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信頼は搾取の前払い ~転生した元KGB拷問官が、笑顔で甲子園を支配する~  作者: どみさん


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8/8

汚れたマウンド

 甲子園決勝。満員のスタンド。四万七千人。


 御堂颯馬がマウンドに立った。

 手が震えている。ロジンバッグを強く握り、指を開く。それを三回繰り返して、ようやくセットポジションに入った。

 初球。ストレート。148km/h。

 本来の御堂なら154km/hが出る。六キロ落ちている。だが148km/hでも十分に速い。


 俺はバッターボックスから御堂の目を見た。

 揺れている。だが折れていない。


 壊しきれなかった。母親の借金、弟の学費、家族の危機。それだけの爆弾を仕掛けても、御堂颯馬は立っている。こいつの核は家族ではない。野球そのものだ。


 初回、灰谷は無得点。御堂の球は本来の七割だが、それでも灰谷の打線を抑えるには十分だった。

 俺も投げた。147km/h。回復剤βで維持してきた身体が、計画通りに機能している。三回を終えて両チーム無得点。


 四回。御堂が変わった。

 仲間が声をかけた。ベンチから「颯馬、腕振れ!」と叫んだ。御堂が頷いた。

 次の球。152km/h。

 目が変わっていた。震えが消えている。


 灰谷の四番が三球三振。五番もフライアウト。六番は見逃し三振。

 御堂が、戻ってきた。


 五回表。明光学院の攻撃。俺の球を打ち始めた。連打で一、三塁。犠牲フライで先制。0-1。

 ベンチに戻った俺の横で、土岐が言った。


「あいつ、化け物だな」


「ああ」


 初めて、嘘ではない言葉を返した。御堂颯馬は、化け物だ。


     ◇


 六回裏。灰谷のベンチで、俺は判断を下した。


 鞄の底に入れてある小瓶を取り出した。回復剤γ。β型の強化版。即効性がある代わりに、身体への負荷が桁違いに大きい。投与後四十八時間以内に関節と筋繊維に不可逆なダメージが出る。

 一度使えば、俺の右腕は二度と147km/hを投げられなくなる可能性がある。


 トイレの個室で、腕の内側に塗布した。経皮吸収型。注射痕は残らない。

 三十秒で効き始めた。腕の中で何かが燃えるような感覚。筋肉の出力リミッターが外れていく。


 七回表。マウンドに戻った。

 初球。150km/h。

 二球目。152km/h。

 明光の打者が目を見開いた。七回になって球速が上がるピッチャーは、普通はいない。


 土岐がタイムをとってマウンドに来た。


「零、お前の腕……」


 俺の右腕が微かに震えていた。γの副作用が、もう出始めている。


「なんでもない。いけるから受けてくれ」


 土岐が俺の目を見た。三秒。こいつの目は、嘘を見抜こうとしている。初めてだった。土岐が俺を疑う目で見たのは。


「……おう。全部受ける」


 土岐は背中を向けてホームに戻った。信じたのか、疑ったのか。たぶん、両方だ。信じたいから、疑いを飲み込んだ。


 七回裏、灰谷が追いついた。1-1。


     ◇


 九回表。最終回。明光学院の攻撃。


 先頭打者を三球三振。152km/h、153km/h、151km/h。腕が軋んでいる。

 二人目。内角のストレートでファウルを打たせ、外角のスライダーで空振り三振。

 三人目。

 御堂颯馬が、代打で打席に入った。


 投手の御堂が打席に立つ。監督の判断だ。エースに最後を託す。

 御堂が構えた。目が澄んでいた。恐怖も動揺もない。家族のことは、この打席の間だけ消えている。

 純粋な野球。才能と努力だけが凝縮された打席。


 俺は一球目を投げた。153km/h。内角高め。御堂がファウルで弾き返した。

 二球目。外角低めのスライダー。見送り。ボール。

 三球目。真ん中高め。渾身のストレート。


 154km/h。

 俺の身体が出せる限界を超えた球だった。右腕の筋繊維が何本か切れた感触があった。


 御堂のバットが振られた。

 空を切った。


 三振。ゲームセット。


 灰谷高校、甲子園優勝。


     ◇


 チームメイトがマウンドに殺到した。怒号のような歓声、泣き声、抱き合う身体。砂埃と八月の太陽。


 土岐が走ってきた。県予選のときと同じ、くしゃくしゃの顔。


「やったな、零!」


 右手を差し出してきた。

 俺は握った。土岐の手は熱くて、大きくて、汗で湿っていた。


 空白。


 何も考えられない時間が、また来た。

 一秒。二秒。


 三秒目に、処刑台が見えた。モスクワの冬。後頭部に押し当てられた銃口の冷たさ。二十年の忠誠が、あの一瞬で終わった。


 信じるな。何も。誰も。信頼は搾取のための前払いだ。土岐の手の温度は生化学的な現象にすぎない。


「当然だ。俺たちは最強だ」


 笑顔を作った。完璧な笑顔だ。手を離した。右腕が震えている。γの代償は、もう始まっている。


 スマホを取り出した。画面には、次の標的のデータが並んでいた。甲子園優勝チームのエースには、スカウトが群がる。プロ野球。その先に、もっと大きな盤面がある。


 高校野球は第一歩にすぎない。


     ◇


 スタンドの最上段で、園田杏が泣いていた。


 手にはスマホ。画面には書きかけの文章が表示されている。宛先は広島県高等学校野球連盟。

 内容は告発文だった。回復剤βの成分分析結果、不審点リストの全項目、黒鉄零という人間への疑念。すべてを書いた。


 送信ボタンの上で、指が震えている。

 グラウンドでは、灰谷ナインが優勝旗を受け取っている。土岐先輩の泣き顔が見える。山根先輩が両手を突き上げている。


 この瞬間を壊す権利が、自分にあるのか。証拠はある。だが確信がない。黒鉄零が悪意を持ってこれをやったという確信が。もし間違っていたら、自分がチームを壊した人間になる。


 涙がスマホの画面に落ちた。杏は送信ボタンを押さなかった。


     ◇


 表彰式が終わり、スタンドから観客が引いていった。


 俺は一人でマウンドに立った。

 白い土。きれいに整備された甲子園のマウンド。何万人もの高校球児が夢見て、一握りしか立てない場所。


 右足で、土を踏んだ。


 白い土に、黒い足跡がついた。


 もう一歩。もう一歩。


 マウンドが、汚れていく。

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