第12話 behaglich~心地よく~
老騎士――レド侯爵の言葉に僕はふと口元が緩むのを感じた。
どうやら緊張していたのは彼ら騎士たちだけでなく、僕もだったようである。
だから、腰が抜けたような感覚がして、地面にぽすん、と倒れてしまいそうになった。
けれど、
「おっと……大丈夫ですかな?」
レド侯爵が僕の腕を引いて体を支えてくれた。
「あぁ……申し訳ありません。どうにも少しばかり緊張していたらしく……腰が抜けました」
「の、ようですな。貴方はやはり人間らしい。それが分かって安心しました」
笑顔のレド侯爵。
しかし、彼は突然僕の手を離して突き飛ばした。
――いったい何が!?
そう思った矢先、僕の後方から大きな獣が飛び出して来てレド侯爵に飛びかかり、彼の左目を抉った。
一瞬驚いたが、改めて観察してみると襲い掛かってきた獣の全貌が明らかになる。
漆黒の毛皮に大きな爪と牙。
犬をやや大きく、強靭にしたような体形。
あれは確か、黒狼だったか。
低ランクモンスターだがIMMをやり始めた初期の頃においては中々苦戦させられたのを覚えている。
どうやら二体の強力な魔物を倒したことで僕は油断していたらしい。
レド侯爵は片目を負傷したにも関わらず危なげない手つきで黒狼と対峙し、そして数瞬ののち、一刀のもとに切り伏せた。
彼はすぐに自分の目に応急処置を施す。
ぼたりぼたりと額から顎にかけて垂れている血液が痛々しいが、そんなことは全く表情に出さずに彼は言った。
「いやいや、油断大敵とはこのことですな」
「そんな……レド侯爵が油断されていた訳では。僕の責任です」
「いいえ。私とて、これほど近くに魔物がくるまで気付きませんでしたのでな。差は、視線の向きに過ぎませぬ」
そんな風にお互いのことを謙遜し合っていると、後ろから声がかかった。
「レド侯爵!!」
それは柔らかな、高めの声。
清冽な音色をした鈴のような声だった。
おそらくは、女性だろうと僕は予測する。
実際、声の方向を見ると、流れるような黄金の髪と宝石のような深緑の瞳に、白磁のように透き通った肌をした少女が歩いてくる。
年の頃は15、16歳と言ったところだろうか。
華やかでいながら、まだ少女の域を出ていない独特の魅力が感じられた。
着ているものを見れば、明らかに高貴な身分に属することが分かる少女であり、慌ててはいるがその立ち居振る舞いから高度な教養を持つことも察せられる。
おそらくはあの少女が、レド侯爵たち騎士が守っていた姫、と呼ばれる存在なのだろうと思われた。
少女はレド侯爵のもとに急ぎ過ぎず、かといってのんびりともしていない絶妙な速度でかけよると、彼の顔に手をやって心配そうに彼の左目を見つめる。
「侯爵……何があったのです。その目は……」
美しい顔貌が悲しみに歪む。
どうやら僕のような現代人が単純に思い浮かべる分かりやすい貴族にありがちな高慢さとは無縁のタイプらしく、好感が持てる。
「殿下……お見苦しいものをお見せして……」
「いいえ、それは名誉の負傷ですわ。強大な魔物と戦い、そして傷ついたのでしょう? でしたら……」
そんな風に発せられた少女の言葉に、レド侯爵は虚をつかれたような表情をして、情けなさそうに笑った。
「いえ……あの」
「……? どうしたのです?」
「これは、ですな……」
レド公爵の苦笑の理由は、お姫様には分からずとも、僕にはありありと理解できた。
もし彼を傷つけたのが強大な魔物なら、胸を張って名誉の負傷だと言えただろう。
しかし現実は、あの傷をつけたのは死霊王でもなく、また死骸竜でもない。
あくまでどこにでもいる低ランクモンスター・黒狼なのである。
かなりの武勇を誇るだろうレド侯爵がその程度のモンスターに傷つけられたなど、誇って言えることではないのだろう。
かといって、嘘をつける相手でもなく、また答えない訳にもいかない。
その微妙な心の葛藤が、彼を苦笑させていた。
しかしそもそも、あの傷は僕を助けるためについたものだ。
騎士として、人を助けるためにあやまってついてしまった傷は、名誉の負傷と呼んでも間違いではないだろう。
さきほど謙遜し合ってしまったから彼の口からはその事実が出てくることはないだろうと思った僕は、あえて高貴な少女に対し、自ら口を開くことにした。
「あの……」
おずおずと話しかけた僕の声に、少女が今気付いた、という風に大きく目を見開いてこちらを向く。
まんまるの非常に美しい瞳で、一瞬見とれるが、僕は冷静な態度を保つ。
すると少女が言った。
「あなたは、どなたですの? 私、少し状況が掴めておりませんの……」
困惑したように僕を見つめる少女。
僕は出来るだけ洗練して見える様に頭を下げ、それから言った。
「あぁ、申し訳ありません。僕は、音楽家のエドワードと申します。高貴な身分の方に直接話しかけられるような立場にはないのですが、レド侯爵の負傷については、一言だけ、発言をお許しいただきたく……」
「音楽家の方ですの……? 色々聞きたいことはありますが、今はレド侯爵のことが先決ですわ。発言を許します」
「ありがとうございます。殿下のご厚情に感謝申し上げます。それで、レド侯爵の目の負傷ですが……それは私の責任なのでございます」
「それはどういうことでしょう?」
少女が怪訝そうな目で僕を見つめる。
しかしレド侯爵が口を挟んだ。
僕が何を言おうとしているのか、理解したのだろう。
「エドワード殿。それは先ほど解決したではありませんか。誰の責任でもありませぬ」
しかし、これでは謙遜の続きになってしまう。
そう思った僕は、レド侯爵の言葉を気にせずに、強引に先を言った。
「それでも、僕がレド侯爵に助けられたのは事実ですから。殿下。レド侯爵の傷は、僕が魔物――黒狼に襲われそうになったところを、自らの身を挺して守ろうとしたがためについたものでございます」
その言葉に、少女は驚いて目を見開く。
そして言った。
「まぁ! けれど……レド侯爵が、黒狼などに傷をつけられたのですか?」
首を傾げる少女。
彼女もやはりレド侯爵の武勇を信じている者の一人なのだろう。
レド侯爵は不思議そうな彼女に笑って言った。
「いやはや……情けないことでございます。私も耄碌したと言うことでしょうな」
本当に情けなさそうな顔をして言うあたり、本心なのだろうが、耄碌したなどと言うのはとんでもない話だ。
彼は、僕を除いてここにいる誰よりも強いのは間違いないのだから。
そんな心情になったのは、僕だけではなかったらしい。
侯爵の横に佇んでいた副官――フィシストが話に入ってくる。
「何を言っておられるのですか! SS級魔物との戦闘、それに死者からの復活、さらにはこのような不思議な少年との邂逅など……立てつづけにこれだけの事態に遭遇すれば、誰であっても平常ではいられないでしょう。その証拠に、このフィシスト、黒狼に全く反応できませんでした……」
彼がそう言ってレド侯爵を擁護すると、少女の首の角度がさらに大きくなる。
「……! SS級魔物との戦闘はともかく、死者からの復活とは一体どういうことですの? それにエドワードさんがどうして不思議な少年なんですの?」
もっともな疑問だったが、それを明確に言語化できる者はこの場にはいなかった。
僕としても一言では説明しにくく、また説明したとして信じてもらえるかどうか分からずに口を噤む。
それはレド侯爵、フィシストも同じだったようだ。
「それは……改めて聞かれると、言葉に詰まりますな」
「あぁ、確かに……」
レド侯爵とフィシストがそう言って頭をひねった。
僕のやったことを考えれば、それをそのまま説明しても冗談だととられてしまう可能性が高いだろう。
かといって嘘もつく訳にはいかないから、真実を正しく伝えそして信じてもらわなければならないのだ。
けれど言葉だけでそれは難しいのである。
どうしたものかと考える二人に、僕はひとつ提案をする。
「お二人とも」
「なんですかな?」
「なんでしょう?」
「提案があります」
「提案?」
「ええ。殿下に、僕の力を見て頂く、というのはどうでしょうか」
「いや、それは……エドワード殿の力は、殿下には少し刺激が強過ぎるのでは」
フィシストが躊躇うように目を泳がせた。その視線の先には倒れ伏した二体の魔物の死骸がある。
この世界の魔法のレベルから見れば、確かにSS級魔物二体を一撃で葬るスキル、というものはおいそれとは使うべきではないのかもしれない。
しかし僕が行使しようとしているのは、"この世界では実現が難しいと考えられている小規模なスキル"である。だからあまり心配することはない。
この世界には蘇生魔法は存在しない。つまりその発展形として存在する魔法もないはずである。
つまりそれは……、
「いえ、大丈夫です。僕が提案するのは、レド侯爵の目です」
部分蘇生だ。
IMMには部位欠損が存在した。
そしてそれを治癒する為には部分蘇生スキルを使うか、店売りの部分蘇生薬を使うしかなく、さらに両方とも蘇生魔法より難易度が高かったり高価だったりする。
しかも部位欠損したまま死亡した場合、その場で蘇生すると、その欠損部分はそのままの状態で蘇生されるといういやらしいシステムだった。
拠点で復活する場合は部分欠損も治癒するが、その場合の死亡ペナルティはおそろしく大きく、部分欠損はただの死亡よりもよっぽど恐れられる状態だったのである。
現実世界とは異なるその価値観は少し滑稽だが、それもゲームだったが故の笑い話だ。
いま僕がいるこの世界では、死亡も部分欠損も、深刻である。
レド侯爵の傷は出来れば治したかった。
「なんと、私のですか?」
レド侯爵は驚いて言う。
その反応から見て、僕の予想は正しかったらしい。
部分欠損を治すスキルはこの世界には存在しないようである。
「ええ。その傷、僕のためについたものです。僕に治させては頂けないでしょうか?」
「治せるのですか!?」
少女が驚いて言った。
被せ気味の少女の台詞にレド侯爵は質問するタイミングを失ったようだが、少女が言わなければレド侯爵が言っていただろう。
「ええ。僕にとっては難しいことではないので」
「非常にありがたいことですが……よろしいのですかな?」
「もちろん、ただとは言い難いですが」
「ふむ。しかし対価を、と言われましても……通常の治癒魔法では決して元には戻らぬ、失った視力を取り戻していただけるのでしたら、何を払っても不足するような気がしますな」
「そんなに大げさなものを要求しようとしているわけではありません。僕は、この世界――この国のことを知りません。ですから、それを教えていただけること、それを対価にしていただきたいと思うのです」
「……そんなことでよろしいのですか?」
「今の僕に、それ以上価値のあるものはありません」
「欲のない方ですな。分かりました。では、よろしくお願いします」
そう言って、レド侯爵は深く頭を下げた。
意外にも、お辞儀がこの世界にもあるらしい。
「ではレド侯爵、さきほどご自分で巻かれたその包帯を、解いて頂けますか?」
「ふむ。分かりました」
くるくると血で滲んだ包帯がほどかれていく。
全てはずれると、そこには黒狼の爪で引き裂かれた大きな傷があった。
しかし予想よりはかなり浅い。残念ながら目を抉ってしまってはいるが、それ以上に致命傷になるような傷ではないようだ。
「私も通常の治癒魔法くらいでしたら使えますのでな。殆どの魔力は死霊王にくれてやりましたが、多少の傷を塞ぐ事くらいはできます」
レド侯爵は笑って言う。実に豪胆な人だと思った。
少女はレド侯爵の傷を見て、一瞬眉をしかめたが、それは傷の生々しさから、というわけではなく、どちらかと言えばレド侯爵を気遣うような視線だった。
僕は不安そうな少女に言う。
「殿下、大丈夫ですよ。綺麗に治ります」
「……本当でしょうか?」
「ここで嘘をつきますと、僕は縛り首になってしまうでしょう? それは遠慮したいところです」
「我が国に縛り首はありませんが……ええと、もしかして、冗談をおっしゃったんですの?」
途中で気がついたかのように少女が言った。
僕は彼女に笑いかけて頭を下げる。
「……そのつもりでした。分かりにくくて申し訳ないことです」
「ふふっ……なんだか、余裕がありますのね。分かりました。貴方に任せます。レド侯爵をお願いしますわ」
「かしこまりました」
僕は抉られた部分を露出しているレド侯爵に近づき、静かに竪琴を弾き鳴らした。
曲は、C.A.ドビュッシー、亜麻色の髪の乙女。
夏の明るい陽を浴びて、
ひばりと共に愛をうたう、
桜桃色の唇をした少女。
そんな、ルコント・ド・リルの詩からヒントを得て作曲された曲だ。
変ト長調の、透明感のある美しい旋律。
題名と曲調から、浮かぶ柔らかな情景、優しい景色。
強く吹いたかと思えば、さらりと逃げていく風の音。
ひばりの声が響き、それに答えるように少女はうたう。
そんな風景。
柔らかで美しい景色は、人の心をその芯から癒すだろう。
だからだろうか。
IMMは部分欠損の回復のためのスキルの使用のために奏でるべき曲に、この曲を選んだ。
僕はできるだけ柔らかく、そして優しく弦を鳴らす。
音は辺りに一面に広がり、空気を揺らしていく。
レド侯爵の傷を見れば、そこは暖かい光に満ちていた。
傷はじわじわと見えなくなっていき、輝きを失っていた瞳には光が宿っていく。
少女とフィシストはその様子を驚嘆の眼差しで見つめていた。
似たようなものを一度は見ているフィシストはともかく、少女の驚きはひときわ大きいようだった。
普通にしていても一般より大きい瞳が、そのまま落ちてしまうのではないかと思われるくらいに大きく見開かれている。
「きれいですわ……」
そんな呟きも聞こえた。
他の騎士たちもいつの間にか周囲に集まっていて、レド侯爵の傷が治っていくのを見つめている。
そのまましばらく奏でた。
曲も終わりに近づき、侯爵の傷ももう完全に治ったようだ。
僕が最後の和音を鳴らすと、レド侯爵にまとわりついていた光は霧散し、あたりの空気も通常のものに戻った。
「レド侯爵、もういいですよ」
僕がそう言うと、侯爵は驚いたように目を瞬かせた。




