がいかなくてな。経済的援助はしていたのだが……」
「ちょっと待ってください。孤児院にはイヴェール家の援助は殆ど届いていないという事でしたよ。それにイヴェール家からの使者が孤児を連れ去ろうとしていたではないですか」
正直、言った後にこれは言うべきではなかったかもしれない、と思った。
ただ単に表面を撫でるような会話をして、そこで話を終わりにすべきだったと。
少なくとも、イヴェール公爵、という人物について、僕はあまり関わるべきではないと評価していたのだから。
しかし、ことここに至って、その評価が自分の中で変わりつつあった。
僕は勘違いをしていたのではないか?
急に、そのことが確かめたくなったのだ。
本当は、彼はどういう人物なのか。
何を考えて、何のために行動しているのか。そういうことを。
そしてその考えは、決して間違いではなかった、すぐに知れることになった。




