第四話 時間泥棒の市場【後編】
帰り道、新宿の夜は相変わらず派手で、美しい。
ネオンが空気中の微粒子を散らし、光が霧のように浮かぶ。
街は放熱板みたいに、誰かの焦りを捨て続けている。
陽菜はスマホを握って歩いた。
握るな、って陸奥は言った。
でも握ってしまう。
握ると安心する。
安心は罠だ。
駅の構内に入った瞬間、案内板の矢印が増えた気がした。
ただの錯覚。
そう思うのに、矢印はやけに“こちら”を向いている。
スマホが震えた。
見覚えのない通知。
白地に黒い矢印のようなアイコン。
【未払い時間:42分】
【徴収します】
【最短のため】
陽菜の喉が鳴った。
広告? 詐欺?
理由を外に求める快楽が、舌の上に甘く広がる。
――誰かが悪い。
――アプリが悪い。
――都市が悪い。
――私は悪くない。
その瞬間、胸の奥が少し楽になる。
楽になるから怖い。
楽になるのは、責任を手放した証拠だから。
改札を抜け、ホームへ降りる。
電車の到着案内が光っている。
【まもなく】
陽菜は待った。
十秒。二十秒。
呼吸の間が、やけに短い。
吸う。吐く。
その間が削れる。
削れるたびに、焦燥だけが増える。
案内板は、ずっと【まもなく】のままだった。
“まもなく”が、永遠になっている。
永遠になると、希望ではなく徴収になる。
まもなくは約束だ。
約束が守られないと、人間は自分を責め始める。
陽菜のスマホがまた震える。
【未払い時間:43分】
【徴収継続】
【最短のため】
「……増えてる」
息が浅い。
余白がない。
余白がないと、考えが極端になる。
極端になると、他責が甘くなる。
「ふざけないで……!」
声に出した瞬間、周囲の人が振り返った。
陽菜はすぐに目を逸らした。
恥ずかしさは、社会の札だ。
札が貼られると、役割が固定される。
――落ち着け。
――説明を探せ。
陽菜の手癖が働く。
検索。定義。原因。外。
でも、検索しようとした指が震えた。
画面の文字が揺れる。
揺れは涙ではない。
酸欠だ。
呼吸の間が奪われている。
呼吸という余白が奪われると、身体は「急げ」しか言えなくなる。
そのとき、案内板の端が僅かに滲んだ。
滲んだ矢印が、増える。
矢印が集まり、ひとつの影のような形になる。
人型ではない。
都市の導線が、そのまま意思を持ったみたいな影。
影が、音を出した。
「最短」
それだけ。
それだけで、背骨が冷えた。
言葉が短いほど、命令は強い。
短い言葉は、説明を許さない。
陽菜は思い出した。
陸奥の断言。
「正解は、私を守らない」
桐島の生活の一撃。
「寝ないと、まず“明日”が盗まれる」
盗まれているのは明日だけじゃない。
いまの呼吸。
いまの余白。
いまの「立ち止まる権利」。
陽菜の心が三段階で追い込まれていくのが分かった。
――他責の快楽。
誰かが悪い。都市が悪い。私は悪くない。
快楽は甘い。甘いから目が眩む。
――他責の恐怖。
外が原因なら、私は何もできない。
何もできないなら、ずっと徴収される。
ずっと「最短」に運ばれて、ずっと余白を削られる。
――自己原因の救済。
原因が内側なら?
原因が「最短を信じた自分」なら?
怖い。責任が戻る。
でも、手が届く。
手が届くなら、折れる。
影がまた言う。
「最短」
陽菜の喉から、短い声が漏れた。
「……こわい」
普通の二年生の声だった。
格好よくない。
でも、格好よくない声の方が、身体に残る。
「でも、逃げたくない」
息が浅いまま、陽菜は立ち上がった。
矢印の影に向かってではない。
影のルールから外れるために。
陽菜は、唇だけを動かした。祈りじゃない。仕様の読解だ。
「……“最短で”を信じた人間の時間が、“最短”の名の下に徴収される」
声にしてしまった瞬間、影の輪郭が少しだけ濃くなる。
言葉にされた条件は、もう隠れられない。
影は「最短」だ。
最短は、距離があるから成立する。
距離があるから運ぶ者が必要になる。
運ぶ者が必要になるから、徴収が発生する。
なら、距離を消せばいい。
遠回りするのではない。
最短を拒否するのでもない。
最短が成立しない状況を作る。
陽菜はホームのベンチに座った。
座るという行為が、いまは革命だ。
急げと言われているのに座る。
最短の圧力から外れる。
影が揺れた。
矢印が軋む。
成立条件が擦れる音。
陽菜はスマホを伏せなかった。
見ないふりをしない。
代わりに、見ないことを選ぶ。
「……急がされる方が、もっとこわい」
胸の奥が痛んだ。
痛みは輪郭だ。
輪郭ができると、言葉が出る。
「正解は、私を守らない」
陸奥の声が、記憶の中で冷たく響く。
慰めない声。
逃げ道を塞ぐ声。
――運ばれるな。持ち上げろ。裏側に条件がある。
――折る。殴るな。
陽菜は息を吸った。
さっきより吸える。
吸えるのは、余白を取り戻したからだ。
余白を取り戻せば、矛盾を握れる。
陽菜は言い切った。
「――私は、ここに着いた」
世界が一瞬、黙った。
ホームの雑音が、膜一枚遠のく。
矢印の影が、言葉を失う。
その沈黙の穴に、陽菜は看板を打ち込む。
「最短じゃなくていい」
そして一文。
ここで読者が「この作品の型だ」と確信する一撃。
「正解は盾にならない。私が盾にするのは、矛盾だ」
影が揺れた。
揺れは悲鳴ではない。
条件が崩れる音だ。
陽菜は続ける。短く。刺す。
「最短で運べ? 運ぶな」
「最短で着け? 着いた」
「最短で返せ? 返さない」
スマホが震えた。
【未払い時間:44分】
数字が増えかけて――一瞬だけ、【0】になる。
ゼロ。
無い、ではない。成立しなくなったという数字。
次の瞬間、表示そのものが消えた。
勝利じゃない。処理完了の無音だけが残る。
陽菜は最後の取っ手を握って、静かに言った。
「“最短”は距離があるから成立する。
でも私は――距離を消した。
いまこの瞬間、ここが目的地だ」
影が、さらに薄くなる。
矢印がほどけ始める。
ほどける矢印は、美しい。
美しいのが怖い。
美しいものは、次も見たくなるから。
「送り主も宛先も、私だ。
だから、お前の役割が余る」
余る。
余るという言葉は、都市にとって死刑宣告だ。
都市は余白も余剰も嫌う。
余る役割は、存在を許されない。
影は音を出さなかった。
悲鳴も怒りもない。
ただ、成立条件を失って、ふっと消えた。
静寂が残る。
勝利ではない。
処理完了の静けさ。
処理が完了しても、世界は直らない。
世界はまた次の最適化を始める。
案内板が、普通の【まもなく】に戻った。
今度は本当に、電車が来た。
まもなくが約束に戻ると、人間は安心する。
安心が罠だと知っていても、安心してしまう。
電車に乗り込む人波の中で、陽菜はふらついた。
息が戻ってきた反動で、涙が出そうになる。
泣きたくない。
泣くと、また外に原因を投げそうになる。
陽菜は小さく言った。
「折れろ。成立するな」
言い切ると、涙は引っ込んだ。
代わりに、胸の奥に冷たいものが残った。
それは勝利の余韻ではなく、都市の底冷えだ。
* * *
部屋に戻ると、スマホが一度だけ震えた。
見覚えのないアイコン。白地に黒い塔のマーク。
前に見た気がする。
配達の夜。辞典の夜。あの系譜の匂い。
【登録完了】
資源ID:HINA-MIKASA
【評価】矛盾処理:S
成立条件破壊:適性あり
【出品】次回入札:下北沢(共同体案件)
陽菜の喉が乾いた。
文字が、紙幣みたいに冷たい。
評価。出品。入札。
市場だ。
怪異の市場化は、噂ではなく現実だった。
陽菜は震える指で画面をスクロールした。
下の方に、項目がある。
【注意】
資源は自我を持つ可能性があります。
管理者の監査対象となる場合があります。
監査。
その言葉が、背中を撫でた。
撫で方が冷たすぎる。
「……私が……商品?」
声が掠れた。
普通の二年生の声に戻っている。
戻った声の方が怖い。
戻れると思ってしまうからだ。
同じ時刻。
どこかの小さな部屋。
机の上には缶バッジ、カセットテープ、古い語源辞典、レコード、ラベルの揃った箱。
収集と陳列の完璧なルーティンの匂い。
材質の手触りが、整頓された美学として積まれている。
顔の見えない誰かが、黒い塔の通知画面を眺めて、笑った。
「いいね。……“速度”に逆らえる子は、使い道がある」
笑い声は軽いのに、空気の密度が上がる。
趣味は優しく見えて、固定を好む。
固定は、世界を展示物にする。
新宿の窓の外で、ネオンが瞬いた。
星の代わりに。
正しさの代わりに。
そして陽菜のスマホの画面は、まだ消えないまま光っている。
【次回入札:下北沢】
“帰ってくる場所”を作るために、都市は今日も札を配る。
役割を配る。
そして余白を徴収する。
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