第17話 brillante~輝かしく~
ステージから客席すべてを見渡すと、緊張が心を震わせた。
けれど、そういったものを忘れ、音楽の世界に没頭すべく、僕は心を尖らせる。
そうすると、目の前に広がる人々の姿が僕の主観から徐々に変容していくのだ。
整然と並ぶ沢山の同色の椅子。そこに腰かける人々。
色彩感の薄かった会場を徐々に人が埋めていく。
彼らの姿をずっと見つめていると、どうしてか、彼らが人間ではなく植物のように見えてくるのだ。
漢字をずっと見つめていると、だんだんと本来の漢字の形がよくわからなくなってくるゲシュタルト崩壊という現象があるが、それと似たようなものだろうか。
人がその存在の仕方を失ったように見え、まるで物言わぬ植物へと変化したように見えるわけである。
演奏が始まるまではざわざわと、隣の友人や妻、もしくは夫などと会話している彼らも、ステージの幕が上がり演奏者が顔を見せると途端に緊張し始め、そして大きな拍手ののちにその動きを緩慢なものと変えるのだ。
それは人から植物への変容。
人の視線に、表情に怯えを感じなくなるこの瞬間。
僕は主役に慣れる気がした。
今回、ここで演奏を披露する相手は、ピュイサンス王国王女エスメラルダ、そしてその護衛たる近衛騎士団の面々だ。
彼らの性格は、昨日、今日と共に過ごしたために、理解できているつもりだ。
たとえここで演奏を失敗し、音楽家としての技能を見せることができずとも、彼らはおそらく僕らを彼らの主――国王にそれなりに説明してくれることだろう。
だから、失敗しても、かまわないのだ。
けれど、そんなことは僕に許せることではない。
かつて隆盛を誇った≪楽団≫の主として、また今は魔物しかいない≪フォーンの音楽堂≫の主として、そのような姿を見せるわけにはいかないのである。
今回の演奏は、絶対に失敗してはならないものだった。
手に持ったバイオリンを撫でる。
ユグドラシル。
現実には存在しない、IMM内だけにある楽器。
世界樹という地球には存在しなかった木材で作られている為か、不思議な光沢を帯びている。
音色の方は、折り紙つきだ。
この世界に来てすぐに試したし、もともとの設定でも作られたのは300年前となっていたから。
バイオリンは木が枯れてから本来の音色を出し始める楽器だ。
そのことを、おそらくIMM運営は知っていたのだろう。
だからそんな設定にした。
そのことを、今は感謝したいと思った。
見れば見るほど、不思議な楽器である。
バイオリンは先祖のようなものは一応あるが、そもそも楽器の形自体は、1550年ごろにバイオリンが出現した時にすでに完成していたという。
いったいなぜそんなことになったのか、それはもう、わからないことだ。
それに、わからなくても、この楽器の奏でる音がそのすべてだと思う。
音楽家にとって一番大事なことは、それがどんな音を響かせるのか、ということなのだ。
だからそれでいい。
バイオリンから目を離してホールの入り口を見やると、そこからぞろぞろと王女殿下たちが入場するのが見えた。
僕はそれを確認して、合図を出す。
僕にスポットライトが当たるように。
あれもまた特殊な加工がなされている道具で、月の光を再現することができるという無駄に高機能を備えたぜいたく品だ。
≪フォーンの音楽堂≫にはそういうものがあふれていて、探せば見つかるのがいいところである。
今回、演奏をするにあたって本当ならオーケストラでやりたかった。
けれど、そのためにはあらゆるものが足りないことに気付いたのはレド侯爵の領館を後にしてからだ。
つまり、僕はいったいどうやって奏者たちを集め、そして曲をさらうつもりだったのか、ということだ。
ノクターンたち弟子の魔物たちが弾けるだろうと思い込んでいたが、彼らは所詮、弟子に過ぎない。
師匠の能力の八割を受け継いでいるとはいえ、いきなり明日この曲を演奏するから完璧にさらってくれと言っても無理があるだろう。
演奏すること自体は不可能ではないが、僕がやりたかったのは、王女たちを音楽に惹きこむことである。
そのためには、大した練習もしないオーケストラは却下するほかなかったのだ。
ではどうするか。
そうだ。
僕一人で、演奏すればいい。
これは何も自惚れではない。
"僕"が一流のバイオリニストでないことなど初めからわかりきっている。
そうではなく、"エドワード"が超一流のバイオリニストなのだ。
この世界に来てユグドラシルを演奏してわかったことだが、IMMでの設定は完全に活きているのだ。
それは必ずしもシステムに登録されていたスキルに限定されず、アイテムについていた説明文も含めての設定が、活きているという意味である。
ユグドラシルの音色が枯れた木材にしか出せない甘やかなものであることからもそれは明らかだった。
だから僕は自信を持って、演奏をする。
ノクターンとカノンに促され、席に座る王女殿下たちを確認し、僕はゆっくりとバイオリンを構えた。
スポットライトが、僕を照らしていく。
僕の姿が、王女殿下たちにははっきりと見えているだろう。
黒目黒髪の、童顔の少年。
今は燕尾服を着て白タイを付けている。
着ているというより着られている、と言った方がいいかもしれない。
けれど、そのままで演奏する気は、僕にはなかった。
観客は人から植物へと変わる。
では奏者は?
僕の体は、柔らかな光を纏いはじめ、変化が始まる。
手も、体も、一回り大きく変わっていき、それにともなって着ていた服もサイズがかわっていく。
髪と目の色の変化はもっと顕著だろう。
瞳を自分で見ることはできないが、肩より多少短い程度だった黒髪はその長さを大幅に変えて色も銀へと染まっていく。
すべての変化が終わったとき、僕を前の僕と同様の人物とみることができる者は少ないだろう。
客席を見ると王女たちが困惑しているのが見えた。
しかし、おそらくは僕の変化に驚愕しているだろう王女殿下たちの目を覚まさせるように、僕はバイオリンを弾きならす。
曲は、バッハ、無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第3番ホ長調BWV1006、前奏曲。
さぁ、聞いてほしい。僕の、音楽を。




