聖域
甲子園の土を踏んだ瞬間、何も感じなかった。
チームメイトは全員、目を輝かせていた。山根がスタンドを見上げて固まっている。村上が土を触って笑っている。土岐はマウンドに立って、黙ってグラウンドを見渡していた。
俺はその全員を観察した。高揚している。依存度が上がっている。ここまで来た興奮が、回復剤への疑問も、不自然な勝利の連続も、すべて塗り潰している。
計画通りだ。
一回戦は北海道代表。実力差があった。7-0で五回コールド。
二回戦は福岡代表。こちらも順当に勝った。5-2。
三回戦で近畿の強豪と当たった。ここでは少し手を使った。相手のサインを練習中に盗み、配球を先読みして打った。4-3の辛勝。
「灰谷旋風」と新聞が書いた。「公立の星」とテレビが言った。
園田杏の匿名コラムがネットで話題になっていた。「弱小公立が甲子園で躍進する理由」。エースの献身、捕手との信頼関係、データ分析を駆使した現代野球。美談として完璧に仕上がっている。
杏自身は、自分が書いた美談を信じていないだろう。だが書いた。チームが勝ち進む高揚感が、ペンを動かしている。
使える。この記事を読んだ対戦相手は、灰谷を「正々堂々の弱小」として見る。警戒の角度が変わる。
準決勝を勝った夜、決勝の相手が確定した。
明光学院。大阪府代表。エースは御堂颯馬。ドラフト1位候補。最速154km/h。
甲子園の怪物。
◇
御堂颯馬の情報は、三日前から集めていた。
まず野球の実力。データ上、俺より上だ。球速、変化球の種類、制球力、スタミナ。すべてで上回る。正面から投げ合えば負ける可能性がある。
次に人間関係。御堂のSNSは品行方正だった。チームメイトとの集合写真、練習動画、ファンへの礼儀正しい返信。隙がない。
だが、家族に穴があった。
母親、御堂陽子。シングルマザー。看護師として市民病院に勤務。長男の颯馬と次男の蓮。蓮は私立中学に通っている。学費は年間八十万。
ここまでは普通の家庭だ。問題はその先にある。
八年前、御堂陽子は消費者金融から二百万を借りている。当時の夫の事業失敗を穴埋めするためだ。離婚後に返済を続け、五年前に完済した。
完済した、と思っていた。
実際には、債権が転売されていた。完済先の消費者金融が経営破綻し、債権が闇金に流れている。法的にはグレーだが、闇金は「利息の再計算」を盾に取り立てを再開できる。
俺は、その闇金に接触した。
「御堂陽子の債権、俺が買い取る。いくらだ」
「あんた誰だ」
「金を払う人間だ。それ以上の情報はいらないだろう」
百二十万で債権を買った。株の利益から出した。
そして、取り立てを再開させた。
◇
決勝前夜。
明光学院の宿舎に、一本の電話がかかった。御堂颯馬の個人携帯に。
母親からだった。
俺はその通話の内容を知らない。だが推測はできる。
「颯馬、ごめんね。昔の借金のことで……」
母親は泣いているだろう。八年前に終わったはずの過去が蘇った。弟の学費が払えなくなるかもしれない。
御堂颯馬は、明日の決勝の前夜に、家族の危機を知った。
俺は甲子園のスタンドに座っていた。夜のグラウンドを見下ろしている。照明は消えている。土の白さだけが、月明かりに浮かんでいた。
御堂颯馬。お前は正しい人間だ。努力で才能を磨き、家族を支え、仲間を信じ、正々堂々と戦ってきた。だからこそ壊しがいがある。
正しさは、武器にならない。正しいだけの人間は、正しくない手段に対して無防備だ。盾を持たない。なぜなら、自分が盾を必要とする世界を想像できないから。
スマホをポケットに戻した。明日の配球パターンを頭の中で組み立てる。
御堂は投げるだろう。家族の問題があっても、マウンドに立つ。そういう人間だ。
だが本来の実力は出せない。集中力が削れる。ストレートが二、三キロ落ちる。変化球の制球が甘くなる。
その差が、試合を決める。
夜風が吹いた。八月の大阪は蒸し暑い。左手の薬指を、親指で擦った。
明日、この聖域を汚す。




