第五話 陳列の美学(コレクター・ショーケース)【前編】
眠れない夜は、音が増える。
冷蔵庫の低い唸り、隣室の水道、遠いサイレン。
そしていちばん厄介なのが、鳴っていない通知音だ。
ピッ。
三笠陽菜は跳ね起きた。
枕元のスマホは沈黙している。画面も暗い。
なのに耳だけが、鳴ったことにしている。
「……幻聴」
言い切ったのに、胸の奥の息が浅い。
呼吸が戻るのが怖い。
戻ったらまた奪われる。
奪われると思うから、先に削っておこうとする。
自分の身体が、自分に“最短”を押し付ける。
昨夜、ホームのベンチに座って宣言したはずだ。
「私は、ここに着いた」
あの瞬間、確かに余白は戻った。
それでも余白は、薄い紙のように破れやすい。
指で触るだけで穴が空く。
スマホの画面を点ける。
白地に黒い塔の通知が、まだ残っている。
【次回入札:下北沢(共同体案件)】
下北沢。
趣味の街。古着の街。ライブハウスの街。
価値観が似た者同士が集まって、同じ言葉を共有して、同じ速度で笑う街。
共同体が美しいほど、外側は息苦しい。
陽菜は布団に戻れなかった。
“行かなければならない”という命令は、どこから来るのか分からない。
分からないから怖い。
でも、分からないなら解けない。
解けないなら、また外に原因を投げるしかない。
――行く。
陽菜はそれだけ決めた。
決めた瞬間、喉が少し楽になる。
決めることは余白だ。
余白は、盾になる。
朝の下北沢は、まだ眠りの匂いが残っている。
路地の角に貼られたフライヤーの紙は湿って、インクが少し滲んでいる。
古着屋のドアには、昨夜の雨が乾ききらない水滴。
コーヒーの香りに、古い革と洗剤の匂いが混ざる。
人の歩く速度が、新宿より少し遅い。
遅いのに、“揃っている”。
揃っている速度は、優しさの顔をして暴力になる。
陽菜はスマホの地図を開かなかった。
最短がまた爪を立てる。
代わりに、路地の気配で歩いた。
音楽が漏れる店。
紙の匂いが濃い店。
ガラス越しに、物の“並び”だけが見える店。
そして、見つけてしまった。
古いビルの二階。
階段の踊り場に、手書きの小さな札がある。
黒いインクで、几帳面な文字。
【展示中/関係者以外立入禁止】
“展示中”という言葉が、肌を撫でた。
展示。
見せる。並べる。固定する。
固定――。
陽菜の足が止まる。
止まると、胸の奥で通知音が鳴る気がした。
ピッ。
「……行けってこと?」
誰に。
何が。
理由を外に求める癖が、舌先に甘く浮く。
甘いときほど危ない。
陽菜は手すりを握り、階段を上がった。
二階の廊下は薄暗い。
蛍光灯の白が、わざと色温度を落としているみたいに沈んでいる。
ドアの隙間から、紙と木の匂いが漏れていた。
ノックする前に、ドアが少し開いた。
手が見えた。
白い指。爪は短く、指先が乾いている。
その手が、ドアノブを握る角度が正確すぎて、妙に怖い。
「……入札の人?」
声は若い。けれど温度がない。
陸奥の冷たさと違う。
陸奥は人間の冷たさだ。
この声は、物の冷たさ。
「……はい」
陽菜は頷いた。
「入札って、何ですか」
「説明を求める人は、展示に向かない」
言われた瞬間、陽菜の背筋に薄い汗が浮く。
“向かない”という言葉は、共同体の排除だ。
そして排除は、最適化の始まりだ。
「でも、私は……」
「入って」
手だけが合図した。
陽菜は、足を踏み入れた。
部屋は、静かすぎるほど整っていた。
棚。箱。ラベル。透明なケース。
缶バッジ、カセット、古い語源辞典、レコード、フィギュア、鍵束、切符、紙片。
物が、物として尊重されている。
同時に、物が“役割”に縛られている。
匂いがする。
紙の酸。ビニールの甘さ。乾燥剤の粉っぽさ。
そして、整頓された部屋に特有の、息苦しさ。
顔は見えない。
部屋の奥の明かりが逆光で、人物は影になっている。
けれど手だけが、よく動く。
手が一つのケースを撫で、埃を取る。
埃を取る動きに、愛情がある。
愛情があるほど怖い。
愛情は、固定を肯定するからだ。
「あなた、何を集めてるんですか」
陽菜が言うと、影が一瞬止まった。
「集めてるんじゃない」
「……じゃあ」
「救ってる」
救う。
その言葉が、甘く響いた。
救うは正しさの言葉だ。
正しさは刃だ、と陸奥が言った。
「物は、散らかされると死ぬ」
影の声が淡々と続く。
「雑に扱われると、役割を失って、ただのゴミになる」
「……」
「だから、正しい場所に置く。正しい順番で並べる。正しい名前で呼ぶ」
乾いた指が、ラベルを指す。
【A-14:1998年/下北沢/雨/来客】
ラベルが、記憶の墓標みたいだ。
「人も同じ」
影が言った。
「正しい場所に置けば、幸せになる」
陽菜の喉が乾く。
幸せという言葉ほど怖いものはない。
幸せは、異論を許さないから。
「……私が、ここにいるのも」
「うん」
「正しい場所?」
「君は、速度に逆らえる。珍しい。だから――」
影の手が、机の上の透明な箱を開いた。
箱の中は空だ。
空なのに、空白じゃない。
空の形が、もう決まっている。
「ここ」
陽菜は一歩下がった。
身体が拒否する。
拒否すると、理由を外に求めたくなる。
「……こわい」
陽菜の声が漏れた。
「でも、逃げたくない」
昨夜と同じ言葉。
同じ言葉が出るのは成長ではない。
成長は、その次の一歩だ。
スマホが震えた。
鳴っていないはずの通知音が、今度は確かに鳴った。
ピッ。
画面に文字が浮かぶ。
黒い塔のアイコンではない。
ガラスケースのようなアイコン。
【展示開始】
【あなた:展示物として最適配置します】
息が浅くなる。
余白が削られる。
削られた余白の代わりに、見えないラベルが胸に貼られる感覚がした。




