第18話 Variation~変奏~
カノンに導かれて、両開きのやけに重そうな扉を通り抜けると、そこには巨大な空間が広がっていた。
「これが、音楽ホール、ですの……」
あんぐりと口をあけて声を失っているエスメラルダ王女。
後ろに続く近衛騎士たちも似たような表情で固まっている。
まず、広さが尋常ではない。
王女たちの常識では、演劇や音楽が披露される劇場というのはもっと小さなものだ。
必ずしも裕福な者だけの楽しみ、というわけではないがそれなりに贅沢なものである。
必然的に観客の数はそれほど多くない。
さらに言うなら、建築技術も問題だった。
大きな空間を作ることは不可能ではない。
ただそのためには多大なる資材と費用が必要であり、それを出せるパトロンとなると数はかなり限られてくる。
王族にも贔屓の劇団や楽師がいるが、それでも用意してやれるのはこの音楽ホールの十分の一程度が関の山、といったところだろう。
果てが見えない、はさすがに言い過ぎかもしれないが、座席を見れば、すくなくとも二千人以上は入るだろう大きさ。
これを作り上げようと思ったら、いったいどれほどの金額がかかるか……。
さらに壁を見て、気付いたことがあった。
「……これは彫刻ですわ……」
王女のつぶやきに、レド侯爵とフィシストが壁に寄り、確認する。
「たしかに……。見事なものですな。これほど精緻な紋様は見たことがありませぬ」
「王国の彫刻家たちの作り上げたものが子供の落書きに見えますよ、これは……」
そうして二人はため息をついて上方を仰いだ。そして視線の先で再度驚く。
「上にも座席が……」
「あんなところからも演奏を聴くことができるのか……」
どこを見ても驚きが絶えぬものばかり。
できることなら気が済むまで観察したかったが、近衛騎士たちが全員ホールに入り、入ってきたドアが閉まると同時に、がちゃん、と音がして一筋の光がステージに立つ男を照らした。
「……エドワードさん?」
エスメラルダ王女がそれを見てつぶやく。
燕尾服を纏った、黒目黒髪の少年。
それは紛れもなく、昨日出会ったエドワードだ。
手には見慣れぬ形をした物体を持って佇んでいる。
ただ、奇妙とか滑稽に見えるということは全くない。
どこか完成しているように思えるその姿。
いったい何をしようとしているのかと首を傾げるエスメラルダに、カノンが言った。
「あれはバイオリン、という楽器だ。この世界にはないのか?」
「ばいおりん……聞いたことありませんわ。レド侯爵やフィシストはどうですの?」
「存じ上げませんな……奇妙な形をしていますが……あえて言うなら、エルフが奏でる弦楽器が似てるでしょうか」
「私も存じ上げません……しかしあの棒はいったい……?」
「あの棒を使って弾く楽器なんだよ。まぁ、聞けばわかる。立っているのも疲れるだろう。椅子に座って聞いてやってくれ。なに、あまり準備する時間がなかったから一曲だけだが、それでもあるじサマの技量がわかるだろうよ」
そういってカノンが勧めたイスは、王族御用達の最高級シルクすらも霞むほどなめらかな質感の布が張られていて、非常に柔らかく座り心地の良さそうなものだ。
もし傷つけたら、とてもではないが弁償することは不可能に違いない。
なのに、一体これに座っていいものかと、騎士たちはおののく。
しかしそう言った"高価なもの"に慣れている王女がすんなりと座ったため、近衛騎士たちもそれにしたがって座った。
どうにも、王女を守るべき近衛騎士の面々はこの館の中においては王女に守られる子供のように見える。
カルガモの親子を見ているようで微笑ましい光景だった。
彼らが着席したのを確認して、ステージに立っていたエドワードは、ゆっくりとバイオリンを構える。
ぴんと張りつめた空気。その存在だけで、この空間すべてを支配していくエドワード。
それを見て、エスメラルダ王女は心が騒ぐ。
なにかが、起こるような気がして。
(これはいったいなんですの……?)
その考えは、一瞬のあと、突然始まったエドワードの変化で正しかったものと知れた。
先ほどからエドワードを照らしていたスポットライト。
その光が徐々に強くなり、エドワードを光の中へと閉じ込めていく。
そうして始まった、光の中心にいるエドワードの変化こそ、見物だった。
彼のそれほど高くなかった身長が、何が起こったのか徐々に伸びていき、それに伴ってかなり華奢だったはずの腕や足にもたくましさが表れてくる。
髪色はもっと顕著だ。鴉の濡れ羽のように艶やかな漆黒を湛えていたはずのそれは、徐々に色を失い、そして光を反射する光沢を纏っていく。
まるで彼の体が別のものと置き換わっていくような、劇的な変化だ。
強く照らすライトがもとの柔らかな光に戻ったとき、そこにいたのは先ほどまでの少年とは似ても似つかぬ美貌の青年だった。
銀色の髪に、暗いホールのなか、エスメラルダ王女たちを睥睨する一対の赤目。
そして、少し開かれた口から覗く、二本の長い牙……そう、それは牙だ。紛れもなく、牙だった。
「……不死者の王?」
レド侯爵がかすれた声でつぶやいたその言葉は、ホールの高い天井の反響して広がっていく。
不安が、伝播した。




