第四話 時間泥棒の市場【前編】
時間というものは、目に見えないくせに、身体にだけは確実に爪を立てる。
人間の脳は、夜の暗さでメラトニンを作って眠気を育てる。けれど新宿の夜は、暗さを許さない。青白いLED、画面のブルーライト、駅の案内板の白。光は「昼のふり」をして、脳の化学反応を騙す。
騙されたまま迎える朝は、いつも遅刻の匂いがする。
三笠陽菜は、アラームを一回で止めた。
止めたのに、指がもう一度鳴った気がして、目が開いた。
「……いま、二回?」
壁の時計を見る。秒針が一歩進んだあと、もう一度同じ場所を踏む。
――カチ。
――カチ。
同じ地点で、二回。
陽菜の背中に薄い汗が浮く。
起き抜けの脳は、理由を外へ投げたがる。
壊れてる? 時計が? 電池? 安物だから?
そうだ、きっとそれだ。
そう思えば、怖くない。
でも陽菜は知っている。
こういう「確かに見たのに、説明が追いつかない」違和感は、いちばん厄介だ。
説明が追いつかないと、脳は勝手に穴を埋める。
穴を埋める材料は、だいたい恐怖だ。
スマホが震えた。
通知が十件。
大学のグループチャット、バイトのシフト変更、未返信のメッセージ、なぜか「おすすめの最適化」みたいな広告。
陽菜はベッドから起き上がる前に、画面を見てしまう。
――見てしまう。
それが自分の欠落だと分かっているのに。
「了解です!」
「すみません、確認します」
「承知しました」
テンプレ返信を選ぶだけで、指が迷う。
迷っている間に、時間が溶ける。
時間が溶けると、呼吸が浅くなる。
呼吸が浅くなると、さらに焦って、もっと選べなくなる。
陽菜は息を吸った。吸えたはずなのに、胸の奥に空気が入ってこない。
肺ではなく、頭の方が酸欠になっている気がした。
「……私は時間を使ってない。時間に使われてる」
短く言い切ると、少しだけ地面ができる。
地面ができても、足は動かない。
足が動かないから、また画面を見る。
通知は増える。
増えるたびに、世界は「早く」を強くする。
早くの圧力は、血圧に似ている。じわじわ上がって、ある瞬間に自分の身体の音がうるさくなる。
洗面所で顔を洗う。
水が冷たい。冷たさだけが確かだ。
確かなものに触ると、少しだけ正気になる。
その正気で、陽菜はまたスマホを見た。
「遅延情報:○○線」
画面をスクロールしていると、駅の利用案内がポップアップした。
【推定遅延:あなたのせい】
――一瞬。
次の瞬間には、普通の「推定遅延:混雑のため」に戻っている。
陽菜の喉が鳴った。
いまの、見間違い。
寝不足の錯覚。
そうだ、そうに違いない。
それでも、胸の奥に痒みが生まれる。
痒みは怖さの前触れだ。
怖さはいつも、外から来るふりをして、内側で育つ。
* * *
新宿駅は朝のうちから満腹だ。
人という粒子が、案内板の矢印に沿って流れる。矢印は見えない重力みたいに人間を引っ張る。
最短。最適。最小。効率。
矢印の言葉はいつも同じ方向を指している。
改札を通るとき、ICの音が――遅れて鳴った気がした。
ピッ、と鳴ったはずなのに、胸の奥にもう一度だけ同じ音が残る。
残響みたいに、言い訳みたいに。
陽菜は振り返らない。振り返った瞬間、世界が「遅い」を貼ってくる気がした。
陽菜は立ち止まりそうになって、周囲の流れに押される。
立ち止まると、後ろから「早く」の圧が来る。
圧は怒鳴らない。
圧はただ、背中を押す。
講義に滑り込んだ。
椅子に座った瞬間、心臓が遅れて落ち着く。
けれどノートを取ろうとした指先が震えた。
震えは寒さではない。
時間に追われ続けたときの、身体の震えだ。
黒板の言葉が、頭に入ってこない。
「アカウンタビリティ」「ガバナンス」「エビデンス」
外来語の骨が、脳を擦る。
辞典を思い出す。
匂いのない外来語辞典。
あれが「言葉の骨」なら、いま教室に飛んでいるのは「言葉の粉」だ。
粉は吸い込むと肺に残る。
午後、バイトの時間が近づく頃には、陽菜の呼吸はさらに浅くなっていた。
空気は入っている。
なのに、入っていない気がする。
余白が削られている。
呼吸の間だけが、誰かに徴収されているみたいに。
* * *
夜。
カフェ《ミツバチと塔》のドアベルは、いつも通りの高さで鳴った。
同じ音は安心だ。
安心なのに、今日は音が少しだけ遅れて聞こえた。
チリン。
……
チリン。
二回鳴ったわけではない。
余韻が、二回目みたいに残った。
陽菜は自分の耳を疑い、疑う自分を嫌悪した。
カウンターの奥に、陸奥がいる。
濃紺のエプロン、乾いた指先、体温のない静けさ。
正しさを語るほど声の温度が下がる人。
「お疲れ」
「……お疲れさまです」
陽菜はいつもより小さく返した。
声の大きさは余白だ。余白がないと声は小さくなる。
エプロンを締め、手を洗い、作業に入る。
注文が飛び、泡が立ち、カップが鳴る。
日常の手順は救いだ。
救いなのに、今日はその手順にすら追われる気がする。
閉店に近い時間、客足が切れた。
店の空気が琥珀色に沈む。
その沈み方が、今日は妙に重い。
陸奥がカップを拭きながら言った。
「君、息が浅いな」
慰めではない。診断だ。
陽菜の肩が僅かに跳ねた。
「……寝てないだけです」
「寝ないと、世界が薄くなる」
「世界が?」
「余白が消える。余白が消えると、矛盾が見えなくなる」
陽菜は言い返そうとして、喉が乾いた。
矛盾。
陸奥はその言葉を、倫理ではなく技術のように扱う。
「君、まだ“正解”を盾にしようとしてるな」
陸奥の視線が刺さる。逃げ道を塞ぐ角度だ。
「……だって、正解なら――」
「正解は、私を守らない」
短い断言が、胸の奥の痒みを切った。
陽菜は一拍、言葉を失う。
その沈黙が、息の穴になる。
読者の座席みたいに。
「都市の正解は、刃だ。向きのいい刃は手に馴染む。だから人は握る」
「じゃあ、何を握れば」
陸奥はカップの縁を指先で一度だけ撫でた。熱を測るみたいに。
「矛盾だ」
「矛盾って、間違いでしょ」
「違う。矛盾は“間違い”じゃない。成立条件の取っ手だ」
「取っ手……」
「運ばれるな。持ち上げろ。裏側に“条件”がある」
言葉の刃が、短文で連続する。
短いから深い。
短いから逃げられない。
「……条件を見たら?」
陽菜の声が震えた。
震えは怖さだ。怖さは正常だ。
陸奥は正常を慰めない。
「折る。――殴るな」
それだけ言って、陸奥はスプーンを置いた。
カチン。
音が冷たい。
冷たい音は、正しさのように残る。
「そんなの、私にできる?」
「できるかどうかは才能じゃない。信じた矛盾の強度だ」
陸奥は淡々と続けた。
「君が自分から逃げる限り、盾は薄い。君が握ると決めた瞬間、盾になる」
そして少しだけ間を置いて、乾いた声で言い足す。
「名前を付けるなら――矛盾の借用語だ」
「……」
「外来語辞典から矛盾を借りて、成立条件を書き換える盾」
説明はそこまでだった。
それ以上語らない。
語らないことが、陸奥の流儀だ。
そのとき、ドアベルが鳴った。
夜の静けさを割るように、軽い音。
桐島環が入ってきた。
黒いパーカー、裸足にサンダル、目の下の薄い隈。
笑うのに目が笑わない隣人。
「まだやってたんだ。蜂の巣、残業中?」
「閉店間際だ」
陸奥が冷たく返す。
「へえ。じゃあ、今夜は“高い話”しよ」
桐島はカウンターに肘をつき、陽菜を見た。
「ねえ、陽菜ちゃん。今いちばん高いのって何だと思う?」
「……知らない」
「時間」
桐島は笑う。笑うのに目が醒めている。
「金じゃない。美貌でもない。時間。都市はそれを一秒ずつ量って、値札貼ってく」
「そんなの、誰が」
「誰でもないよ。みんなで。みんなが“急げ”って言うから、急ぐのが正義になる」
「正義、って……」
「うん。正義。遅い奴は悪。即レスできない奴は悪。締切に遅れる奴は悪。――ほら、値札の裏に“罪”が書いてある」
桐島は煙草を取り出しかけて、やめた。代わりに指で空中に値札の形を描く。
「都市って優しいよ。ちゃんと見せてくれる。『あなたの一時間=この程度』って」
「……やめて」
「やめない。だって、やめたら見えなくなる。見えない値札の方が高く取られる」
陽菜は反論できない。
できないのは、言葉が正しいからではない。
身体がすでにそれを知っているからだ。
息が浅い。余白がない。
値札は胸の中に貼られている。
桐島は陽菜の顔を一瞬だけ見て、目を細めた。
「最近、息が浅いでしょ」
「……」
「それ、徴収されてる。目に見えない時間を、まず呼吸から持っていかれる」
桐島は笑いも哲学もやめて、生活みたいに言った。
「……だからさ、今夜はちゃんと寝な。寝ないと、まず“明日”が盗まれる」
その直後。
レジ横の時計の秒針が、一瞬だけ二回鳴った。
――カチ。
――カチ。
陽菜の胃が冷える。
陸奥は何も言わない。
桐島は気づいたのか気づいていないのか、肩をすくめるだけだった。
閉店作業を終え、陽菜が上着を着る頃、桐島が軽く言った。
「そういえばさ。最近、時短って言葉、やけに“買い手”がいるんだよね」
「買い手?」
「うん。……欲しい人がいるってこと。欲しいって言うか、腹を空かせてるって言うか」
桐島は曖昧に笑った。
「陸奥さんの店、蜂が集まるでしょ。甘い匂いがするから」
「甘い匂いは、だいたい罠だ」
陸奥が淡々と言う。
「罠でもいいんだよ。罠に引っかかるのが、都市の娯楽だし」
桐島はそう言いながらも、目だけが醒めたままだった。
市場。
流通。
評価。
その言葉を露骨に出さないまま、空気だけが臭う。
湿った紙幣の匂いではなく、乾いたデータの匂い。
誰かが何かを売り買いしている気配。
それが怖いのは、暴力じゃないからだ。
暴力は敵だと分かる。
取引は、日常の顔をして近づく。




