飼い慣らし
「はい、これ。練習後に一錠ずつな」
部室のテーブルに白いボトルを十五本並べた。ラベルには「黒鉄ファーマ 開発品 回復促進サプリメントβ」と印刷してある。
部員たちが顔を見合わせた。
「なんすかこれ」
「親父の会社の新製品。筋肉の回復を早めるサプリだ。まだ市販前だけど、うちで先に試していいって許可もらった」
山根がボトルを手に取り、裏のラベルを見た。
「成分表、ないっすけど」
「開発品だからな。企業秘密ってやつだ。嫌なら飲まなくていい」
飲む。全員飲む。社長の息子が持ってきた自社製品を、弱小公立の野球部員が断る理由がない。むしろ感謝される。三日後には全員が習慣的に服用していた。
回復剤βの実態は、前世で設計した配合の民生版だった。WADA禁止リストに載っていない新規成分を三種、黒鉄ファーマの研究ラインで合成させた。父には「スポーツ栄養学の論文を読んで思いついた」と説明した。製薬会社の社長は、息子が自社の研究に興味を持ったことを喜んだ。
副作用は把握している。関節への負荷増大、内臓への蓄積、依存性。長期服用で壊れる。
二年持てばいい。甲子園までの消耗品だ。
◇
夏が過ぎ、秋が来た。
チームが変わり始めていた。回復剤βの効果は予想以上だった。練習量が倍になっても翌日に残らない。部員たちの表情が変わった。昨日まで惰性でバットを振っていた連中が、自分から居残り練習を始めた。
勝てる。その予感が、人間を変える。
設備も入れ替えた。父に頼んでトレーニング機器を購入し、データ分析用のタブレットを部員全員に配布した。練習メニューは俺が設計する。前世の人体知識と、この世界のスポーツ科学を掛け合わせた最適化プログラム。
監督には「ネットで調べました」と言った。六十代の監督は、生徒が自主的にやる分には何も言わない。
練習試合で勝ち始めた。
最初の一勝で、空気が変わった。二勝目で部員の目つきが変わった。五連勝したとき、山根が練習中にスマホを触らなくなっていた。
恐怖ではない。報酬だ。勝利という報酬を与え続ければ、人間は自発的に従う。鞭より飴のほうが長く効く。それはKGBの尋問マニュアルにも書いてあった。
◇
土岐との距離は、計画通りに縮まった。
練習後、二人で残ってバッテリー練習をする。俺が投げ、土岐が受ける。百球、二百球。
土岐の膝が限界に近づくと、右膝を叩く癖が出る。そのタイミングで俺は投球を止める。
「今日はここまでにしよう」
「まだいける」
「膝、無理するな。お前が壊れたら俺が困る」
土岐が黙る。こいつは、気遣いの言葉に弱い。中学で県選抜に入りながら、強豪私立の推薦を蹴って公立に来た男だ。誰かに「大事にされた」経験が少ない。
だから俺が大事にする。この男が最大出力を発揮するのは、信頼した相手のためだけだ。
回復剤βを渡した。
「膝にも効くから」
「……サンキュ」
土岐が素直に受け取った。信頼の残高が、また一つ増えた。
◇
二年目の春に、変数が一つ増えた。
「園田杏です。マネージャー志望です。よろしくお願いします」
新入生。小柄で、丸い眼鏡をかけている。ポニーテール。特に目を引く容姿ではない。
だが、入部初日から妙なことをしていた。
ノートを持ち歩いている。練習中、ひたすら何かを書いている。スコアブックではない。部員の動きを、独自のフォーマットで記録していた。
「園田、何書いてるんだ」
「各選手のパフォーマンスデータです。球速、打率、守備範囲。定点観測して推移を見たいんです」
普通のマネージャーはそこまでやらない。俺は笑顔で言った。
「すげぇな。助かるよ」
内心では別のことを考えていた。こいつは記者気質だ。データを集め、分析し、矛盾を見つけることに快感を覚えるタイプ。管理対象に入れる必要がある。
園田杏の名前を、頭の中のリストに追加した。
部員名簿には書かない。この女の弱みは、まだ見えない。
◇
秋の新人戦を三連勝で終え、冬のトレーニング期間に入った。
株式口座の残高は一千五百万を超えていた。NVIDIAのデータセンター売上が前年比142%増。TSMCのHPC比率が58%に到達。すべて記憶通りだ。
あと一年で三千万に届く。審判を買い、情報を買い、人を壊すための実弾が揃う。
二月。練習試合の前夜。
部室の隅で、佐伯が吐いた。
白い液体。胃液に混じって、薄いピンク色の泡が浮いている。俺は佐伯の背中をさすった。
「大丈夫か。食あたりかもな。今日は早く帰れ」
「す、すんません……」
「気にすんな。明日に響かないほうが大事だ」
佐伯が帰った後、吐瀉物を処理しながら成分を確認した。胃壁の微細出血。回復剤βの副作用が、佐伯に最初に出た。体重の軽い人間から順に影響が出る。想定通りだ。
投与量を佐伯だけ七割に減らせば、あと一年は持つ。
壊れるのは甲子園の後でいい。
◇
三月。春の練習試合の後、園田杏が俺のところに来た。
「黒鉄先輩、一つ聞いていいですか」
「おう、なんだ」
「回復剤β、成分表がないですよね。黒鉄ファーマさんのHPを見たんですけど、該当する製品が見つからなくて」
一瞬だけ、左手の薬指が動いた。親指で擦る前に止めた。
「開発品だからな。まだHPには載ってない。気になるなら父さんに聞いてみるか?」
「いえ、大丈夫です。すみません、余計なことを」
杏は笑って引き下がった。
だが目が笑っていなかった。ノートを胸に抱えたまま、練習場に戻っていく。あのノートに、今の会話も書くのだろう。
管理対象。排除するか、泳がせるか。まだ決めなくていい。だが、この女は覚えておく。




