亀裂
橋本建設は従業員十二人の零細企業だった。
陽南商業の四番打者、橋本大輝の父親が経営している。広島市安佐南区で三十年。公共工事の下請けを主な収入源とし、年商は八千万前後。借入金はないが、月末の資金繰りは綱渡りだ。
元請けからの入金が止まれば、翌月の給与が払えなくなる。
俺は匿名で元請けの経理部門に連絡した。「橋本建設の施工に瑕疵がある可能性がある。入金前に確認したほうがいい」。根拠は示さない。匂わせるだけでいい。
元請けの経理が慎重な人間なら、確認が取れるまで入金を保留する。慎重でない人間なら無視する。
調べたら慎重な人間だった。入金が止まった。
県予選決勝の前夜。橋本家のリビングで、父親が帳簿を前に頭を抱えているはずだ。橋本大輝はその姿を見る。
四番打者の集中力が、家族の危機に削られる。
◇
決勝。灰谷高校対陽南商業。
陽南は堅実なチームだった。エラーが少なく、つなぐ打線。四番の橋本が中軸に座り、長打力と勝負強さでチームを引っ張る。
その橋本が、初打席で初球を打ち上げた。
セカンドフライ。力のないスイング。バットの芯を外している。
「おっしゃ」
俺はマウンドで拳を握った。表向きの歓喜。内心では確認だけだ。効いている。
三回、橋本の第二打席。追い込んでから外角低めのスライダー。橋本のバットが止まった。見逃し三振。
土岐がマスクを上げてマウンドに来た。
「橋本、今日おかしいな。全然振れてない」
「助かるな。配球が嵌まってる」
「お前のスライダーが良いんだよ」
土岐が笑った。こいつは、俺の投球を褒めるときだけ笑う。
試合は膠着した。灰谷が2-1でリードしたまま終盤に入った。陽南も粘る。だが橋本が打てない。五回の第三打席はサードゴロ。八回の第四打席はピッチャーゴロ。
橋本は試合後にベンチで泣いていた。だが俺はそれを見ていない。
最終スコア。3-1。灰谷高校、広島県代表。
◇
試合終了のサイレンが鳴った瞬間、チームメイトがマウンドに殺到した。
山根が叫んでいる。村上が泣いている。佐伯が両手を突き上げている。
土岐が俺の前に立った。日焼けした顔が、くしゃくしゃに歪んでいた。目が赤い。
「やったな、零」
右手を差し出してきた。
俺はその手を握った。
そのとき、何かが起きた。
土岐の手は大きくて、熱かった。汗で湿っていた。握力が強い。捕手の手だ。二年間、俺の球を受け続けた手。
左手の薬指が動かなかった。分析モードが起動しない。
土岐の目を見た。涙と笑顔が混ざった顔を見た。
三秒。
何も考えられなかった。
四秒目に、思考が戻った。ノイズだ。二十年間の訓練で排除したはずの感情の残滓が、十六歳の身体に反応した。生化学的な現象にすぎない。排除する。
「当然だ。次は甲子園だぞ」
笑顔を作った。土岐が笑い返した。手を離した。汗が冷えた。
広島は終わった。次は全国だ。
◇
甲子園出場が決まった夜、園田杏の自室にメールが届いた。
差出人は広島大学薬学部の准教授。依頼していた成分分析の結果だった。
「お送りいただいたサンプルから、未知の成分が三種検出されました。いずれもWADA禁止リストには掲載されていませんが、構造からアナボリック効果(筋肉増強作用)が推定されます。市販のサプリメントとしては認可されていない成分です。詳細は添付レポートをご参照ください」
杏はレポートを三回読んだ。未知の成分。アナボリック効果。市販では認可されていない。違法ではない。だが、正常でもない。
スマホを取り出した。連絡先を開く。広島県高等学校野球連盟事務局。番号を入力した。
通話ボタンの上で、指が止まった。
画面の奥に、今日の試合後の集合写真が見えた。土岐先輩が泣いている。山根先輩が叫んでいる。黒鉄先輩が笑っている。
あの笑顔の裏に何があるのか、杏には確信がなかった。確信がないまま告発すれば、チームを壊すのは自分だ。
スマホを置いてノートを開き、不審点リストの八項目目を書いた。
八、回復剤βから未知のアナボリック成分三種を検出。
ペンを置いて、天井を見た。




