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第19話 fantastico~幻想的な~

 ざわざわと広っていく不安の声。

 近衛騎士をしてそこまで怯えるほどの存在。

 それが、不死者の王(ヴァンパイア・ロード)と呼ばれる魔物だった。


 エスメラルダとて、とても平静ではいられなかった。


 レド侯爵たちに聞いた、エドワードが操ったという人の生命まで操ってしまう恐るべき魔法。

 乙女が館に来るときに見せた、森の木々を一瞬で消滅させてしまうほどの膂力。

 そして、この館。

 王城よりも巨大で魅力的な、どう建築したのかも理解することが出来ない奇妙な構造物。

 何よりも、魔物としか呼べない、決して人とはいうことのできない、異形の執事たち。


 それらを見てすら、決して冷静さを失わなかったエスメラルダをして、である。


 それはかの不死者の王(ヴァンパイア・ロード)が魔に属する存在であるからではない。


 不死者の王(ヴァンパイア・ロード)は、その種族名とは別に、こう呼ばれて恐れられているのである。


 曰く、


 ――魔王と。


 


 そのことを考えてみれば、こんな風に呑気に音楽など聞いている場合ではない。

 だから近衛騎士たちを含め、エスメラルダ一行は事情をどうしても聴かなければならぬと立ち上がろうとした。


 しかし、そんな彼らの、エドワードの容姿への驚きと、起立へと移行する意識の間隙に、目を覚まさせるような高音が響き渡った。


 (……!?)


 立ち上がる、はずだった。

 エドワードに、それが出来なければカノンやノクターンに詰め寄り、事情をどうあっても、聞かなければならぬと、そう決意していたはずだった。

 にもかかわらず、一行は、その開始音のたった一音で、その意識のすべてをステージの上にいる演奏者(・・・)に惹きつけられた。


 不死者の王(ヴァンパイア・ロード)でもなく、エドワードでもない、いま、この広大な空間に広がっていく、美しく響き渡るノーブルな音色を奏でるただ一人の奏者へと。


 聞かなければならないこと、種族、魔王、そんなことのすべてが、どうでもよくなってくる。

 そういう音色だ。


 奏でられる音はあの小さな楽器から鳴り響いていることが不思議になるほど巨大な音量で広がり、ホール全体をきらきらとした音の粒で満たしていく。

 どんなところでも聞いたことのない、伸びやかで華麗で華やかで、それでいながら強さを感じる、クリスタルな音色。


 (なんて……なんて美しいの……!)



 そう思った瞬間のことだ。

 エスメラルダ王女は、ぽたり、と自分の手に水がこぼれ落ちたのを感じた。

 不思議に思って、もしや雨漏りでもしたのかと天上を見る。

 けれど、そこにあったのは何らかの神話らしき物語を精緻な筆致で描いた巨大かつ壮大なフレスコ画のみで、雨漏りなどどこにも見ることは出来なかった。

 もちろん、そんな瞬間でさえ、バイオリンの音色から決して集中を離したりはしない。

 絶対にあの音を聞き逃したくない。

 そう思っていたからだ。


 フレスコ画に描かれている光景、それは、数十人の異形の存在が、巨大で輝かしい後光を背負った存在に向かい挑みかかっている様子であった。

 どこにも水気による染みなど見て取ることは出来ず、ただ圧倒される芸術のみがそこにはあった。

 そして、当然のことながら、そこにもあの音色が満ちている。

 どこにも水など……。


 不思議に思ってほほに手をついたとき、エスメラルダ王女は水が、自分の頬に流れていることに気付いた。


(……(わたくし)、泣いているのね……)


 そう、それは涙だった。

 別に、悲しかったわけではない。

 さびしかったわけでも。


 ただ、たまらなく、狂おしいほどに魂が震えている、ただそれだけの話だ。


 横を見ると、あの堅物のレド侯爵や、いつも決して心のうちの動揺など見せないように訓練されているはずの近衛騎士たちですら、堪え切れずに零れるものがある。


 ただの音なのに。


 それなのに、今まで出会った何よりも、心が突かれる。


 我慢することなど、決してできない。


 これが……これが音楽なのだと、エスメラルダ王女は思ったのだった。


 そうして王女は、自分が今、生まれて初めて音楽を聴いて感動していることに気付いた。


 王族である。

 音楽など、様々なところで聞いている。

 それが教養だからだ。


 多くの楽師に会い、そして彼らの技量のすべてを尽くした曲を聴き、その果てしない研鑽の日々を思って、拍手を送ってきた。


 そこには確かに感動があり、音楽とは良いものだと思ったことも数えきれない。


 けれどそれでも、今自分が感じているような、こんな経験はただの一度もなかったと断言できる。


 こんなに、こんなに心が震えることは。


 もしこの場で絶命したとしても、自分は全く後悔をしないことだろう。


 むしろ、この瞬間に時を止められる幸運を神に感謝するかもしれない。


 あぁ……どうか、いつまでも、いつまでも続いてくれないか……。


 エスメラルダは、今、幸福の坩堝に飲まれて揺蕩(たゆた)っていた。






 そうして、そんなエドワードの奏でる曲もついに終わりを迎えようとしている。


 どうしても、終わってほしくない。


 このままなぜ続けてくれないのかと、文句のようなものまで出てきてしまう。


 これほどまでに我慢が出来ない自分が、信じられなかった。


 (あぁ……終わってしまう……!)



 そうして、エドワードのバイオリンは高音から階段を下りるように軽やかに音色を紡ぐと、ひと時の安心を差し出して、そのまま終焉の音を鳴らしたのだった。


 エスメラルダ一行は、曲が終わると同時に、全員で、割れんばかりの喝采を送る。


 魔物?


 不審人物?


 そんなことは、どうでもいい。


 この音楽さえあるなら。


 こんなものが奏でられる人が我が国にいてくれるなら、ただそれだけで、いい。


 彼らは自分たちの任務を忘れて、そこまで考えてしまっていたのだった。


 ◆◇◆◇◆


 演奏が終わり、エスメラルダ一行が虚脱状態でその幸せな余韻に浸っていると、ふと後ろから声がかけられた。

 それは深みのあるテノールで聞いたことがあるものだ。


「幸せそうにされているところ、非常に申し訳ないのですが、あるじが今後の相談をするために会食でもどうでしょうか、とのことです。いかがなされますか?」


 振り向くとそこにいたのはノクターンで、一瞬驚く。

 醜く恐ろしげなその容貌。

 何度見ても物凄い違和感が感じられる。

 が、それと同時にすでになんだか見慣れた気もしていた。

 エスメラルダ王女は伸びていた背筋や足をぴんとして、返事を返す。


「お願いいたします。近衛騎士たちも一緒に?」


「それでもかまいませんが……できれば王女殿下、レド侯爵、そしてフィシスト殿だけにしていただけると。もちろん近衛騎士の方々には別に食事と寝床を用意させていただきます」


「それはなぜです?」


「内々にお話したいことがある、とのことでした。我々にはこの世界の常識がありません。どのような内容のお話が機密性の高いものか分かりかねるのです。ですから、まずはお三方とお話しして、問題ないようなら……ということのようです」


「……そうですか。そういった事情でしたら、それで結構です。よろしくお願いいたしますわ」


「承知いたしました。ではまず、近衛騎士の方は、あちらの女性が案内を致しますので、着いて行っていただけますか」


 ノクターンが示した方向を見ると、そこには浅黒い肌をした南国系の女性がいた。

 相当の美人で胸も腰も恐ろしく優美な曲線を描いている。

 服装はかなり控えめだが、それにも関わらず匂い立つような色気がある。

 彼女は視線をこちらに送ると、美しい声で囀るように言った。強力な引力のある声だった


「では、近衛騎士のみなさん、こちらですわ。いいかしら?」


 近衛騎士の面々は一斉に王女を見る。

 ついていってもいいのか、という確認だ。

 王女が首を縦に振ると、彼らは美女に連れられ、ホールからぞろぞろと出ていく。

 どこかみな、恍惚とした表情をしているように見えるのは気のせいだろうか。

 まるで自分の息子がおかしな女に引っかかったときのような、妙な気分にエスメラルダは陥るが、彼らは立派な騎士である。

 そういう心配はいらないだろう。


 そう思って彼らを見送ると、しばらくしてノクターンが歩き出した。


「では殿下、レド侯爵、それにフィシスト殿。どうぞこちらへ」

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