第49話 四天王ゼルネガル
森を抜ける手前で、魔人は足を止めた。大きな角を揺らし、ゆっくりと一礼する。
「申し遅れました。魔王軍四天王が一角――冥天ゼルネガル」
ラルヴィクが小さく呟く。
「……冥天ゼルネガル」
空気がわずかに沈む。ただの魔人ではない。四天王、その二つ名持ちだ。シーエンが目を細め、サリアも緊張を強める。ゼルネガルは苦笑した。
「魔王さまも、リーシアさまが“婚約者を決めた”という噂を耳にしておられます」
リーシアの眉がぴくりと動く。
「……噂よ」
「正式な任務は受けておりません。ただ、状況は知りたかったのです。リーシアさまの美貌と血統は、魔族領にとって象徴ですから」
森の空気がわずかに重くなる。
「魔族領では、あなたを巡り猛者たちがしのぎを削っております。本当に結婚なさるのであれば――魔族領の猛者を相手にすることになります」
視線がラルヴィクへ向く。挑発ではない、事実の提示だ。
リーシアは一歩前に出て、迷いなく言った。
「ラルヴィクさんならやれる」
静かな断言。ゼルネガルが一瞬言葉を失う。
ラルヴィクは淡々と答える。
「来るなら相手をする。それだけだ」
冥天ゼルネガルは数秒、静寂を見つめる。そしてふっと笑った。
「……なるほど。魔王さまが気にかけるわけだ。少なくとも私は、敵対するつもりはありません」
だがその目には、戦えばどうなるかを理解している者の光があった。
森の奥には、まだ四つの魔法陣。
一つ目へ向かう。
森を抜け、湿地帯へと足を踏み入れる。ぬかるんだ地面の草むらに、隠れるように刻まれた紋様が浮かび上がる。
「ここが一つ目です」
ゼルネガルが顎で示す。
ラルヴィクは魔法陣を見下ろす。
「四天王の実力で、この魔法陣から出てくるものを倒すことは可能なのか?」
ゼルネガルは軽く笑った。
「もちろんです。先ほどの量産型程度なら問題になりません」
リーシアが淡々と言う。
「ゼルネガルはこう見えて実力はあります」
「こう見えて、とは心外ですね」
軽口を叩きつつも、ゼルネガルの周囲に重い魔力が立ち上る。冥天の名は伊達ではない。
ラルヴィクは視線を魔法陣に戻す。
「俺以外が起動するとどうなる?」
ゼルネガルは肩を鳴らす。
「試してみましょう。では私が」
湿地の中央へ歩み出る。角を揺らし、ゆっくりと手をかざす。
魔法陣が反応する。
淡い光が巡り、空気が冷える。湿地の水面が波打ち、中央が沈み込む。
シーエンが低く呟く。
「さっきより反応が速いわ」
次の瞬間、泥を割って何かが立ち上がる。
ゼルネガルは一歩も退かない。
「……来ますよ」
湿地の空気が張り詰めた。
湿地の魔法陣が光を強める。泥が盛り上がり、その中心から一体の魔獣が姿を現した。
四肢は太く、全身が鎧のような甲殻に覆われている。重量感のある巨体だ。
ゼルネガルは一歩前に出ると、魔獣へ向けて手をかざした。その瞬間、黒い魔力が地面から立ち上がり、魔獣の全身を包み込む。
グオオオオオオオ……。
魔獣の咆哮と共に、膝が沈む。湿地が大きくめり込み、地面がひび割れる。
ゼルネガルは視線を外したまま、誇らしげに語る。
「私の能力は重量支配。対象にかかる“重さ”を自在に増幅する。例え静寂殿と似た構造を持つ魔獣であっても、この通りだ」
黒い魔力がさらに濃くなる。魔獣の甲殻が軋み、腕が地面にめり込む。
シーエンが目を見張る。
「空間を押してるんじゃないわ……対象そのものを重くしてる」
サリアも頷く。
「純粋な力押しではありませんね」
リーシアは満足げに言う。
「ゼルネガルはこう見えて、単純な能力ではないのです」
その間、ラルヴィクは一言も発さない。顎に手を当て、ゼルネガルの黒い魔力を凝視している。
「……ほぉ」
小さく漏れた声は、どこか嬉しそうだった。
ゼルネガルがちらりと視線を向ける。
「何か?」
ラルヴィクは目を細める。
「理屈が美しい。重さの“定義”を書き換えているな」
ゼルネガルがわずかに笑う。
「お褒めに預かり光栄です」
その時だった。
地面に沈み込んでいたはずの魔獣の指が、ゆっくりと動く。
黒い魔力の下で、確かに。
動いた。
地面に沈んでいた魔獣の甲殻が、ゆっくりと軋む。
その瞬間――ゼルネガルの足元が沈んだ。
「ん?」
黒い魔力が、今度はゼルネガル自身を包む。
「……え?」
次の瞬間、ゼルネガルの膝が折れた。
ドンッ、と湿地に叩きつけられる。
四天王が、這いつくばる。
「まさか……! 私を模した魔獣だとぉ!」
魔獣の周囲にも、同質の黒い魔力が発生している。重量増幅。しかもゼルネガルと同じ理屈で。
ラルヴィクは冷静に観察する。
「そのようだな。潰し合った場合、勝てるのか?」
ゼルネガルの額から汗が流れる。歯を食いしばりながら、重圧に抗う。
「ははは……四天王の実力……見せて……やりましょう……!」
湿地がさらに沈む。周囲の草木が押し潰される。
リーシアが一歩踏み出す。
「無茶をするな! 辛いんだろう!?」
ゼルネガルの腕が震える。地面にめり込みながらも、黒い魔力をさらに濃くする。
「……模倣程度で、冥天を名乗れると思うな……!」
だが、魔獣も同じく魔力を高める。湿地全体が沈降を始める。
シーエンが低く言う。
「これ、相殺じゃなくて倍加してるわよ……!」
サリアがラルヴィクを見る。
「ご主人さま……」
ラルヴィクはまだ動かない。観察している。
二つの重力が、ぶつかり合い、膨張している。
このままでは――湿地ごと沈む。
力がぶつかり合い、地面がきしむ。ゼルネガルと魔獣、同質の黒い魔力が空間を押し潰していた。
このままでは、相殺では終わらない。倍加だ。
ラルヴィクが一歩踏み出す。
「やめろ。魔力制御が粗い」
ゼルネガルが歯を食いしばる。
「静寂殿、割り込まないでいただきたい……!」
ラルヴィクは静かに言う。
「所詮は模倣だ。魔法の定義が甘い」
その瞬間、透明な魔力糸が地面に広がる。湿地一帯を、目に見えぬ線が覆う。
黒い重力と透明な糸が交錯する。
「重さは力ではない。条件だ」
ラルヴィクの指がわずかに動く。
ゼルネガルと魔獣の間に、透明な膜が生まれる。
重力が止まる。
正確には――流れが分断される。
魔獣側の黒い魔力が、空間の途中で途切れる。ゼルネガルへ届かない。
ゼルネガルの身体が軽くなる。
「……何をした」
「条件に干渉している。お前と同じ重さの系統だ。だから干渉できる」
魔獣の黒い魔力が乱れる。制御を失い、自身の周囲に集中する。
ラルヴィクがさらに指を動かす。
透明な糸が、魔獣の周囲の空間密度を書き換える。
「重さをかけるなら、かけ先を限定しろ」
次の瞬間。
魔獣の膝が沈む。
地面が砕ける。
だが今回は――自分自身にのみ圧が集中している。
甲殻が軋み、ひびが入る。
グオオオ……。
音はある。しかし逃げ場はない。
ゼルネガルが立ち上がる。重圧は消えている。
「……なるほど。境界を固定したのか」
ラルヴィクは淡々と答える。「重さは方向を持たない。だから流れを断てばいい」
魔獣の身体が限界を迎える。
黒い魔力が内側へと圧縮される。
そして――
崩壊。
魔力核も同時に崩れる。
湿地に沈み、動かなくなる。
ゼルネガルはゆっくりと肩を回す。
「四天王の実力を見せるつもりだったのですが」
ラルヴィクは軽く首を振る。
「十分見た」
リーシアが安堵の息を吐く。
「無茶をするなと言っただろう」
シーエンが苦笑する。
「本当に、理屈で殴る人ね」
サリアは小さく呟く。
「ご主人さま……やはり規格外です」
湿地には、崩れた魔獣と、消えかけの魔法陣が残る。
四つのうち、一つ目。
まだ、終わってはいない。




