覚醒
130km/hの直球がミットに収まった。捕手が首を傾げている。
当たり前だ。今の球にキレがないことくらい、投げた本人が一番わかる。左足の踏み込みが浅い。肩の開きが早い。肘の角度が三度ほどズレている。
そこまで分析して、俺は自分の思考に違和感を覚えた。
三度。なぜ、三度とわかる。
マウンドの土を踏む感触が遠くなった。広島の春の空気が、一瞬だけモスクワの冬に変わる。零下二十度の地下室。コンクリートの壁に反響する悲鳴。椅子に縛りつけた男の肩関節が、ちょうど三度ずれた瞬間の手応え。
二十年分の記憶が、目の奥で弾けた。
俺は――誰だ。
黒鉄零。十六歳。灰谷高校一年、野球部。
違う。
セルゲイ・ヴォロノフ。五十三歳。旧ソ連国家保安委員会第二総局、尋問技術主任。
二十年、国家に忠誠を捧げた。その報酬が、後頭部への銃弾一発だった。
マウンドの上で、俺は目を閉じた。開いた。
広島県東広島市。灰谷高校のグラウンド。土埃の匂い。アルミバットが金属音を立てている。隣のコートでは女子テニス部が黄色い声を上げていた。
ここは日本で、俺は高校生で、今は二〇二四年の四月だ。
「おーい、黒鉄ー! 次の打者入るぞー!」
ベンチから声が飛ぶ。
俺はグラブを叩いて応えた。笑顔を作る。頬の筋肉を七ミリ引き上げ、目尻に皺を寄せる。好感度の高い笑顔の構成要素は、尋問対象の心理的防壁を解除するために百回以上練習した。
二十年の技術が、十六歳の顔に乗った。
「おっしゃ、いくぞー!」
声を張った。明るく、爽やかに。
次の打者がバッターボックスに入る。左打ち、体重移動が遅い、ステップが開く。内角高めの直球で詰まらせろ。
分析が自動で走る。止められない。俺の目は、もう十六歳の目ではなかった。
◇
練習後、部室でチームメイトを観察した。
十五人。弱小公立の野球部にしては多いほうだ。だが戦力として計算できるのは半分もいない。
一人ずつ、見る。
内野手の山根。肩が強いが守備範囲が狭い。練習中、監督の目がない瞬間にスマホを触っていた。依存傾向。利用できる。
外野手の村上。足は速いが打撃に難あり。ロッカーに隠した菓子パンの包装紙が三つ。ストレスの代償行動だ。家庭環境に問題がある可能性が高い。
そして、正捕手。
土岐隼人。
こいつだけ、目が違った。
がっしりした体格に日焼けした肌。短く刈った髪。練習中、一度も手を抜かなかった。他の部員がだらけている時間帯にも、一人でスローイングの練習を繰り返していた。
右膝を時折叩く癖がある。古傷だ。それでも走る。
目つきが鋭い。だが、裏がない。
こいつは「信頼」で動くタイプだ。
恐怖では折れない。利益では靡かない。だが、信じた相手のためなら限界を超える。
最も扱いやすい部類の人間だった。
「土岐」
声をかけた。土岐が振り向く。
「お前、中学のとき県選抜だったろ」
「……なんで知ってる」
「グラブの使い方でわかる。独学じゃああはならない」
嘘だ。部員名簿に書いてあった。だが「観察力がある」という印象を植えつけるほうが有効だ。
土岐の目が少し変わった。警戒が、興味に変わる。
「で、なんだよ」
「組まないか。俺が投げて、お前が受ける」
「もう受けてるだろ」
「違う。本気でやるって意味だ。甲子園を目指す」
土岐が黙った。三秒。唇の端が引き締まったのを見逃さない。こいつはこの言葉を待っていた。弱小公立に来て、誰にも言えなかった言葉を。
「……うるせぇ。投げろ。話はそれからだ」
口が悪い。だが目が笑っていた。
左手の薬指を、親指でゆっくり擦った。
使える。
◇
夜。自室で証券口座の開設手続きを進めた。
親の名義を借りる。黒鉄ファーマ社長の息子という立場は、この程度のことには十分に機能する。
銘柄はもう決めてある。NVIDIA。TSMC。二〇二四年から二〇二五年にかけて、AI関連株は二倍三倍に跳ねる。前世の俺は戦場にいて、銃しか持っていなかった。あの頃のロシアでは、株式口座より銃のほうが手に入りやすかった。
だが今は違う。
指先一つで、金が金を産む世界だ。
二年。二年あれば、すべてを揃えられる。
スマホを置き、机の引き出しから部員名簿を取り出した。
一人ずつ、名前の横にメモを書いていく。
山根――スマホ依存。アプリの使用履歴で管理可能。
村上――家庭問題。支援と引き換えに忠誠を買える。
佐伯――肘に違和感を隠している。回復手段を提供すれば恩を売れる。
ペンが最後の行で止まった。
土岐隼人。
三秒、考えた。
それから書いた。
信頼。最も扱いやすい。
ペンを置く。スマホを取り、父親に電話をかけた。
「父さん、相談がある。野球に本気で取り組みたい。設備投資をしてほしい」
電話の向こうで、父親の声が明るくなるのがわかった。息子が初めて何かに夢中になったのだと思っている。
夢中。そうだな。そう呼んでもいい。二度と、誰かの駒にはならない。今度は俺が盤面を支配する。
高校野球は、その第一歩だ。
電話を切り、窓の外を見た。広島の夜は静かだった。星が見える。モスクワでは見えなかった星だ。
左手の薬指を、親指で擦った。
хорошо。始めよう。
部員名簿の隣に、父の会社の製品カタログを広げた。開発中のサプリメント一覧。筋肉回復促進、関節保護、持久力向上。
どれも合法だ。今のところは。
ページの余白に、化学式を一つ書き足した。前世で、捕虜の体力を短期間で回復させるために使った配合だ。
黒鉄ファーマの設備なら、作れる。




