買収
喫茶店の奥の席で、審判の男と向かい合った。
藤原信二、五十四歳。高校野球の審判を二十年。本業は自動車部品工場の班長。年収は四百万を切る。
住宅ローンの残債が二千三百万。長男の大学進学費用で教育ローンを追加。妻のパート収入を合わせても月々の返済が厳しい。先月、消費者金融から五十万を借りた。
調べるのに二日かかった。金の匂いがする人間を見つけるのは、前世の得意分野だった。
「藤原さん、単刀直入に言います」
俺は封筒をテーブルに置いた。中身は現金三百万。株の利益から引き出した。
「明後日の準決勝、灰谷対錦城戦。三塁審を担当されますよね」
藤原の目が封筒に落ちた。視線が三秒動かなかった。三秒は長い。KGBの尋問では、三秒の沈黙は「交渉の余地がある」を意味する。
「際どい判定を、少しだけ灰谷寄りにしていただきたい。露骨にではなく、自然に。ファウルかフェアか、タッチアップのタイミング。そういう、映像で検証しても覆らない程度のものです」
「……あんた、何者だ」
「灰谷高校野球部のエースです。甲子園に行きたい高校生ですよ」
俺は笑った。高校生の笑顔で。藤原の手が震えた。封筒に触れ、指を引っ込め、もう一度触れた。
「お気持ちだけで結構です。嫌なら忘れてください。お茶代は俺が出しますから」
席を立つ振りをした。藤原が封筒を掴んだ。
「……一回だけだ」
「ありがとうございます」
一回で十分だ。一回買収に応じた人間は、次は声をかけるだけで動く。最初の一歩を踏ませることが、すべてだった。
◇
準決勝。錦城学園。
甲子園常連の名門。清廉で知られる七十代の監督が率いる伝統校だ。選手の質、チーム力、経験、すべてで灰谷を上回る。
だから正面からは戦わない。
試合前、SNSに匿名投稿を一件。五年前の体罰問題の記事を引用し、「現監督は当時コーチとして関与していた可能性」を示唆する内容。
事実かどうかは問題ではない。示唆するだけでいい。観客の目が変わる。スタンドにいる保護者のざわめきが、ベンチに伝播する。
試合が始まった。
錦城は強かった。初回に二点を先制された。土岐が舌打ちした。
「硬いな、あいつら」
「大丈夫だ。試合は九回まである」
三回裏。灰谷の攻撃。ランナー一、三塁。
村上のレフトへのライナーがフェンス際に落ちた。三塁ランナーがホームへ。レフトが返球。クロスプレー。
三塁審の藤原が判定した。
セーフ。
錦城の監督が飛び出した。「今のはアウトだろう!」。審判団と協議になった。だが藤原は判定を変えなかった。
2-1。
五回にも際どいプレーが一つ。タッチアップのタイミング。藤原の判定。セーフ。
錦城ベンチの空気が荒れた。選手たちの集中が判定への不満に向き始めている。
七回、三つ目の際どい判定の後、錦城の監督がベンチ前で怒鳴った。その姿をスタンドの誰かがスマホで撮った。SNSに「錦城監督が審判に暴言」と投稿された。
試合前に撒いた体罰問題の匂いと重なって、コメント欄が炎上し始めた。
監督の怒鳴り声がベンチの選手にまで届いている。エースの制球が乱れた。八回に灰谷が逆転。最終スコア、5-3。
◇
試合後、部室で着替えながら窓の外を見た。駐車場で園田杏がしゃがんでいる。ゴミ箱の横だ。手に白い容器を持っている。回復剤βの空き瓶。誰かが練習後に捨てたものだろう。杏がそれを回収した。
部室を出て、校舎裏の植え込みの影からスマホを操作した。杏のスマホの通話履歴にアクセスする。父の会社から借りた監視アプリで、杏のスマホには入部時に「チーム連絡用」として入れたアプリ経由で接続できる。
直近の発信履歴。広島大学薬学部の研究室。
成分分析を依頼しようとしている。
三秒、考えた。排除するか。杏を野球部から追い出す理由はいくらでも作れる。だが、この女には別の使い道がある。杏は地元新聞に匿名でコラムを書いている。「灰谷の快進撃」を美談として書く可能性が高い。その記事は、対戦相手への心理戦の材料になる。
泳がせる。成分分析の結果が出ても、WADAの禁止リストに載っていない成分だ。異常を証明できても、違法を証明できない。この女の正義感は、俺の道具になる。
スマホをポケットに戻した。




