第16話 Adel~気品~
「どうぞ、こちらへ」
エスメラルダ王女達の驚きを余所に、極めて美しい所作で屋敷の中へと一行を招く悪魔、ノクターン。
扉の脇でピン、と伸びた背筋を僅かに傾げ、目を伏せて王女たちが歩みだすのを静かに待つその姿勢。
執事としても人間としても極めてよく出来ている、教養のある存在であると認めないわけにはいかなかった。
ノクターンを見ながら、エスメラルダ王女はかつて教養としてマナーを学ぶにあたり最もはじめに教わったことを思い出す。
「王女殿下。マナーを学ぶにあたり、最も大切なことは何か、わかりますか?」
当時、王女は五歳。しかし王族に生まれたものとして、この世に生を受けたそのときから王者としてあるべき心得と姿勢を叩き込まれてきた彼女は、マナーについてもある程度の教養と呼べるものを持っていた。
小さい淑女、と言ってもいいツン、と誇らしげな態度。
大人が見れば、ほほえましい、と思うかもしれない。
そんな幼い彼女は美貌のマナーの教師を見上げながら、答える。
「美しい所作です!」
その答えに、王女は自信があった。
なぜなら、王城を歩いている貴族たちが他者のマナーを批判するとき、必ず使う言葉が「所作が美しくない」とか「なんて卑しい所作なんでしょう」などといった言葉だからだ。
きっと、教養ある者と言うのは美しくない所作などしないのだ。
今なら、そういった貴族の考え方そのものに問題があるということはわかっているが、さすがに当時はわからなかった。
マナーの教師は、答えを聞き、僅かに微笑みながら、王女に言う。
「それは、違います」
ゆっくりとした宣言だった。
王女の胸に、言葉の意味が染み込んだとき、王女は頬が熱くなるほど恥ずかしい思いがした。
自分が今までマナーだと思っていたものは何だったのだろう。
そう感じたからだ。
俯いて、教師の顔を見れなくなった王女。
教師はそんな王女に厳かに、神託のように言う。
「王女殿下。大切なのは、あなたがもてなす相手をそのような気持ちにさせないことです」
そういって、教師は過去、数代前のピュイサンス王国の王妃が功ある平民女性を個人的なお茶会に呼んだときに、まったくマナーに触れたことがないその女性がマナーを知らずに失敗したとき、王妃自らもその女性と同様の間違いをわざと堂々と行った、という話をした。
「分かりますか。大事なのは、相手を思いやる心です。それは王族として持つべき心得とも共通しています。このことを忘れずに、これからの授業を受けていただきたいと思います。」
それからは、マナーの授業は王女にとって非常に大事なものになった。
紛れもなく、心と、そして自分の身体を鍛える、そういう授業になったからだった。
回想から帰ってきたエスメラルダ王女は、未だにノクターンの容貌に目を見開いているレド侯爵や近衛騎士たちを一瞥し、自分が今、どういう視線でノクターンを見ていたのか気づく。
自分は、心からもてなしてくれた相手に、このような視線を向けていたのだ。
そして、そんな目を向けられたにもかかわらず、まったく動じずに、それどころか執事として立派な態度で応えてくれているノクターン。
王女は、身を一歩前に進める。
「殿下!?」
レド侯爵が驚いて王女を止めた。
しかし王女は気に留めずに前に足を進めながら言った。
「レド侯爵。あなたの言いたいことは、分かります。しかしよく考えてみてください。彼は……ノクターンさんは、何か悪いことをしたのですか?」
「それは……なにも」
「そうです。彼がしたのは、非常に美しい洗練された所作で、私たちを館に招いた、ただそれだけのことですわ」
王女は何もいえなくなったレド侯爵をおいて、屋敷の扉へと向かっていく。
レド侯爵はあわてて王女を追った。
一度腹を決めてしまえば歴戦の勇士である。
王女の後ろに控えるその姿は紛れもなく英雄の趣を宿している。
王女は近衛騎士団を後ろに、そのまま堂々と扉に向かい、ノクターンの横までたどり着く。
王女は動かない。
ノクターンはそんな王女に気づき、顔を上げた。
「おや……どうかなさいましたか、王女殿下」
「いいえ。先ほどの私の態度、謝罪いたします。あなたのもてなしは非常に行き届いておりました。非常に有能な執事ですわ」
「なるほど。お褒めの言葉、恐悦至極に存じます……しかし、わがあるじは運がいいようですね。初めて出会った人間がこのような方とは」
後の方の台詞は、王女達の耳には入らない小声で呟かれた。
王女は一言言って満足したのか、そのまま屋敷の中へと入っていく。
王女たちが屋敷の中に入っていくのを見届けて、ノクターンも扉を閉めてそれに続こうと歩き出そうとしたところ、どこに隠れていたのか、声がかかる。
「のくたーん。どうしておどかしたりしたの? 王女様たち、いいひとだよ?」
「……乙女ですか。驚かさないでください」
「ぶー」
口を尖らせて、機嫌の悪さを表現しているらしいが、ただかわいいだけである。
「いいひとでも、いざと言うときには裏切るかもしれません」
「そうなの?」
「ええ。あの人たちは、これからあるじに最も強くかかわっていく人たちになるかもしれませんから……しっかりと、見ておきたかったのですよ」
「何を?」
「なんでしょうね。人柄でしょうか」
「……よくわかんない」
「まぁ、いいです。私もあの人たちは、乙女の言うとおり、いい人たち、だと思うということですよ」
「そっか。ならいいー」
二体の魔物は笑いあい、屋敷の中へと入っていった。
屋敷の中では羊頭の獣人、カノンが控えており、王女たちはもう一度驚愕するのだが、ノクターンのときとは異なって、彼女たちはもう悲鳴を上げかけたりはしなかった。
屋敷に入って一番はじめに目に入るのは玄関ホールのどこまでも高い天井だ。
吹き抜けになっており、天井の模様がまったく見えない。
壁にはあめ色に磨かれた木造と思しき通路が作られているが、そこにどうやって至ればいいのか、まったく分からない。
エスメラルダ王女一行はその極めて奇妙でいながら、独特の魅力を感じるその作りに魅了された。
王宮の美しさとは本質が異なる。
けれど、いつまでもここで眺めていたい。
そう思わせる美がそこにはあったからだ。
しかしそういうわけにもいくまい。
「王女様方。あんまりぼやっとしてねぇで、こっち来てくれ」
そんな声がかかる。
声の聞こえた方を見ると羊の頭をつけた執事が、ホールの端にある二階まで続く階段の上から呼びかけていた。
カノン、という名を名乗ったその執事も、やはり非常に洗練された動きを身に着けた一流の執事だった。
しかし、その口調だけは直す気がないらしく、仕草とちぐはぐな印象を抱かせる。
カノンが話すたび、レド侯爵が「王女殿下に対して失礼ではないか!」と顔を赤くするのが面白かった。
「それで……私たちはどこに向かっているんですの?」
王女がそう聞くと、カノンは答える。
「音楽ホールにな。聞いてないか? あるじサマは音楽家なんだ」
「それは聞いておりますわ。音楽ホール、ということは私たちに音楽を聞かせてくれますの?」
「あぁ。あんたらはここの視察にきたんだろ? だったらここの用途を説明しないとならないってあるじサマはいってたぜ」
「それは……お気遣いありがとうございます」
「あぁ、それとな。これはよかったらでいいんだが、騎士のやつらの武器を預けてくれねぇか?」
カノンのその言葉にレド侯爵がいきり立って言った。
「騎士の魂を手放せというのか!? 我々は王女殿下を守る役目を担っているのだぞ!」
本当に相性が悪いらしい。
レド侯爵言っていることは理解できなくはないが、もう少し言い方というものがあるだろう。
それにカノンはあくまで、よかったらでいいのだが、と無理強いはしていない。
普段のレド侯爵ならこのようなことはないのに……。
そう思って王女はため息を吐いた。
しかしカノンは口調に比べて大人だったようだ。
冷静な声で言った。
「おいおい。なんだか誤解があるな。そうじゃねぇよ。そのあんたの言う、騎士の魂な。魔物と戦ってボロボロじゃねぇのか?」
「……そうだが?」
「この館には鍛冶場もあってな。武具の手入れが出来るんだ。騎士の魂だからこそ、今の状態のままじゃあ心もとないだろ?」
「まさかそんなことまでしてくれる気なのか?」
「あるじサマがな。剣を研いでやれってな。もちろん、怪しいと思うなら誰か騎士を監視に寄越してくれてかまわないぜ。武器がないのが心もとないってんなら、研いでる間は替えの剣を出す。どうだ?」
思わぬ申し出に、レド侯爵も怒りを忘れたように困惑している。
近衛騎士たちは、出来ることならやってもらいたいと思ったが、それもこれもレド侯爵次第だ。
黙って彼の答えを待った。
黙りこむレド侯爵に王女は言う。
「レド侯爵。武器を預けてはいかがですか」
「ですが殿下……」
「ここは、エドワード殿の館です。であれば、彼が我々を害しようと思わない限り、安全だと考えるべきです。それに……」
「それに?」
「エドワード殿が我々を害しようと動いたら、武器のあるなしはもはや問題ではないでしょう」
言われて、確かに、とレド侯爵は頷く。
そして、むっつりとした顔で彼はカノンに言った。
「よろしくお願いする……」
「おう」




