汚れたマウンド
甲子園決勝。満員のスタンド。四万七千人。
御堂颯馬がマウンドに立った。
手が震えている。ロジンバッグを強く握り、指を開く。それを三回繰り返して、ようやくセットポジションに入った。
初球。ストレート。148km/h。
本来の御堂なら154km/hが出る。六キロ落ちている。だが148km/hでも十分に速い。
俺はバッターボックスから御堂の目を見た。
揺れている。だが折れていない。
壊しきれなかった。母親の借金、弟の学費、家族の危機。それだけの爆弾を仕掛けても、御堂颯馬は立っている。こいつの核は家族ではない。野球そのものだ。
初回、灰谷は無得点。御堂の球は本来の七割だが、それでも灰谷の打線を抑えるには十分だった。
俺も投げた。147km/h。回復剤βで維持してきた身体が、計画通りに機能している。三回を終えて両チーム無得点。
四回。御堂が変わった。
仲間が声をかけた。ベンチから「颯馬、腕振れ!」と叫んだ。御堂が頷いた。
次の球。152km/h。
目が変わっていた。震えが消えている。
灰谷の四番が三球三振。五番もフライアウト。六番は見逃し三振。
御堂が、戻ってきた。
五回表。明光学院の攻撃。俺の球を打ち始めた。連打で一、三塁。犠牲フライで先制。0-1。
ベンチに戻った俺の横で、土岐が言った。
「あいつ、化け物だな」
「ああ」
初めて、嘘ではない言葉を返した。御堂颯馬は、化け物だ。
◇
六回裏。灰谷のベンチで、俺は判断を下した。
鞄の底に入れてある小瓶を取り出した。回復剤γ。β型の強化版。即効性がある代わりに、身体への負荷が桁違いに大きい。投与後四十八時間以内に関節と筋繊維に不可逆なダメージが出る。
一度使えば、俺の右腕は二度と147km/hを投げられなくなる可能性がある。
トイレの個室で、腕の内側に塗布した。経皮吸収型。注射痕は残らない。
三十秒で効き始めた。腕の中で何かが燃えるような感覚。筋肉の出力リミッターが外れていく。
七回表。マウンドに戻った。
初球。150km/h。
二球目。152km/h。
明光の打者が目を見開いた。七回になって球速が上がるピッチャーは、普通はいない。
土岐がタイムをとってマウンドに来た。
「零、お前の腕……」
俺の右腕が微かに震えていた。γの副作用が、もう出始めている。
「なんでもない。いけるから受けてくれ」
土岐が俺の目を見た。三秒。こいつの目は、嘘を見抜こうとしている。初めてだった。土岐が俺を疑う目で見たのは。
「……おう。全部受ける」
土岐は背中を向けてホームに戻った。信じたのか、疑ったのか。たぶん、両方だ。信じたいから、疑いを飲み込んだ。
七回裏、灰谷が追いついた。1-1。
◇
九回表。最終回。明光学院の攻撃。
先頭打者を三球三振。152km/h、153km/h、151km/h。腕が軋んでいる。
二人目。内角のストレートでファウルを打たせ、外角のスライダーで空振り三振。
三人目。
御堂颯馬が、代打で打席に入った。
投手の御堂が打席に立つ。監督の判断だ。エースに最後を託す。
御堂が構えた。目が澄んでいた。恐怖も動揺もない。家族のことは、この打席の間だけ消えている。
純粋な野球。才能と努力だけが凝縮された打席。
俺は一球目を投げた。153km/h。内角高め。御堂がファウルで弾き返した。
二球目。外角低めのスライダー。見送り。ボール。
三球目。真ん中高め。渾身のストレート。
154km/h。
俺の身体が出せる限界を超えた球だった。右腕の筋繊維が何本か切れた感触があった。
御堂のバットが振られた。
空を切った。
三振。ゲームセット。
灰谷高校、甲子園優勝。
◇
チームメイトがマウンドに殺到した。怒号のような歓声、泣き声、抱き合う身体。砂埃と八月の太陽。
土岐が走ってきた。県予選のときと同じ、くしゃくしゃの顔。
「やったな、零!」
右手を差し出してきた。
俺は握った。土岐の手は熱くて、大きくて、汗で湿っていた。
空白。
何も考えられない時間が、また来た。
一秒。二秒。
三秒目に、処刑台が見えた。モスクワの冬。後頭部に押し当てられた銃口の冷たさ。二十年の忠誠が、あの一瞬で終わった。
信じるな。何も。誰も。信頼は搾取のための前払いだ。土岐の手の温度は生化学的な現象にすぎない。
「当然だ。俺たちは最強だ」
笑顔を作った。完璧な笑顔だ。手を離した。右腕が震えている。γの代償は、もう始まっている。
スマホを取り出した。画面には、次の標的のデータが並んでいた。甲子園優勝チームのエースには、スカウトが群がる。プロ野球。その先に、もっと大きな盤面がある。
高校野球は第一歩にすぎない。
◇
スタンドの最上段で、園田杏が泣いていた。
手にはスマホ。画面には書きかけの文章が表示されている。宛先は広島県高等学校野球連盟。
内容は告発文だった。回復剤βの成分分析結果、不審点リストの全項目、黒鉄零という人間への疑念。すべてを書いた。
送信ボタンの上で、指が震えている。
グラウンドでは、灰谷ナインが優勝旗を受け取っている。土岐先輩の泣き顔が見える。山根先輩が両手を突き上げている。
この瞬間を壊す権利が、自分にあるのか。証拠はある。だが確信がない。黒鉄零が悪意を持ってこれをやったという確信が。もし間違っていたら、自分がチームを壊した人間になる。
涙がスマホの画面に落ちた。杏は送信ボタンを押さなかった。
◇
表彰式が終わり、スタンドから観客が引いていった。
俺は一人でマウンドに立った。
白い土。きれいに整備された甲子園のマウンド。何万人もの高校球児が夢見て、一握りしか立てない場所。
右足で、土を踏んだ。
白い土に、黒い足跡がついた。
もう一歩。もう一歩。
マウンドが、汚れていく。




